【1分でわかる】呂蒙:呉下の阿蒙から開花して成し遂げた呉の最大功績【徹底解説】

呂蒙

1分でわかる忙しい人のための呂蒙(りょもう)の紹介

呂蒙(りょもう)、字は子明(しめい)、出身は汝南富陂、生没年(178年~220年)

呂蒙は後漢末期、孫権の麾下で活躍した武将である。
若き日は学問に縁がなく、粗暴で無鉄砲な性格であったが、孫権の勧めにより学問を志し、後に智勇兼備の将として成長した。
孫策の部将・鄧當を通じて孫家に仕え、数々の戦功を立てて出世した。
建安十三年(208年)の赤壁の戦いに参加し、周瑜の下で曹操軍と戦って勝利を収めると、南郡攻略で奇策を用い、曹仁軍を撃破。
さらに建安二十四年(219年)には白衣渡江の奇襲で関羽を破り、荊州を奪還するという大功を立てた。
冷静な戦略眼と部下・民衆を思いやる寛大さを兼ね備え、孫権からの信頼は厚かった。
病に倒れた際には孫権が自ら看病するほどであり、死後もその功績は高く評価され、呉の「四大都督」の一人として後世に名を残した。

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呂蒙を徹底解説!学問で己を変え、曹操から濡須を守り、白衣渡江で関羽を破った呉の名将

若き日の無鉄砲と孫策との出会い

呂蒙、汝南郡富陂の出身で、当時は名も金もない。
姉の夫である鄧当(鄧當)が孫策軍に仕えていたため、それを頼って江南へ転がり込む。

十五、六歳にして早くも血が騒ぎ、母に黙って鄧当の軍について山越討伐へと出発。
鄧当は腰を抜かさんばかりに驚き、当然、帰れと叱りつけたが、呂蒙の暴走は止まらない。
怒り狂う母の前でも、呂蒙は堂々と言い放った。
「貧しいままじゃ一生終わる。虎穴に入らずんば、虎児を得ずって言うだろ」
その覚悟に母も心を打たれ、ついに黙認するしかなかった。

しかし、そのまま終わるわけもない。
あるとき、鄧当の部下が「このガキが何様のつもりだ」と年少の呂蒙を侮辱されると、ブチ切れてその男を斬ってしまう。立派な犯罪者の出来上がりである。
さすがにこれはヤバいと逃亡したが、校尉・袁雄の助言で自首する決意を固め、孫策の前へ出る。

ところが孫策は、その行動に「ただの乱暴者」ではない胆力を見抜き、なんと罪を赦して近臣に取り立てる。数年後、鄧当が病没すると、張昭の推薦により、呂蒙がその職を継ぎ、別部司馬へと出世を果たす。

スタートは滅茶苦茶だったが、ここから呂蒙の名将街道が始まるのだった。

孫権の信任を得る

建安五年(200年)、孫策が急逝し、弟の孫権が後を継いだ。
新体制の始まりと同時に、兵制改革が始まり、小規模部隊はいずれ統合されかねない風潮があった。だが、ここで呂蒙、勝負をかける。

内緒で借金をして兵士に「紅い制服と脚絆」を支給する。
隊列を整え、声出しから所作まで訓練に訓練を重ねて、まるで一糸乱れぬ精鋭部隊に仕上げた。
いざ、視察の日。孫権が呂蒙の部隊を見ると、きっちり揃った装備、揃った動きで、まるで演武隊のような完成度だった。
これに「こうなるなら、兵を減らすどころか増やそう」と孫権は感心し、減らされるはずが増員されるという、まさかの大逆転を果たした。

その後、丹陽・豫章・廬陵の三郡で山越の反乱が起こる。呂範は鄱陽、程普は楽安、太史慈は海昏、そして治安最悪のエリアには、県の長官として周泰・韓当・呂蒙がそれぞれ放り込まれた。 反乱討伐で手柄を立て、平北都尉に任じられ、広徳県の長を兼ねた。

江夏の黄祖攻撃

建安八年(208年)、江夏太守・黄祖を討つ大遠征が始まった。
総大将は周瑜、そしてその先鋒に選ばれたのが、血気盛んな呂蒙だ。
ここで彼は若手の星から一流の殺陣師へと名を変えることになる。

