【1分でわかる】呂岱:交州を平定し、九十六歳まで生きた呉の大司馬【徹底解説】

呂岱

1分でわかる忙しい人のための呂岱の紹介

呂岱(りょたい)、字は定公(ていこう)、出身は徐州広陵郡海陵、生没年(161年~256年)

呂岱は孫権に仕えた呉の重臣であり、南方経営に大きな功績を残した将軍である。九十六歳まで生きた長寿の人物でもあった。
若くして中原の乱を避け江東に渡り、孫権に仕える。地方官から出発し、やがて軍事でも頭角を現し、交州・広州の支配を通じて南方を平定した。 特に士燮の子である士徽を討伐した強硬策は後世に議論を呼ぶ一方、周辺諸国を服属させることで呉の威勢を大きく広げた。
赤烏年間には荊州の統治や廖式の乱討伐を担い、晩年は大司馬にまで昇進。家族が困窮していた逸話や、二宮の変で孫覇を支持した点など、その評価は賛否が分かれる。
また、呂岱は実務に誠実で勤勉とされ、南方の安定に尽力した功臣として正史に記録されている。

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呂岱を徹底解説!孫権に仕え、地方の反乱や交州を平定し、士徽を討った地味な功臣の生涯

江東に渡り孫権に仕えた呂岱

呂岱は出身は徐州広陵郡海陵で、若き日は郡や県で吏として務めていた。
中原が戦乱に沈むと、呂岱は筆を置き、江東の地を目指す。曹操が徐州で大虐殺していた頃か、呂布と劉備が徐州を奪い合いしてた頃である。

やがて孫策亡き後、孫権がその志を継ぐと、すぐに才を見いだされ、呉郡の丞に任じられた。
その後、行政の才を評価されて余姚長へと昇進する。

呂合、秦狼らが東冶五県で兵を挙げると、孫権は即座に討伐軍を編成し、呂岱を督軍校尉として蔣欽とともに派遣して、呂岱は叛乱を平定する。その功で昭信中郎将に任じられ、武の面でもその名が刻まれることとなった。

建安十六年(211年)、呂岱は郎将尹異ら二千の兵を率い、益州へ向けて進軍。目的は漢中の五斗米道教祖・張魯を呉側に引き込むためであった。
しかし、張魯が「あやしいな」と疑念を持ち道を断ったため、軍は進めず計画は失敗、やむなく撤退している。

長沙三郡の攻略と交州刺史への昇進

建安二十年(215年)、呂岱は呂蒙の軍に従い、長沙三郡の攻略に参加した。彼が率いた軍は安成をはじめとする四県を降し、敵対勢力を次々と屈服させる。

しかし、戦乱の地には次なる火種が常にくすぶる。呉碭が攸県、袁龍が醴陵にて、それぞれ関羽と通じて反旗を翻す。魯粛は迅速に攸県へ出兵し、呉碭は追われるように逃走。
一方、呂岱は醴陵に攻め入り、袁龍を捕らえて斬首した。その功により、廬陵太守へと抜擢される。

延康元年(220年)、呂岱は歩騭の後任として交州刺史に任じられる。ここは呉の南方支配を担う最前線であり、文化も民心も中原とは異なる地。だが、呂岱はこの難治の地でも己が才覚を発揮する。

高涼の賊帥・錢愽が投降を申し出ると、呂岱は彼を高涼西部都尉に任じて懐柔し、逆らうのではなく治める道を選ぶ。次いで鬱林で夷賊が郡県を包囲すると、これを討伐し反乱を鎮圧した。
さらには桂陽・湞陽で王金が南海の境で蜂起したが、呂岱はこれも生け捕りにし、「都会を見物でもしてこい」と都へ直送した。
斬首・捕獲の数は一万を超え、交州の地に安寧を取り戻した。

これらの功績により、呂岱は安南将軍に昇進。節を仮され、都郷侯にも封じられる。軍事と統治、恩威の使い分け、そのどれをも的確にこなした将として、呂岱は呉の南を支える柱となった。

