【1分でわかる】呂壱の最期:孫権の信頼と恐怖政治の実態【徹底解説】

呂壱

1分でわかる忙しい人のための呂壱の紹介

呂壱(りょいつ)、字は不明、出身不明、生没年(?~238年?)
呉の孫権に重用され、中書典校郎として中央と地方の文書監察を担った人物。
一方でその性格は險狠、法律を用いて他人を弾圧し、顧雍や朱據など高官を誣告するなど陰険な策謀家としても知られる。
潘濬や陸遜らの再三の諫言にも関わらず、孫権に長く寵愛され続けたが、最後は孫権の娘婿の朱據を虚偽告発したことが仇となり、孫権の怒りを買って処刑された。

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呂壱を徹底解説:孫権の信任を背景に、顧雍や朱拠を陥れた呂壱事件の全貌

呂壱の台頭:中書典校郎という特権ポストと孫権の信任

呂壱は孫権の側近中の側近として重く用いられ、「中書典校郎」という官職に任じられた。
これは単なる書類整理ではない。中央と地方をつなぐ文書を掌握し、官僚たちの動静を細かく監視できる、いわば特務機関のような存在である。
このポストは、情報と命令の中継地点であり、同時に人事介入の口実でもあった。文書を理由に人を裁くには、これほど都合のいい職もなかった。

だが、呂壱はそれを守るためではなく、「操る」ために使った。
政敵を法で縛り上げ、讒言で地位を奪う。法を遵守する姿勢を装いながら、実態は恫喝と粛清の連続だった。
こうした振る舞いに対し、潘濬・陸遜・太子孫登らの名だたる重臣たちは、何度も「アイツをどうにかしろ」と上奏していたが、孫権の耳には届かない。
とりわけ潘濬は「こんなやり方、もう黙ってられん」と思い詰め、「呂壱をぶっ殺す」ぐらいの覚悟で暗殺を視野に入れていたという。

権力の私物化と次々と起こす冤罪事件

まず標的になったのは建安太守・鄭冑。呂壱の門客が違法行為を働き、鄭冑がその者を殺害したことで、逆恨みを買った。
呂壱は報復として、孫権に対して鄭冑の罪を吹き込む。結果、鄭冑は即座に拘禁。
この時、潘濬と陳表が声を上げたことでようやく釈放されたが、危うく呂壱のワナにハマるところだった。

続いて江夏太守・刁嘉が標的となる。罪状は「謗訕」、今で言えば政権批判といったところか。
呂壱が「アイツが陛下の悪口を言っていた」と密告。孫権は全官僚に意見を求めたが、誰も呂壱に逆らえない。
全員が「それはけしからん」と同調する中、唯一反対したのが是儀だった。
「私はそんな話は聞いていない」。それだけを頑として譲らなかった。
このたった一言の堅持が、刁嘉を救ったのだった。

さらに、呂壱の野望は宰相・顧雍にまで及ぶ。彼を排除すれば次は潘濬が宰相になると吹き込んだのは、黄門侍郎・謝厷だった。
ところが呂壱は潘濬を恐れていた。「潘濬が来るくらいなら顧雍でいいや」とばかりに、手を引いた。
つまり呂壱の正義は、彼が勝てる相手にだけ向けられたのだ。

朱拠への冤罪が引き金に、呂壱の最期

呂壱が最後に仕掛けたのが、左将軍・朱拠への誣告だった。彼は孫権の娘婿であり、本来ならば簡単に疑われる立場ではない。
それにもかかわらず、呂壱は「軍の資金を着服している」と断じ、朱拠の幕僚を捕らえて厳しく拷問した。
その結果、幕僚は命を落とす。
朱拠はその死を悼み、自ら墓を建てて弔ったが、それがかえって「やましい気持ちの表れ」と解釈された。
潔白を信じる朱拠は抗弁せず、自ら身を拘禁し、孫権の裁断を待った。

だが、さすがの孫権もここでようやく目を覚ました。
「朱拠ですら誣告されるのなら、他の官僚や庶民がどうなるというのだ」
そう憤り、呂壱を直ちに収監。審問には、かつて誣告された宰相・顧雍が任じられた。
顧雍は怨みに任せず、むしろ静かに礼をもって尋ねた。
「言い残したいことはあるか?」
呂壱は何も答えず、ただ黙って地に頭を打ちつけて涙を流すばかりだった。
そこへ尚書郎・懐敘が怒鳴り込み、激しい言葉で呂壱を罵倒したが、顧雍はこれをたしなめた。
「官が果たすべきは、正しい法に則った裁きだ。私情を挟んではならぬ」
このときの顧雍の振る舞いは、節度と分別に満ちており、呂壱とは対照的だった。

孫権の誤算と、呂壱事件が暴いた呉の構造的弱点

呂壱の処刑後、孫権は諸葛瑾・朱然・呂岱・歩騭の四人を厳しく叱責した。
彼らは「自分たちは武官だから」として、呂壱の専横に直接関与しようとしなかったが、孫権はそれを見逃さなかった。
「私はそなたたちを骨肉のように信じ、栄誉も喜びも共にしてきた。私が政治で誤った判断をしたなら、それを正すのがそなたたちの役目ではないか。なぜ傍観していたのか」と、使者・袁禮を通じて叱りつけた。
沈黙を選んだ者たちにも責任があるという孫権の認識だった。
なお、歩騭は中書典校郎制度そのものには諫言していたが、呂壱個人には明確に言及せず、間接的に触れるにとどまっていたという。

一連の顛末を見るに、孫権の政治判断は決して鋭かったとは言いがたい。
忠臣たちの諫言に耳を貸さず、呂壱のような人物に政務を委ねてしまったのは、明らかな失策だった。
だが、最終的に誤りを認め、是正へ動いた点だけは評価すべきかもしれない。
呂壱という人物は、制度の隙間を突き、法の皮をかぶって私怨と支配欲を満たした存在だった。
彼がもたらした恐怖は、法の名を借りた暴力の典型であり、そしてそれを許した空気こそが、当時の呉の病巣だったのかもしれない。

参考文献

  • 参考URL:呂壱 – Wikipedia
  • 《三國志呉書·歩隲伝》
  • 《呉書·朱据伝》
  • 《呉書·是儀伝》
  • 《呉書·陸遜伝》
  • 《呉書·諸葛恪伝》
  • 《資治通鑑》

FAQ

呂壱の字(あざな)は?

呂壱の字は不明です。

呂壱はどんな人物?

呂壱は孫権に重用され、中書典校郎として行政文書の監察を担った人物ですが、法を利用して他者を陥れる策謀家でもありました。

呂壱の最後はどうなった?

西暦238年頃、朱據を虚偽告発したことがきっかけで、孫権の怒りを買い処刑されました。

呂壱は誰に仕えた?

呂壱は主に呉の孫権に仕えました。

呂壱にまつわるエピソードは?

処刑前、かつて誣告した宰相・顧雍の審問を受けた際、呂壱は何も語らず、ただ黙って頭を地に打ちつけて涙を流すのみでした。
顧雍は私情を交えず「言い残したことはあるか」と静かに問いかけ、最後まで礼を失いませんでした。この対比は、呂壱という人物を象徴する場面として語られています。

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