黄祖の側近・都督の陳就が水軍を率いて立ちはだかると、矢の雨をかいくぐり、敵の指揮官めがけて一直線に突撃する。 そして見事、首をひと振りで斬り落とした。

指揮官を失った敵軍は総崩れとなり、黄祖も城を捨てて逃亡。
だがその背後に馮則の騎兵が迫っており、結局、黄祖の首も孫権軍の手に落ちた。

孫権は戦後、「この勝利は呂蒙の手柄によるものだ」と絶賛し、呂蒙は横野中郎将に任じられ、褒美として銭一千万を賜った。

赤壁から南郡奪取前の見識

建安十三年(208年)、赤壁の戦いで曹操軍を撃退した勢いそのままに、今度は南郡へ進軍する
周瑜の本隊に随行し、西へ西へと長江をさかのぼる。

その道中、ふらりと現れたのが益州の将・襲粛が「呉につくわ」と兵を引き連れ、自ら降ってきた。周瑜は「よし、その兵、呂蒙にくれてやろう」と言い出すが、まさかの異議申し立てをする。
「襲粛は義を重んじ、命がけでここまで来たんです。その兵を横取りしたら、彼の顔が立ちません。せっかく味方になるってのに、最初から信用を損ねてどうするんです?」と、ド正論を炸裂させる。これには孫権も「筋が通っとる」と大納得し、襲粛の兵は彼にそのまま戻された。

南郡奪取の智勇

南郡を巡る攻防戦、ここで呂蒙は「ただの脳筋じゃない」と全軍に見せつけた。
まず、周瑜が甘寧に「上流の夷陵に行っとけ」と命じたのが始まりで、甘寧は敵を牽制する任務に就いたが、曹仁は読んでいたかのように兵を回して、甘寧は包囲され、救援をもとめてくる。

他の将たちは「いやいや、兵少ないのに分けられるかよ」と後ろ向きだが、ここで呂蒙が手を挙げる。
「凌統を置いて、私と将軍(周瑜か程普)で向かいましょう。10日間は凌統が守れるはず。あと、三百人で山道に木を切って罠張らせ、。撤退ルートを潰して敵の馬も取ってしまいましょう。」という提案に周瑜は同意する。

呂蒙は先鋒として突撃し曹仁軍を圧し、夜、敵が撤退を図ると罠が発動する。
騎馬は進めず馬を捨てて逃走する。追撃の中、三百頭もの戦馬を得、甘寧を救出して凱旋した。その後、孫権軍は本丸の曹仁拠点を包囲し、1年にわたって戦い抜いて曹仁が撤退し、南郡は呉のものになった。

この戦で呂蒙は偏将軍に昇進、さらに県令も兼任。
若き日の突撃武者が、戦術で戦局を動かす将軍へと完全に進化した瞬間だった。

魯粛との酒宴、士別三日、即ち更に刮目して相待つべし

建安十六年(211年)、周瑜の死後、魯粛が指揮を継ぐこととなった。
途中、呂蒙の陣営を通りがかったが、彼にとって「呂蒙=武骨な槍バカ」程度に思っていた。
同行していた者から「呂将軍の功名は日に日に増しています。過去の目で見ず、一度訪れてみては?」という助言を受け、魯粛は呂蒙の屋敷を訪ねた。

呂蒙は酒宴を整え、丁重にもてなすし、盃が進むと、呂蒙は尋ねる。
「今、国境の向こうは関羽。万一の備えはお持ちですか?」
魯粛は「臨機応変に対応すればよかろう」軽く笑って答えた。 だが呂蒙は黙ってはいない。
「いま呉と蜀が蜜月に見えても、関羽は熊虎の如しで、野心を隠しているだけ。事が起きてから考えるのでは、火急に井戸を掘り始めるようなもの。今こそ、布石を打ち、備えを固めるべきです」

伝わるところによれば、呂蒙は五つの策(または三策とも)を列挙したという。しかしその中身は伝承の闇の中にある。魯粛はその一言一言に打たれ、席を立ち、呂蒙の肩を叩いて言った。
「呂子明、もはや昔日の “呉下の阿蒙” にあらず」
呂蒙は微笑んで答えた。
「士別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし」

