1分でわかる忙しい人のための劉基の紹介
劉基(りゅうき)、字は敬輿(けいよ)、出身は揚州、生没年(184年頃~233年)
劉基は後漢末から三国時代にかけて呉に仕えた政治家である。父は揚州刺史を務めた劉繇。
若くして父を亡くすと、喪に服して礼を尽くし、旧臣からの贈り物も受け取らなかった。
孫権の下で東曹掾として登用され、輔義校尉・建忠中郎将を歴任した。呉王時代には大司農を務め、顧雍とともに張温を称賛するなど政治に関わった。酒宴の席で虞翻が無礼を働き、孫権が殺そうとした際には、孫権が堯・舜のような徳を備えるよう諫めた。
孫権が皇帝に即位した黄龍元年(229年)には光祿勳に昇進し、平録尚書事を兼ねて政務にあたった。彼は孫権を補佐しつつ、呉の政治を安定させた名臣であった。
劉基を徹底解説!劉繇の長子、孫権に仕えを光禄勳にまで出世した隠れすぎた名臣
劉基とは?少年時代と孫権政権下での初期仕官
劉基の父は揚州刺史を務めた劉繇で、弟には劉鑠と劉尚がいた。
その系譜は、前漢の斉孝王劉将閭(漢の高祖・劉邦の孫)に遡るという。
十四歳で父を病で失うと、劉基は幼くして喪に服し、日々礼を乱さなかった。その姿は周囲の者たちを感嘆させ、旧臣からの贈り物もすべて辞退したという。
太史慈が劉繇の旧臣を孫策の麾下に加えていた後も、弟たちと共に暮らし、夜遅くに寝て朝早く起き、妻妾でさえ彼の顔を見ることは稀だった。弟たちは彼を父のように敬い仕えた。無闇に交友関係を広げることはせず、彼の家には雑多な客が訪れることもなかった。
誠実、慎み、そして孝行。若き日の劉基には、後の才幹を支える土台がすでに備わっていた。
劉基が仕官の道を歩み始めたのは、建安二十四年(219年)孫権が驃騎将軍に任じられた時のことである。 若くして抜擢され、まずは東曹掾に任じられた。この職は文官登用を司る重職であり、容姿も端正で、孫権からも目をかけられるが、劉基が政務の才を早くから見込まれていたことを示すものだ。
さらに輔義校尉、そして建忠中郎将と立て続けに昇進し、着実に中枢へと歩を進めていった。
大司農としての活躍と諫言
黄初二年(221年)、孫権が呉王に即位した際、劉基は大司農に任命された。職務にあたる中で、顧雍とともに張温の才を称賛するなど、同時代の人材に目を配る視点を持ち、単なる財務官ではなく、政治全体に目を向ける姿勢を見せていた。
呉王就任の酒宴の場で、騎都尉の虞翻が孫権に対して無礼な態度をとった。孫権は激怒し、その場で虞翻を殺そうとしたが、劉基は酒に酔った孫権を抱き止めて諫めた。
劉基は「大王、今ここで善士を斬れば、誰が大王に心を寄せましょう。徳をもって賢者を集めたのが、呉の礎ではなかったのですか」と訴えた。
これに対し孫権は、「曹操ですら孔融を殺した。虞翻を殺すことに何の問題があろうか」と反論する。
すると劉基はさらに、「ゆえに曹操は畏れられはしても、敬われなかったのです。大王は堯や舜と並ぶべきお方。なぜ自らを、曹操と同じ座に下ろされるのですか」と諫めた。
その言葉に孫権は態度を改め、その後は「酒に酔った後の殺害命令はすべて無効とする」と布告を出したのである。
また、暑い日に孫権が船上で宴を開いた際、雷雨に見舞われた。孫権は自分の頭上に蓋(大きな傘)を差し掛けさせると、劉基にも同様に命じた。他の者にはその待遇は与えられなかった。彼がどれほど厚遇されていたかがわかる。
呉成立後、光祿勳に任命
黄龍元年(229年)、孫権がついに皇帝に即位した。このとき、劉基は光祿勳(光禄勳)に任じられ、さらに平録尚書事を兼ねることとなった。光祿勳は宮廷内の重職であり、また尚書台の政務を統括する職務を兼ねることは、劉基が呉の中枢に深く関わったことを意味している。
彼は孫権の信任を受け、朝廷における決裁に関与し、呉の政権運営を安定させる役割を果たした。
その後、劉基は引き続き呉朝の要職を務め、233年頃に49歳で亡くなった。生涯にわたり孫権を補佐し、時に厳しく諫めながらも忠義を尽くした彼の姿は、隠れた名臣として記録されている。
参考文献
劉基のFAQ
劉基の字(あざな)は?
劉基の字は敬輿(けいよ)です。
劉基はどんな人物?
劉基は誠実で孝行に厚く、政治においても正論を述べて君主を諫めた人物です。特に孫権に対し、徳をもって君主たるべきと説いたことで知られます。
劉基の最後はどうなった?
劉基は光祿勳・平録尚書事を務めたのち、233年頃に亡くなりました。
劉基は誰に仕えた?
劉基は呉の孫権に仕えました。
劉基にまつわるエピソードは?
酒宴で孫権が虞翻を殺そうとした際、劉基が身を挺して止め、堯や舜のような徳を持つべきだと諫めた逸話が有名です。
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