廖化:関羽配下から蜀滅亡まで魏と戦い続けた将軍【すぐわかる要約付き】

廖化

1分でわかる忙しい人のための廖化の紹介

廖化(りょうか)、字は元倹(げんけん)、出身は荊州襄陽郡中盧県、生没年(?~264年) 廖化は蜀の後期を支えた将軍である。 初期には関羽の主簿として行動し、その後呉の支配下から脱出して蜀に帰還した。
劉備死後は諸葛亮に従って北伐に参加し、陰平太守や広武督として辺境防衛を担った。
延熙年間には宕蕈や王赟ら魏軍との戦闘で勝利を収め、後には姜維の軍事行動を支援しつつも国力消耗を憂慮する発言を残した。
景耀年間には右車騎将軍として高位に昇り、蜀の重臣として対魏戦線で活躍したが、蜀漢滅亡後に洛陽へ送られる途上で病没した。

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廖化の生涯を徹底解説!関羽死後、呉に降るも劉備の元に戻り、諸葛亮や姜維に従い最前線に立ち続けた将軍

関羽配下としての初期経歴

後漢末、廖化は関羽の主簿を務めていた。
建安二十四年(219年)、関羽は魏の樊城を攻撃し、荊州の兵力を北へ集中させた。策としては大胆だが、南の備えを疎かにした代償は大きかった。

その隙をついて、呉の呂蒙が南郡へ侵攻してくる。傅士仁・糜芳は抵抗せずに降伏し、南郡・公安・江陵といった要衝が次々と呉の支配下に入る。
退路を断たれた関羽は麦城に追い込まれ、最終的に捕らえられて戦死するに至った。

この混乱の中で、廖化もまた運命の転換を強いられる。主であった関羽が討たれ、荊州一帯が呉の手に渡った以上、地域に残された者たちには選択の余地はほとんどなかった。
廖化はその流れの中で、呉に服属する立場をとることになる。変化に適応するというよりも、状況そのものが選択肢を奪っていた。

蜀に帰還し劉備と再会する

廖化は呉に身を置きながらも、蜀への帰還を切望していた。 そこで彼は「死んだことにする」という奇策を思いつき、老母を伴って昼夜を問わず西へと旅を続けた。

事情が知れ渡ると、世間の反応は概ね好意的だった。 この旅は「死んだふりして、本当に死ぬかもしれない旅」という珍しい事例として歴史に刻まれている。

その後、東征中の劉備と秭帰で再会を果たす。思いがけぬ再会に、劉備は喜んだようで、廖化を宜都太守に任命するという高待遇を与えた。さらに別督として夷陵界に駐屯させる。
ところが、直後に劉備が陸遜に完敗してしまう。

戦が終わるころには、宜都郡も呉に回収され、ようやく戻った蜀でまた拠点を失うという、いかにも不条理な展開となった。

諸葛亮政権下での登用と北伐参加

建興元年(223年)、諸葛亮が府を開き政権を固めようとしていたころ、蔣琬が茂才に推挙された。だが彼は「いや、そういうのはちょっと……」と辞退し、代わりに推薦したのが、劉邕、陰化、龐延、そして廖化だった。
推挙された廖化は抜擢され、丞相参軍として諸葛亮の北伐に随行することとなる。

建興七年(229年)、第三次北伐が始まると、諸葛亮は陳式に命じて武都郡と陰平郡を攻略させ平定したのち、廖化に「じゃあ、あとはよろしく」と言わんばかりに広武督の任を与え、さらに陰平太守も兼ねさせた。
軍事と行政の二足のわらじをこなし、いつの間にやら、彼は「よく働く男」としての地位を固めつつあった。

諸葛亮亡き後の辺境統治

延熙元年(238年)九月、廖化は守善羌侯・宕蕈が立てこもる営寨を攻めた。すると魏は早速反応し、雍州刺史の郭淮が広魏太守・王赟と南安太守・游奕を東西から送り込む。

挟撃された廖化は敵軍を分断して各個撃破し、游奕の軍を追い払い、王赟は戦中に矢を受けて命を落とした。模範解答を返したような形で魏の狙いを潰している。

延熙十年(247年)には、白虎文・治無戴ら羌族の王たちが魏を離れて蜀へと降った。
これに反応した郭淮が羌族を討伐したため、残った羌族を姜維が迎えに出る。
その翌年、廖化には成重山の築城が命じられ、討伐された羌族の一部を人質として取り込む任務を与えられた。
ところがそこに、再び郭淮が攻めてきて廖化は敗北する。ただし任務は放棄せず、胡族を繁県に移すという最低限の目的は達成した。