この夜、魯粛は呂蒙の母を訪ねて礼を尽くし、固い友情を結んで別れたという。
この一連の出来事は、後の世に二つのことわざ「呉下の阿蒙」「士別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし」の起源として語り継がれた。

なお、この変化の根底には孫権の一言があった。
孫権は呂蒙と蔣欽にこう語った。
「君たちは今、政務を執り、将を率いている。軍務を盾にして学びを怠ってはならぬ。私は書を読み、智慧を得てきた。君らも『孫子』『六韜』『左伝』『国語』『三史』を読みなさい。光武帝も孟徳(曹操)も学問を好んだのに、なぜ君らは読まずして済ませるのか。」

この言葉を胸に、呂蒙は書を手に学び始め、群書を読み漁って見識を磨いた。
そしてこの魯粛との酒宴こそ、その学と武を合わせ持つ姿が鮮やかに現れた瞬間なのである。

孫権は後に「人は年をとっても成長する。呂蒙と蔣欽こそそれを体現している。富貴にあってなお学び、義を重んずる国士だ。」と言った。

第一次濡須口の戦い奇計

魏が廬江の謝奇を蘄春の典農とし、皖田郷に駐屯した。
この男、境界線という概念が薄いのか、ちょくちょく呉領へ侵入してきては騒ぎを起こす、完全なる迷惑系軍人である。
呂蒙はまず穏便に済ませようと使者を送り、降伏を促すも、謝奇はまるで聞く耳を持たず。
となれば話し合いは終了で、隙を見て一気に奇襲を仕掛け、謝奇軍を粉砕する。
敗走した謝奇の部下、孫子才や宋豪は観念し、老人や子供を連れて呂蒙のもとへ投降した。

建安十八年(213年)、曹操が十万の大軍を率いて濡須口に迫ってくる。
孫権は自ら出陣し、呂蒙をはじめとする主力を率いて迎撃態勢を整えるが、ここでまたしても呂蒙の戦略が冴え渡る。水口に塢(とりで)を築くべきだと進言し、守備の備えを精密に整えた。
「敵を退ければ、悠々と船に戻ればよいではないか。わざわざ塢など築かずとも」と他の将軍たちはそう主張した。

だが、呂蒙は一歩も引かない。
「兵というのは、常に鋭いわけではありません。もし不意に敵の歩兵や騎兵に押し込まれたら、水際に戻る暇もなく、退路を失います。塢は命綱です」
先を読む男の言葉に、孫権は深く頷き、塢の建設は決定された。 結果として、呉軍は強固な守りを築き、曹操の猛攻にもビクともせず、魏軍は攻めあぐねた末に撤退していった。

皖城の電撃戦、午前中に落とす

建安十九年(214年)、曹操は撤退に際して朱光を廬江太守に任命し、皖城へ駐屯させた。
朱光は田畑を開墾しつつ、密かに間者を放って鄱陽の賊将たちに内応を呼びかけていた。要するに、長期戦を見越して、周囲の掌握に本腰を入れていたのである。

この動きを察知した呂蒙は、すかさず孫権に進言する。
「皖城周辺の土地は肥沃で、敵がそこを拠点に根を張れば、兵糧は尽きず、曹操の影響力もさらに強まるでしょう。芽のうちに刈り取るべきです」
孫権は即断し、自ら軍を率いて出陣する。
軍議の場では、多くの将たちが「まずは土山を築き、攻城具を準備して…」と慎重な策を述べるなか、呂蒙が一歩前へ出る。
「土山も攻城具も日数がかかります。その間に敵は防備を固め、外援が来れば泥沼です。しかも今は雨期、長居すれば水が引き、退路も危うくなりましょう。
この城は構造が脆弱。いま全軍の勢いで一気に四方から攻めれば、半日で落とせます」

孫権は呂蒙の進言を採用。呂蒙は攻城の総指揮に甘寧を推薦し、自身は精鋭を率いて後詰に回る。
そして夜明けとともに太鼓を自ら打ち鳴らして突撃を開始。兵たちは怒濤の勢いで城壁に殺到し、なんと午前中のうちに皖城を落とした。
援軍として向かっていた張遼も、城がすでに陥落したと聞いて引き返すしかなかった。

