1分でわかる忙しい人のための留平の紹介
留平(りゅうへい)、字は不明、出身は揚州會稽長山(現在の浙江省紹興市付近)、生没年(?~272年)
呉の将軍・留贊の子として生まれ、263年には丁奉と共に寿春を攻撃して蜀漢の援護に向かった。
その後も巴東太守羅憲への攻撃、征西将軍・左将軍への昇進を経て、政軍両面で呉の中核を担った。
王蕃処刑事件で助命を願い出るも叶わず、同年末には陸凱らが企図した孫皓廃位計画を拒否。
西伐では帰還案を巡って孫皓の怒りを買い、毒酒を盛られるが解毒薬で生還。
しかし精神的打撃は大きく、翌年に憂悶の末に病没した。
留平を徹底解説!孫皓への謀反を見逃し、粛清された忠臣の決断と苦悩
蜀救援と魏討伐:留平の戦場デビュー
263年、蜀漢が曹魏の圧力で、風前の灯となっていた。
それを見た呉は、同盟者たる蜀を見殺しにはできぬと援軍を決断した。だが、直接救援を送るのではなく、寿春を攻撃するという陽動作戦に出た。
丁奉と共に寿春を衝くことで、魏の兵力を分散させようとしたのである。留平もこの作戦に従軍したが、蜀は無情にも滅びたため、作戦は空振りに終わった。
翌264年、今度は逆に蜀の旧領に対して出陣することになる。
巴東太守・羅憲はもともと蜀漢の将であったが、滅亡後は魏に降っていた。
陸抗・歩協・盛曼らと共に、火事場泥棒よろしく攻撃に向かうも、戦果は芳しくなかった。
それでも留平はこの間に実績を積み、征西将軍から左将軍へと昇進していった。
王蕃処刑事件:忠臣の命乞いは届かず
266年、呉の王蕃が宴席で酒に酔い潰れてしまったことが事件の発端となる。
孫皓はこれを無礼と見なし、王蕃を一度退席させたが、酒が抜けぬまま再登場した王蕃にさらに苛立ち、その場で処刑を命じた。
それを見た衛将軍・滕牧と留平は「いや、それはさすがにやりすぎだ」と命乞いしたが、孫皓はまるで聞く耳を持たず。
こうして、優れた知識人として知られていた王蕃は、この日の宴会で命を落とした。
暴君の気分次第で命が飛ぶ。そんな時代の空気を、留平はまざまざと見せつけられた。
孫皓廃位計画と留平の選択
同じく266年末、陸凱、丁奉、丁固らが孫皓の廃位を企てていた。
祖廟参詣の隙を突いて、先帝・孫休の子を新たな君主に擁立しようという密謀である。
彼らは左将軍として兵を率いていた留平に協力を求めたが、留平はこれを断固として拒否した。
さらに「自分はこの件を他言しない」というだけで協力を得られず、計画は実行に移されることなく終わった。
政局に一石を投じる絶好の機会に背を向けたその姿勢は、忠義か、あるいは慎重すぎたか、この後を考えると微妙なところである。
西伐の頓挫と毒酒の陰謀
271年、孫皓は自ら西晋討伐に乗り出した。だが戦果は振るわず、むしろ兵の損耗と士気の低下が目立った。
このままでは国益を損ねると見た右丞相・万彧、右大司馬・丁奉、そして留平は、自軍だけでも先に帰還するべきだと協議し、行動に移す。
だがこの動きは漏洩し、孫皓の耳に入った。
怒りを抑えつつ静観した孫皓は、後日、宴の場を設けると万彧に毒酒を振る舞った。給仕役が量を加減したために即死は免れたが、万彧はその後、自ら命を絶った。
留平にも同じく毒が注がれたが、彼はその異変に気づき、事前に用意していた解毒薬を服用して難を逃れた。
憂悶の果てに:忠臣の静かな最期
命こそつなぎ止めたものの、精神の糸はもう戻らなかった。
毒酒を前にしても冷静を装った留平は、結局、毒よりも重い絶望を飲み干したのかもしれない。
およそ一ヶ月後、彼は病に伏し、そのまま世を去った。病名などないく、ただの「心の苦しみ」
忠臣であり、謀反にも手を染めず、主君の命に忠実だった男が、最期に得たものは「猜疑」と「毒酒」
その死は剣ではなく、言葉にもならない重さで訪れた。
だが、そうして散っていった者たちの上に、三国の時代は崩れ落ちていったのだ。
参考文献
- 参考URL:留平 – Wikipedia
- 三國志·呉書·王蕃伝
- 三國志·呉書·孫晧伝
- 江表伝
FAQ
留平の字(あざな)は?
留平の字は不明です。
留平はどんな人物?
呉に仕えた将軍で、軍事と政治の両面で活動した忠臣です。
留平の最後はどうなった?
西暦272年、毒酒事件を経て心労から病を得て、約1ヶ月後に亡くなりました。
留平は誰に仕えた?
呉の孫皓に仕えました。
留平にまつわるエピソードは?
孫皓の廃位計画を拒否した逸話があります。
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