郭淮や鄧艾との攻防

延熙十二年(249年)、姜維はふたたび雍州へ進軍し、麴山に二城を築いて句安・李歆らに守らせたうえ、羌胡の民を糾合して魏を牽制しようとした。
この策に対して、魏は郭淮と陳泰を差し向ける。さらに陳泰は鄧艾を加えた布陣で輸送路と水源を絶ち、戦わずして城を干上がらせる戦法を選ぶ。救援に駆けつけた姜維に対しても直接はぶつからず、先に退路を断つという回り込みの手を打つ。
洮水まで軍を進めた郭淮が圧力を加えると、姜維は撤退を余儀なくされ、城に残された句安たちは孤立して降伏した。

しかし鄧艾はここで手を緩めない。姜維の再来を見越して白水に駐屯すると、三日後には廖化が南方から動いてくる。 鄧艾はこれを囮と読み、主力を率いて洮城に先着する。
その夜、洮城を押さえた魏軍の背後に、渡河して襲おうとした姜維が現れるが、すでに鄧艾が陣取っており、事は遅かった。
蜀軍はまたしても手を引き、廖化の投入も空振りに終わる。知略に長けた魏将たちの手のひらで、策がすり抜ける余地はなかった。

姜維への諫言

景耀二年(259年)、廖化は右車騎将軍に昇進し、假節と名誉職である并州刺史を兼ねる地位を得た。さらに中郷侯にも封じられ、その官位は張翼と並ぶ重鎮とされ、鎮軍大将軍・宗預を上回る序列に置かれた。

景耀五年(262年)、姜維が狄道へ出陣しようとした折、廖化はついに口を開いた。
「戦をやめねば自滅する。これはまさに伯約(姜維)のことだ。知略で魏を上回るわけでもなく、兵の数も敵に劣る。それでなお戦を止めぬのでは、もはや存続など夢物語でしかない。
詩に『自ら先んじず、自ら後れず』とあるが、今の状況はまっすぐ破滅へと歩んでいるようなものだ」

正論であったが、北伐に執念を燃やす姜維には忠言は響かなかった。 その冬十月、洮陽に進軍するが鄧艾と侯和で侯和で戦って敗れ、沓中へと退却した。
老将の声が、戦場の風に消えていった瞬間だった。

蜀漢滅亡と最期

景耀六年(263年)夏、魏が大軍を動かして蜀へ侵攻すると、廖化は張翼や董厥とともに迎撃にあたった。沓中に派遣されて姜維を援護し、そののち陰平を放棄して三軍を合流させ、剣閣に退いた。
この山岳要塞を前にして、魏の鍾会も攻めあぐねる。戦の大勢は傾きつつも、廖化たちは最後の防衛線で踏みとどまっていた。

だが、同年冬、蜀の主である劉禅が降伏の詔を発すると、廖化は張翼らとともに勅命に従い、涪県で姜維と合流して鍾会に投降する。

咸熙元年(264年)、劉禅は洛陽への移送を命じられた。
この時、董厥・郤正・張通・廖化・宗預・樊建・張紹らが従った。
しかし、廖化と宗預はその途上で病に倒れた。齢はすでに七十を越えていたと伝わる。

関羽の主簿から蜀の重鎮になり、国の終わりが迫ろうと彼は最後まで忠節を尽くし、「踏みとどまった者」として歴史に名を刻んだ。

参考文献

廖化のFAQ

廖化の字(あざな)は?

廖化の字は元倹(げんけん)です。

廖化はどんな人物?

廖化は忠誠心が強く、蜀への帰還では母を伴って危険な道を進み、後には辺境での指揮や対魏戦で粘り強い行動を示した人物です。

廖化の最後はどうなった?

咸熙元年(264年)、蜀滅亡後洛陽へ送られる途中で病死しました。

廖化は誰に仕えた?

蜀の劉備と劉禅に仕えました。

廖化にまつわるエピソードは?

自身を死んだことにして呉から脱出し、夷陵の戦いの時劉備の元に駆け付けました。

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