戦後、孫権は感嘆して言う。「この戦、呂蒙の勲最たるもの、甘寧これに次ぐ。」
呂蒙は廬江太守に任じられ、配下の兵をすべて引き継ぎ、さらに尋陽の屯田六百戸と官属三十人を賜った。

しかし功績の余韻に浸る間もなく、今度は盧陵で賊が蜂起した。諸将が次々に討伐に向かうも、成果なし。そこで孫権がつぶやく。
「猛禽が百羽いても、一羽の鷹には及ばぬ」
再び呂蒙に白羽の矢が立ち、現地入りした呂蒙は、首謀者だけを的確に討ち、他の者は赦して平民に戻した。

零陵攻めと心理戦の妙

建安二十年(215年)、劉備が荊州を支配し、関羽が守将として鎮座するなか、孫権は呂蒙に命じて長沙、零陵、桂陽の三郡を西へ取りに行かせた。
呂蒙が二郡に書状を送ると、彼らは風になびくように降伏したが、ただ零陵太守の郝普だけは城に籠って降伏しなかった。呂蒙は長沙を平定したのち、軍を率いて零陵へと進軍する。
途中、酃(れい)という地で南陽出身の鄧玄之と出会う。 鄧玄之は郝普の旧友であり、呂蒙はその人柄を見抜き、密かに説得役として登用した。

そのころ劉備も黙ってはいなかった。関羽に三万の兵を授けて益陽にぶつけてくる。
孫権は陸口にあり、魯粛に命じて一万の兵で関羽を牽制させると同時に、呂蒙へ「零陵攻めをやめ、速やかに益陽へ帰還せよ」との急書を送った。

しかし呂蒙はその命をあえて隠し、夜中に将兵を集めて密議を開く。
「今、この城を落とせば荊州全体の勢いを制せる。ここで退けば、かえって敵に隙を与えるだけだ。」そして翌朝、攻撃の準備を整えつつ、呂蒙にこう語り鄧玄之に郝普を説得させた。

「郝子太(郝普)は忠義を尽くそうとするが、時機を誤っている。関羽は今、樊城で魏軍と戦い、援軍を割く余裕などない。 もし城が破れた後に捕らえられれば、老母が罪に問われる。これが本当に忠義といえるだろうか?」
鄧玄之は呂蒙の言葉をそのまま伝え、さらに「曹操は漢中を攻め、劉備は手一杯。救援など望めぬ」と虚報を添えた。 郝普はこれを信じ、「もはやこれまで」と降伏を決意する。

呂蒙は予め四人の将に命じ、各々百人を率いて城門の守備を引き継がせるよう準備させていた。 やがて郝普が降伏のため城を出ると、呂蒙は笑顔で迎え入れ、手を取って船に上がり談笑した。 その場で孫権の召還書を取り出し、「実はこれを隠していたのだ」と見せて大笑いしたという。
郝普はその書を読んで愕然とし、劉備が公安におり、関羽が益陽にいることを知って、自らが呂蒙の巧妙な計に陥ったと悟った。 恥ずかしさと後悔で涙したという。

呂蒙は零陵を平定したのち、孫河を守将として残し、自らは兵を率いて益陽へ進撃。 魯粛と合流し、関羽軍と対峙した。
その後、劉備は曹操の漢中侵攻を受け、劉備が和睦を申し込むと、孫権はそこで郝普らを帰還させた。湘水を境として分割し、零陵を劉備に返した。尋陽と陽新を呂蒙の封邑とした。

合肥の戦い撤退戦の奮闘

建安二十年(215年)、孫権は魏の合肥を攻めるべく大軍を率いた。
だが戦の最中、疫病が猛威を振るい、作戦は維持できず撤退を決断した。

孫権が逍遙津の北に差し掛かると、待っていましたとばかりに魏の名将・張遼が奇襲を仕掛けてくる。護衛は虎士(親衛隊)千余人のみであったが、蔣欽・呂蒙・甘寧・凌統の四将はひるまない。左右へ展開、馬上から矢を撃ち、突撃を跳ね返し、何度も魏兵を押し止める。
死線を幾度も越えた末、孫権はようやく長江へ退くことに成功し、呉軍は決定的な壊滅を免れた。