交州分割と士徽討伐の強硬策

黄武五年(226年)、交阯太守・士燮が死去。後継を巡って、南海はにわかに波立ち始める。
孫権は士燮の子・士徽に安遠将軍と九真太守を授ける一方で、交阯の太守には校尉・陳時を新たに任命。だが、士家に生じた不穏の芽を見逃さなかったのが呂岱であった。

彼は上奏して、交阯・九真・日南の三郡を「交州」として再編、刺史に戴良を推薦。同時に、海東四郡(蒼梧・南海・鬱林・合浦)を「広州」とし、自らその刺史を兼任すると提案した。孫権はこれを認め、南方支配の二重構造がここに誕生する。

だが、士徽は素直に従う器ではなかった。宗族の兵を動員し、海口に布陣して新任太守の戴良を拒絶。旧臣の桓鄰がこれを諫めたが、逆に殺されてしまう。兄・桓治とその子・桓発が報復の兵を挙げたが、力及ばず講和に終わる。
事態が進展しない中、呂岱は自ら出軍を願い出て許可を得ると、三千の兵を率いて海を渡り、合浦を経て戴良と合流した。

呂岱の到来の報に士徽の陣営には緊張が走る。ここで呂岱は策を弄して、旧知の士匡を「師友従事」として士徽のもとへ遣わし、「郡は渡せ、命は助ける」と降伏を勧告。士徽はこれを信じ、兄弟六人で肉袒(上半身裸の降伏の礼)して投降した。

その夜、呂岱は彼らを丁重にもてなしたと思いきや、翌朝には節(天子の使者の証)を掲げて詔書を読み上げ、罪状を列挙する。
号令とともに士徽兄弟は一斉に縛られ、その場で処刑し首は武昌に送られた。
士徽の残党、甘醴・桓治らが吏民を率いて反撃に出るも、呂岱はこれをも討ち果たし、士家の勢力は完全に壊滅した。

呂岱はこの功で番禺侯に封じられ、名実ともに南方の要となった。しかし、降伏を装って誅殺した手法は「信なき軍略」として、後世の批判を免れなかった。

南方経営と諸国への威令

士徽を討ち果たした呂岱は、そのまま勢いに乗じて南方制圧を推し進め、矛先を九真に向けた。激戦の末にこれを平定し、記録によれば斬った敵兵の数は万を超えたという。南中の地を踏みしめる呉軍の靴音は、戦慄とともに南方諸国の耳へ届き、扶南・林邑・堂明といった国々は相次いで朝貢を申し出てきた。

この南域における輝かしい戦果により、呂岱は鎮南将軍に任じられ、呉王朝の南方経営を一手に担う存在となる。
黄龍三年(西暦231年)、南方の反乱を鎮め尽くした呂岱は、孫権の命によって長沙の漚口へ召還された。呉の南部を統括してきたその手腕が、内地でも必要とされたのである。

だが、彼が内地に戻ったからといって戦が終わるわけではなかった。武陵の蛮族が蜂起すると、呂岱は太常・潘濬と共に出陣し、これを制圧する。さらに嘉禾二年(233年)には、故・潘璋の兵を引き継ぎ、陸口に駐屯。後には軍勢を蒲圻へと移した。

嘉禾四年(西暦235年)、廬陵・会稽・南海の三地でほぼ同時に賊徒が蜂起。呉国内が騒然とする中、孫権は呂岱に劉纂・唐咨らを預け、分進合撃を命じた。呂岱は各地に兵を差し向け、賊の一派・随春を直ちに降伏させると、これを偏将軍に任じて列将に加えた。他の賊徒たちも悉く討たれ、その首は都へ送られた。

