1分でわかる忙しい人のための呂拠(呂據)の紹介
呂拠(りょきょ)、字は世議(せいぎ)、出身不明、 生没年(?~256年)
呂拠(呂據)は呉の大司馬呂範の次子として生まれ、父の死後その爵位を継いで将軍となった人物である。
山越討伐や樊城攻撃、東興の戦いなどでたびたび戦功を立て、孫権・孫亮の二代に仕えて活躍した。
太元元年(251年)には長江氾濫の災害対策で功績を認められ盪魏将軍に昇進し、軍事面で高く評価された。
一方で二宮の争いでは魯王孫霸を支持し、後の政治的立場に影響を残した。
晩年は孫綝の専横に抗して兵を挙げたが失敗し、「恥じて叛臣とはならず」と自ら命を絶ち、一族も誅滅された。
呂拠を徹底解説!父の後を継ぎ、呉を支えた男、大司馬呂範の次子が辿った波乱の生涯
呂範の後継として出仕
呂拠は呉の大司馬であった呂範の次子として生まれた。
父が病に臥した際、副軍校尉に任じられ、父の軍務を補佐した。若年ながら軍事を担い、将来を期待される存在であった。
その後、呂範が死去すると、呂拠は宛陵侯の爵位を継承し、安軍中郎将に任命された。これにより、正式に呉の将軍としての道を歩み始めたのである。
山越征伐と赤烏年間の武功
呂拠はしばしば山越討伐に従事し、そのたびごとに戦功を挙げた。
黄龍三年(231年)、太常潘濬とともに五谿を討伐し、再び功を立てたことで名声を高めた。
さらに赤烏四年(241年)、朱然が樊城を攻撃した際には朱異とともに出撃し、城外の包囲陣を破った。
この戦功により偏将軍に任じられ、馬閑右都督を兼ね、さらに越騎校尉へと昇進したのである。
孫権・孫亮政権下での活躍
太元元年(251年)、強風によって長江の水が逆流し、城門を浸水させる災害が発生した。
呂拠は大船を準備して被害を防ぐよう備え、その行動を孫権が賞賛し、盪魏将軍に任命された。
また、二宮の争いにおいては魯王孫霸を支持したため、史家裴松之から強く批判されている。
その後、孫権が病に臥した際には太子右都督に任じられ、孫亮が即位すると右将軍となった。
建興元年(252年)、魏の大将軍・司馬師が東興を攻めると、諸葛恪と共に呂拠は軍を率いる。
崩れた敵陣に、呂拠らは追撃し魏軍を大混乱に陥れ功績を挙げた。
翌年(253年)、諸葛恪が孫峻に殺害されると、呂拠は驃騎将軍に昇進し、宮廷の政務を担う地位に就いた。
寿春遠征と最期の自決
五鳳元年(255年)、魏の毌丘儉・文欽が寿春で反乱を起こす。孫峻の指揮のもと、呂拠は留贊と寿春に急襲したが、文欽が敗れて呉に降ったため、軍を撤退させている。 しかしその途中、高亭において魏の将曹珍と遭遇し、これを破る戦果を挙げた。
太平元年(256年)、孫峻は文欽の進言を受け、魏への進攻を企図して呂拠ら将軍を壮行した。呂拠の軍勢があまりにも整然と進軍する様子を見て、孫峻は自軍の威勢が劣るように感じ、苛立ちを覚えたという。その壮行の場で孫峻は急病に倒れ、まもなく死去した。
孫峻の後を継いだ孫綝が権力を握ると、滕胤を丞相に推薦するも孫綝は拒否される。 呂拠はその専横を憎み、滕胤と計り、孫綝を討とうとした。
これを察知した孫綝は文欽・劉纂・唐咨を派遣して呂拠を捕らえさせ、さらに孫憲を江都に配置して防備を固めた。
やがて呂拠の軍は劣勢となり、部下たちは曹魏への投降を勧めた。
しかし呂拠は「恥じて叛臣とはならず」と拒絶し、自ら命を絶った。
その後、一族も三族に及ぶまで誅滅された。数々の武功を立てながらも、政争に敗れて悲劇的な最期を遂げたのである。
参考文献
- 参考URL:呂拠 – Wikipedia
- 三國志 : 呉書十一 ・呂範伝 中國哲學書電子化計劃
- 三國志・呉書十九・孫峻伝 中國哲學書電子化計劃
- 三國志・呉書十九・孫綝伝 中國哲學書電子化計劃
- 三國志・呉書二・呉主伝 中國哲學書電子化計劃
- 三國志・呉書三・孫亮伝 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻077 – 维基文库,自由的图书馆
呂拠のFAQ
呂拠の字(あざな)は?
呂拠の字は世議(せいぎ)です。
呂拠はどんな人物?
呂拠は山越討伐や東興の戦いで戦功を立てた勇将であり、災害対策でも評価を受けました。一方で政争に巻き込まれ、魯王孫霸を支持したことで非難を受けました。
呂拠の最後はどうなった?
太平元年(256年)、孫綝に反抗して挙兵しましたが敗れ、「恥じて叛臣とはならず」として自殺しました。その後、一族も誅滅されました。
呂拠は誰に仕えた?
呂拠は呉の孫権とその子孫の孫亮に仕えました。
呂拠にまつわるエピソードは?
太元元年(251年)、長江が氾濫した際に大船を準備して被害を防ぎ、孫権から称賛され盪魏将軍に任じられました。
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