第三次濡須口の攻防戦

建安二十二年(217年)、曹操が長江を南下、大軍を率いて濡須口へ迫る。
ここを抜かれれば呉の中枢が危うい、まさに国運をかけた防衛線だった。

孫権は呂蒙と蔣欽を節度(指揮統括)に任じ、この地を死守せよと命じる。呂蒙と蔣欽はさっそく以前築いた旧城塢の拡張に取りかかり、万張の強弓と硬弩で防備を強化する。
曹操軍相手に、矢を降らせ、矢を受け、濡須が壁となり、徐盛が前線で踏ん張り、周泰が側面から加勢し、ついに反撃に転じた。 結果、曹操軍は撤退を余儀なくされ、濡須を守りきった。 この功により、呂蒙は左護軍・虎威将軍に任じられた。

関羽との対峙と荊州奪還構想

建安二十二年(217年)、魯粛が病没し、後任として陸口へ向かったのは、智勇兼備のベテランとなった呂蒙だった。
魯粛の軍勢一万余を引き継ぎ、ついでに漢昌太守も兼任し、管轄は下雋・劉陽・州陵となった。
その目の前にいたのが、長江を挟んで仁王立ちする関羽である。
「いやあ、勇将ってのは目力が違うな」では済まされない。呂蒙はその人物像と野心を冷静に分析し、密かに孫権へ上奏した。

「関羽はただの武人ではありません。あれは熊虎の器を持ち、覇道を歩む男です。いずれ必ず呉を脅かす存在となりましょう。我が方には若く才ある将が揃い、国力も上昇中。今こそ荊州を奪還すべきです。好機を逃せば、どれほどの知略を巡らせても、二度と取り返せぬ時が来ましょう」
孫権はついでに徐州を取る意向についても議論した。
だが「徐州は陸路で曹操と繋がっております。奪えても、騎馬隊が来ればすぐ取り返される。
それより関羽を討ち、長江全体を呉の背骨とすべきです」と即座に却下する。

こうして、荊州奪還は孫呉の国家戦略となった。だが、敵にその気配を悟らせてはならない。
陸口に着任した呂蒙は、あえて柔和な顔を見せる。
軍の鍛錬はしつつ、一方で関羽に贈り物を届け、言葉を尽くし、友好ムードを演出して、呉を警戒しないように慎重に立ち回った。

戦は始まっていない。だが、その準備はすでに整いつつあった。

白衣渡江の奇襲と荊州制圧

建安二十四年(219年)、関羽が魏の樊城を攻撃し、荊州の兵力を北へ集中させていた。
公安と南郡の守備は手薄で好機到来である。

呂蒙は孫権に進言する。
「関羽は北へ兵を割いておりますが、まだ南郡には警戒兵を残しています。
私が病を装って建業へ退けば、彼は安心して南から兵を引き、樊城に集中するでしょう。
そこを突いて長江をさかのぼれば、荊州は戦わずして我が手に落ちます。」

孫権はこの案を採用し、呂蒙は「あー、具合が悪いです。」を名目に後方へ下がらせる。
孫権はわざわざ公文書まで用意し、代わりにまだ無名の陸遜を後任に就けて、カモフラージュを完了させる。関羽はこれを信じ、警戒を解いて少しずつ兵を北上させていく。

その頃、魏の于禁が樊城に救援に現れるも、関羽はこれを撃破し大勝。
捕虜と戦馬を得て意気揚々、しかし湘関の米を勝手に奪って地元住民の恨みを買う。
「よし、いまが潮時」とばかりに、孫権軍が出陣し、呂蒙を先発として送り出す。

呂蒙は尋陽で精鋭を船に乗せ、兵士はすべて船室に伏せ、白い衣をまとった商人が表に出る。
そう、名高い奇襲「白衣渡江」の始まりである。
昼夜を問わず進軍し、長江沿いの関羽軍の哨戒所に到達するが、見張りの兵たちはまんまと油断しており、あっさり捕縛に成功する。
関羽は、背後で何が起きているかまったく気づかなかった。

呂蒙は南郡を目指す途中、公安の守将・傅士仁に狙いを定める。
使者には虞翻を抜擢し、傅士仁は最初、面会を拒否したが、虞翻は筆で仕掛ける。
「明君は禍を芽で摘み、智者は災を予測して備えるもの。
呂蒙の軍はすでに南郡へ向かっており、道は遮断されつつあります。
今この城に残れば、逃げ場もなく、助けも来ない。
戦えば一族を滅ぼし、降れば義を失う。私は将軍の安否を案じている。どうかご一考を。」

