劉敏:蔣琬と並び称された才人、興勢の戦いで魏軍を退ける

一般武将4

劉敏(りゅうびん)とは?蔣琬と並び称された才人で、曹爽率いる魏の大軍を退ける

青年期の劉敏と蔣琬

蔣琬の外弟である泉陵の劉敏(りゅうびん、字は不詳)は、若くして蔣琬と共に名声を得ていた。 後に蜀に仕え、劉禅の時代に左護軍・揚威将軍の官職に昇進した。

興勢の戦いでの奮戦

延熙七年(244年)、魏の大将軍曹爽が長安を出発し、十余万の兵を率いて駱谷から蜀に侵攻してきた。
一方の蜀軍は、漢中の守備兵が三万に満たないという悲しい現実であった。

議論の場では、「出撃しないで城を固めてじっと待てば、魏軍もそのうち飽きて帰るだろう」と、まるで雨宿りのような策や「漢中と楽の二城を守っておけば、涪の救援が来るさ」といった他人任せの希望を語った。
戦略会議というより、「出撃しない言い訳」を持ち寄る言い逃れコンテストと化していた。

しかし、ここで立ち上がったのが左護軍・揚威将軍の劉敏である。彼は怒りを含んだ声で「今、人々は外で働いてる。田畑には作物が育ってる。もし敵を侵入させたら、国家の事業はすべて失われる。」と断言した。
つまり、「家も畑も敵に明け渡して何を守るつもりか」ということだ。これには鎮北大将軍の王平も深く頷き、「劉敏と杜参軍は先に興勢を押さえ、自分は後軍として支えよう。もし敵が黄金沙川を回って進むなら、そのときはこっちで千人引き連れて迎え撃つ」と提案した。こうして、蜀の「待つよりも動く」という決断が形となった。

劉敏は興勢に進軍し、数多くの旗幟を掲げて陣容を誇示した。その様は、まるで蜀の山間に蜃気楼のごとく現れた大軍勢。実際には数こそ少なかったが、魏軍から見れば百余里に渡る旗の波は大軍のように見えたことだろう。王平は背後を固め、黄金沙川にも防衛線を設けるという手堅い布陣を敷いた。
補給線は山谷に阻まれ、魏軍は進むことも退くこともできない。結果として、その大軍は重さゆえに補給路の維持に失敗し、威勢だけが空を舞うこととなった。蜀軍の「幻の大軍作戦」は見事に的を射ていた。

やがて大将軍・費禕が涪から救援に到着する。魏軍は撤退を余儀なくされ、蜀は漢中を守り抜いた。劉敏と王平の判断がなければ、この戦は確実に漢中陥落の危機を迎えていただろう。
劉敏はその功績により雲亭侯に封ぜられた。記録は少ないが、この一戦で彼が刻んだ痕跡は、後世の歴史家の筆に深く残った。

彼のような人物がいたからこそ、蜀はもう少しだけ夢を見られたのかもしれない。

参考文献

劉敏(蜀漢)のFAQ

劉敏の字(あざな)は?

劉敏の字は不詳です。

劉敏はどんな人物?

蔣琬と並び称された才人です。

劉敏の最後はどうなった?

没年は記録がなく不明です。

劉敏は誰に仕えた?

劉禅に仕えました。

劉敏にまつわるエピソードは?

興勢の戦いで守備に徹する意見を退け、野戦を提案したことが有名です。これにより魏の曹爽軍を退け、蜀を救いました。

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