【1分でわかる】劉纂:書法の名声、孫権の娘を妻にした謎多き重臣【徹底解説】

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1分でわかる忙しい人のための劉纂の紹介

劉纂(りゅうさん)、字は不詳、出身は不明、生没年不明

劉纂は呉の重臣で、同時代を代表する書法家としても名を残した人物であるが、字も没年もない謎が多い人物である。
孫権の娘を二度妻に迎え、皇族との縁戚関係を持つ立場にあった。官職は車騎将軍にまで昇進し、反乱の鎮圧や北伐などで軍事的にも大きな役割を果たした。
嘉禾四年(235年)には、廬陵や南海などで起こった大規模な叛乱に副将として参加し、呂岱・唐咨と共に平定に成功している。 その後、仮丞相朱拠が処刑されると、その妻であり孫権の末娘であった孫魯育を後妻として迎えた。
五鳳二年(255年)、劉纂の妻であった孫魯育は讒言によって処刑される。 太平元年(256年)には北伐に従軍し、孫峻死後の政変では、呂拠が自害に追い込まれる事件に関わった。

その後も孫休・孫皓の時代を通じて車騎将軍を務め、蜀の滅亡後には晋への備えを怠るべきではないと進言したが、採用されなかった。
また、劉纂は書の名手としても知られる。葛洪は彼を皇象・岑伯然・朱季平と並べ、呉を代表する書家と称え、中原の鍾繇や張芝らと比肩する存在と評価した。政治・軍事・文化の三分野で大きな足跡を残した謎が多い呉の重臣である。

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劉纂を徹底解説!呉の四代に仕え、波乱の政変を生き抜いた呉の将軍と書法家の姿

孫権の娘を娶った劉纂の前半生

劉纂の若い頃の事跡についてはないが、最初の登場が強烈で、妻が孫権の娘だったというのである。 この縁組は彼が呉において特別な地位を持っていたことを示すものだが、妻は早くに亡くなり、長くは続かなかった。
嘉禾四年(235年)、廬陵の李桓、路合、会稽東冶の随春、南海の羅厲らが同時に叛乱を起こした。このとき孫権は鎮南将軍呂岱に討伐を命じ、劉纂と唐咨はその副将として従軍した。随春はすぐに降伏し、呂岱は彼を偏将軍に任じて軍勢を与えた。一方で李桓と羅厲は討ち取られ、その首級が建業へ送られた。
この戦功により、劉纂は呉の将軍としての地位を確立したといえる。

孫魯育を後妻に迎える

赤烏十三年(250年)、呉の丞相・朱拠が二宮の変に巻き込まれ、孫権の命であっけなく命を落とす。 朱拠の妻は孫権の末娘の孫魯育で夫を失いった後、時を置かずして劉纂に嫁いだ。
つまり劉纂は、二度にわたり孫権の娘を妻に迎えることになった。孫家にとって、彼は「外戚としてふさわしい」と判断され続けたのだろう。

政変と北伐、呂據の最期に関わる劉纂

建興元年(252年)、十歳の孫亮が即位すると、国の舵取りは年若き皇帝ではなく、諸葛恪と孫峻という二人の重臣へと移っていった。 彼らが立つ一方、宮廷内は剣呑な空気に包まれ、混迷の時代が幕を開ける。 五鳳二年(255年)、将軍孫儀が孫峻暗殺を謀るも、計画は露見。関係者は皆殺され、粛清の波は予想を超えて広がった。 彼の妻である孫魯育は、姉・孫魯班の讒言により謀反の罪を着せられ、何の落ち度もないままに処刑されたのである。権力の渦中で、劉纂は肉親の命を奪われ、喪失の只中に立たされた。 太平元年(256年)八月、孫峻が魏討伐の北伐を発し、劉纂は車騎将軍として呂拠・文欽・朱異・唐咨ら歴戦の将たちと共に従軍した。 しかし、その翌月、孫峻は病に倒れて死去し、孫綝が政権を握った。 新たな権力者・孫綝は北伐軍に帰還を命じたが、これに反旗を翻したのが呂據であった。呂據は軍を率いて孫綝の専横を討たんと計画し、密かに蜂起を準備する。 だが、孫綝も黙してはおらず、詔勅を偽して文欽・劉纂・唐咨らに呂拠討伐を命じる。命に従った劉纂の軍勢もまたその一翼を担い、呂拠はついに包囲され、自刃に追い込まれ一族も滅ぼされた。

孫休・孫皓時代の劉纂とその提言

孫休の治世においても、劉纂はなお車騎将軍の職にあり、呉の軍政において一翼を担い続けた。彼の名は戦場にあって威を揮い、政論にあって理を語るものとして、やがて孫皓の時代に至るまで変わることはなかった。

蜀が滅んだとき、江東の朝廷では動揺が走った。今後いかに晋と対するべきかが、最大の政治課題として浮上する。重臣の陸凱は和を説き、戦を避けるべきだと進言した。だが劉纂はもう一つ進んだ道を唱える。

「天が授けた五つの才のうち、兵を取り去ることはできない。策略で競い合うのは古来の道理だ。欠けているからといって、棄ててよいものではない」

間諜を派遣して晋の情勢を探り、機を見て行動すべきであると進言した。

孫皓はこの進言を表面上は容れる素振りを見せたが、結局、実質的な策は講じられぬまま、呉は晋との外交を断絶する道を歩む。やがてこの選択が、国を滅亡へ導く伏線となった。
以降、劉纂の記述はない。

劉纂のもう一つの顔

劉纂という人物の輪郭は、戦略だけでは描き尽くせない。
書の世界だ。
丹陽の葛洪は、劉纂を皇象・岑伯然・朱季平と並べて「呉の四大家」と称し、中原の鍾繇や張芝らと肩を並べる存在と評した。

武と文、その両方で名を残す将軍は稀である。劉纂はまさに、戦場と書机の両方に足跡を刻んだ希有な人物であった。

参考文献

劉纂のFAQ

劉纂の字(あざな)は?

劉纂の字は伝わっておらず、不詳です。

劉纂はどんな人物?

劉纂は呉に仕えた重臣であり、軍事面だけでなく書法家としても高い評価を受けた人物です。冷静な判断を持ち、晋との関係においても警戒を怠るべきでないと進言しました。

劉纂の最後はどうなった?

孫皓期まで車騎将軍の職を保っていたことは記録に残っていますが、その後の事跡や最期については史料に伝わっておらず不明です。

劉纂は誰に仕えた?

劉纂は孫権の時代から仕え、孫亮・孫休・孫皓の代まで呉の重臣として活動しました。

劉纂にまつわるエピソードは?

嘉禾四年(235年)の叛乱平定に副将として参加し、また太平元年(256年)には北伐軍の一将として従軍しました。さらに書法においては葛洪から高く評価され、呉を代表する書家の一人に数えられています。

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