これを読んだ傅士仁、涙を流して降伏を決意。虞翻は「戦わずして得た兵力なので、そのまま城の備えとし、傅士仁を連れて行けば麋芳は降伏するでしょう。」と呂蒙に進言し、傅士仁を連れてそのまま南郡へ進む。

南郡太守・麋芳は最後まで抵抗する姿勢を見せていたが、傅士仁が現れたことで観念して降伏。
こうして戦うことなく呂蒙は荊州南部を制圧し、「白衣の軍勢」が残したのは、白旗の列であった。

関羽の瓦解と呂蒙の統治術

荊州の要地を一気に押さえられた関羽。
南郡、公安、江陵といった、彼の背後を支えていた拠点がすべて奪われたことで、戦場の前線にも激震が走った。

「家族が呉に保護された」との報が流れるや否や、関羽軍の兵士たちは動揺し、戦意を失う。
もはや守るものはない兵は、次々と脱走し、軍は瓦解した。
刃を交える前に敵を崩壊させた呂蒙の一手は、まさに智で斬る戦だった。

だが、呂蒙の真骨頂はそこからだった。
一夜にして得た大地にまず行ったのは、「軍紀の徹底」と「民心の掌握」だった。

「兵は城を奪うにあらず、民を奪うにあらず」
この一言を掲げ、兵に略奪を禁じ、違反者には容赦なく鉄槌を下した。
ある兵が、民家の笠を勝手に取り、鎧にかぶせただけで、呂蒙はその場で涙を流しながら処刑を命じる。法に私情は挟まない覚悟に将兵は震え上がり、以後は落ちていた物すら拾われなくなった。

だが呂蒙は恐怖だけで人を治めたわけではない。
民を敵と見なさず、老病を見舞い、貧者には衣と食を与え、各戸の安否を確認させた。
兵にも言い聞かせた。
「民は国の根なり。斬って支える幹はない」
その姿勢に、荊州の民は彼を征服者ではなく守護者として迎え入れるようになる。

さらに、関羽の収めた財宝・兵糧・文書に至るまで、国のものであって、私の手を汚すものではないと全てを封印する。この潔さに、兵もまた私欲を抑え、秩序を守った。そして、民が落ち着いた頃、関羽軍は完全に瓦解していた。退路を絶たれた関羽は、わずかな兵とともに麦城へ逃れたが、潘璋・朱然の追撃を受け、ついに父子ともに斬られる。

こうして、名将・関羽は滅び、荊州は完全に呉の支配下に入った。
刃ではなく、智と信で地を治めた呂蒙、その手腕は、まさに「武将にして宰相」だった。

孫権の厚恩と最期

荊州を平定した呂蒙の功績は、孫権のもとにただちに伝えられた。
孫権はその報を聞くと、座を立って喜び、満座の臣に言った。
「この大功は、すべて子明(呂蒙)の謀によるものだ。」

すぐさま南郡太守に任じられ、孱陵侯に封じられ、金五百斤に銭一億の褒賞が下る。
さらに虎威将軍として鼓吹の列を整え、軍勢を従えて帰還させた。 その栄光は呉国中に轟き、ついに呉における出世街道の最終地点に立った。
この時、江東の子どもたちで「呂蒙ごっこ」が流行ったとか流行らなかったとか。

だが、運命は非情だった。
呂蒙は長年の持病が悪化し、公安の内殿にて急に倒れた。 孫権はこれを聞くや否や、すぐに迎えを出して城内に運ばせ、自らの宮殿の一室に寝かせた。
「呂蒙がいなければ、今日の呉はなかった」と言い、国内に医者を募り、「もし呂蒙の病を癒す者あらば、千金を賜う」と布告した。

それでも病状は一進一退を繰り返した。 孫権は日夜その様子を気にかけ、しかし見舞いに行けば呂蒙の安静を妨げると憂い、 内殿の壁に小さな穴を開け、そこから呂蒙の容体を覗いたという。
呂蒙が食事をとると笑顔を見せ、再び衰えると沈み込み、夜も眠れなかったと伝わる。