戦後、孫権は詔を下し、呂岱の統率と軍略を称賛。呉の将としての重責を果たし続けた彼は老齢にしてなお第一線に立ち続けていたのである。

晩年まで前線に立ち、大司馬となり九十六歳で没す

赤烏元年(238年)、権臣の呂壱が粛清されると、孫権に呂岱、諸葛瑾・朱然歩騭の四人は、関わらなかったことを咎められた。だが老将は黙して答えず、己の職務に専念するのみであった。
翌239年、潘濬がこの世を去ると、呂岱は荊州の文書行政を引き継ぎ、陸遜とともに武昌に駐した。

やがて廖式が蜂起し、零陵、蒼梧、鬱林にまで火の手が及ぶと、呂岱は自ら兵を率いて出陣を願い出た。自ら軍を率いて進発し、星夜を分かたず戦場に立った。交州牧を命じられ、唐咨らの加勢得て一年の戦いの末に、臨賀の偽太守・費楊をはじめとする賊徒を斬首、郡県はすべて平定された。

赤烏六年(243年)、朱応と康泰を南海に遣わし、呉の威令を南の果てまで広げる。康泰は帰国後、『呉時外国伝』に百余国の風俗を記した。

赤烏九年(246年)、陸遜の没後、その後任に諸葛恪が立つと、武昌は左右に分けられ、呂岱は右部を監督する役に就く。まもなく上大将軍に昇進し、子の呂凱(蜀の呂凱とは別人)を副軍校尉とし、蒲圻の兵を預けた。孫亮が即位すると、大司馬の位を加えられ、呂氏の名声は武昌に轟いた。

五鳳三年(256年)、呂岱は九十六歳で没す。三国の乱世にあって、これほどの長命は稀である。遺言には質素な葬を求め、白木の棺、粗布の衣を以て送られた。

呂岱の逸話と評価

呉郡の徐原と親しく交わり、その才を早くから見抜いて侍御史に推薦した。徐原は忠義に篤く、呂岱の失を諫めることを厭わなかった。人はそれを讒言と見るも、呂岱は「徳淵(徐原の字)こそ、我が益友なり」と語り、その死を悼んで慟哭したという。

彼の生活は私事を捨てた清廉そのものである。交州にいた頃は家族に仕送りすらせず、妻子は飢えに苦しんだ。これを知った孫権は嘆息し、「万里の地より国に尽くす呂岱に報いず、我は何を以て君主たりうるか」と群臣に語り、彼の家に米と布を定期支給するよう命じた。

呂岱は年齢が八十超えても筆を置かず、馬にまたがり、政に親しむ日々を続けた。張承はその姿を「周の旦奭にも劣らず」と称え、「忠勤相先、労謙相譲」と賛辞を贈る。朝から晩まで文書に追われ、来客をもてなし、休まず働く呂岱の姿に、人々は敬意と驚嘆を隠さなかった。

だが同時に、士徽を欺いて斬った強硬や、二宮の変で孫覇を支持した行いは、後世に「信義を欠く」と批判を残すこととなった。

善政を行い、清節を保ち、忠を尽くしながら、一点の不義により、その名に陰りを残す。
これが呂岱という男の人生である。
功績は輝かしい。しかし、評価は常に「惜しい」で終わっている。

参考文献

呂岱のFAQ

呂岱の字(あざな)は?

呂岱の字は定公(ていこう)です。

呂岱はどんな人物?

呂岱は勤勉で実務に忠実な将軍であり、南方統治に大きな功績を残しましたが、降将士徽を欺いて処刑したことなどから「信義に欠ける」と批判も受けています。

呂岱の最後はどうなった?

五鳳三年(256年)、呂岱は大司馬の地位にありながら九十六歳で没しました。当時としては非常に長寿でした。

呂岱は誰に仕えた?

孫権をはじめとする孫氏政権に仕え、晩年には孫亮の時代に大司馬に任じられました。

呂岱にまつわるエピソードは?

信を語り、義を説いて旧知の士匡に降伏勧告を託しながら、翌朝にはその士匡の兄弟を詔で斬りました。このやり口は「戦略」とも言えますが、「信をもって遠きを撫す」とは程遠い振る舞いでした。

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