呂曠とは?黎陽の戦いと陽平降伏の内幕
黎陽の戦いと陽平降伏:呂翔の転身とその背景
呂翔(りょしょう)、字は不明、出身は東平、生没年不詳
呂翔はその生涯の大半を、袁紹という巨大な軍閥の傘下で過ごした。袁紹死後は、その子である袁尚に付き従い、勢力を再興すべく活動を続けていた。時に曹操と袁氏の対立が最も激化していた黎陽の戦いでは、曹操軍が一時的に退却する場面も見られた。
その戦局の隙を突くように、呂翔と呂曠は陽平という戦略的要地を押さえ、局地的な独立勢力として行動するようになる。黎陽の戦いで主力が乱れたことで、曹操側の防衛線が緩んだ一瞬を突いた形である。
だが、袁尚の劣勢と曹操の反攻が続くなか、呂翔は長期戦が自らに不利であると判断した。陽平という地を保ちつつ、比較的早期に曹操へ降伏を申し出る。この決断は戦国的合理主義にもとづいたものだったと見てよい。
投降後、彼はすぐに列侯として遇される。曹操にとっては、陽平の制圧と袁氏残党の分断を意味する成果であり、呂翔にとっても身命を保ったばかりか地位の安定まで手に入れる結果となった。
ただし、その後の記録が残っていないことから、呂翔は政権中枢で活躍することなく、静かにその後半生を終えたものと考えられる。戦乱に翻弄されつつも、機を見るに敏な生き残り方を示した、ある意味この時代らしい武将だった。
※呂曠の記事と同じです。
参考文献
- 参考URL:呂翔 – Wikipedia
- 陳寿《三國志》
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