やがて呂蒙の容体は急変した。 孫権は道士を呼び、星の下で祈りを捧げたが、ついに回復は叶わなかった。 建安二十四年十二月末(220年)、呂蒙は内殿で息を引き取った。享年四十二。

最期の言葉はこうだった。
「賜った金銀宝物は、すべて府庫へ返上せよ。これは国のものであって、私の物ではない。 また、葬礼には一切の飾りを禁ず。質素でよい」

その清廉な志は、最後の瞬間まで変わらなかった。

孫権はこの報を聞き、声を上げて泣いた。 「呂蒙を失うは、わが右腕を失うに等し」と嘆き、政務を数日間止めて喪に服したという。その後も呉の軍政では、呂蒙の治軍と学問の両立を理想とし、彼の手法が模範として記録された。

若き日に無学を恥じて学に励み、武勇と智謀で天下を動かした呂蒙。 その生涯はわずか四十二年であったが、孫権にとっては永く忘れえぬ忠臣であった。

孝と仁を重んじた人間性

呂蒙の真価は、戦場での武勇や智謀にとどまらず、その誠実な人間性にこそあった。

あるとき、呉の名将・甘寧が粗暴な言動から周囲と軋轢を生じ、孫権の怒りを買って処罰されそうになった。 このとき呂蒙は進み出て諫め、こう述べた。 「いま天下は未だ定まらず、戦を支える武将の存在こそが国にとって最も重要です。甘寧の才を罰してしまえば、国にとって大きな損失となりましょう。」 孫権はその言を受け入れ、甘寧を赦免。その後、甘寧は数々の戦功を立て、呉の柱石の一人となった。 呂蒙の進言が、一人の将を救い、ひいては国を救ったといえる。

また呂蒙は、かつての怨みにとらわれぬ徳をも備えていた。 江夏太守・蔡遺が若き日の呂蒙を侮ったことがあったが、後に孫権が「誰を太守とすべきか」と問うと、呂蒙は躊躇なく蔡遺を推挙した。 孫権は微笑しながら、「まるで祁奚(きけい)のようだな」と語った。 (※祁奚はかつて自らを讒言した仇を推薦した春秋時代の賢臣) これに対し呂蒙は、穏やかにこう答えた。 「人を見るにあたって、私情や旧怨を持ち込むべきではありません。国のためにその才を用いるのみです。」 その公正無私な姿勢に、孫権は深い感銘を受けたという。

後世に伝わる評価と祀られた名将

呂蒙の死後、その名声は時代を越えて語り継がれた。

ある日、孫権が陸遜と語らう中で、呂蒙について次のように評した。 「呂子明は若き頃、ただ胆力のみを頼みとする武将と思っていた。だが学問に励んでからは、深謀遠慮の士となり、その計略は周瑜に次ぐものであった。」 さらに、「関羽を討った計略においては、魯粛をも凌いでいた」とも述べている。 これらの言葉は、呂蒙が文武両道を極めた名将として、孫権から絶大な信頼を寄せられていたことを物語る。

やがて時代が移り、三国時代が終焉した後も、呂蒙の名は歴史の中で燦然と輝き続けた。 唐代においては「武廟六十四将」の一人として列せられた。 これは張遼・鄧艾・関羽・張飛・周瑜・陸遜といった当代随一の名将たちと並び称されたことを意味する。

さらに宋代の『宋史・礼志』には、宣和年間に祀られた「古代名将七十二人」の中にも呂蒙の名が記されている。 それは、彼が単なる一国の武将にとどまらず、「智勇兼備の理想的名将」として後世に尊ばれた証である。

参考文献

呂蒙のFAQ

呂蒙の字(あざな)は?

字は子明(しめい)です。

呂蒙はどんな人物?

武勇に優れながらも学問を好み、冷静な判断力と仁徳を兼ね備えた将です。

呂蒙の最後はどうなった?

建安二十五年(220年)、病を得て孫権の看病のもとで亡くなりました。

呂蒙は誰に仕えた?

孫策・孫権兄弟に仕え、周瑜・魯粛亡き後の呉の都督として活躍しました。

呂蒙にまつわるエピソードは?

魯粛との対話で「士別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし」と言った逸話が有名です。

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