1分でわかる忙しい人のための呂範の紹介
呂範(りょはん)、字は子衡(しこう)、出身は汝南細陽、生没年(?~228年)
呂範は呉に仕えた重臣で、将軍として軍を率い、大司馬にまで昇りつめた人物である。
若年時から容姿端麗で知られ、地元の名家劉氏に迎えられて婚姻を結んだ。その後、孫策に見出され、江東制圧戦に従軍し陳瑀や祖郎を撃破し七県を平定するなど功を重ねた。
孫策の死後は孫権を支え、赤壁の戦いでも周瑜と共に曹操軍を破った。のちに関羽討伐の際には建業防衛を任され、重鎮として呉の政権を支え続けた。
洞口の戦いでは暴風によって水軍が壊滅し敗北を喫したが、残軍をまとめて撤退させる統率力を発揮した。黄武七年(228年)、大司馬に任じられた直後に病没し、孫権は号泣して厚く弔った。忠誠と実務能力で知られ、呉の建国を支えた代表的な将であった。
呂範を徹底解説!孫策に従い江東制圧の立役者・初期の呉を支えた奢侈な名将
呂範の出自と孫策との出会い
呂範は汝南細陽の出身で、若い頃には郡の小役人として暮らしていた。 顔立ちは整っていたらしいが、財布の中は風が吹いていた。 そんな男が美貌に加えて裕福な同郷の劉氏に縁談を申し込む。当然ながら母親は「貧乏人なんてお断り」と拒んだが、娘は「呂子衡(呂範)が一生貧しいままで終わるはずがない」と言い切り母を説得した。 誰よりも先に、彼の器を見抜いていたのは、この女性だった。
やがて動乱の波を避けて寿春に身を寄せると、ここで運命を決める人物と出会う。袁術の配下でありながら、のちに江東を切り開く孫策である。孫策は呂範を一目でただ者ではないと見抜き、呂範もまた応えるように私兵百人をその指揮下に差し出した。 当時、孫策の母は江都にいたため、孫策は呂範に母・呉夫人を江都から迎えに行かせた。呂範は曲阿まで無事に送り届けて忠義の実績を重ねていく。
ただし順調に進んだわけではなく、徐州牧の陶謙が呂範を袁術の内応と疑い、捕えて拷問する事件もあった。潔白を訴えても通らぬ時代だが、幸いにも門客たちが命がけで救出し、呂範は生き延びる。以後は孫河とともに孫策に常に随行し、苦難や危険を共にした。孫策は彼を信頼し、宴席でも母の前に並べるほど、親族並みの扱いをしていたという。
江東制圧戦と呂範の躍進
孫策が江東を切り開いていく中で、呂範もまた舞台の中央へ押し出されていく。廬江を責めて長江を渡り、横江や当利では張英や于麋を打ち破る。続いて丹陽、湖孰を落とし、湖孰相に就任した。
やがて孫策が秣陵と曲阿を手中にすると、降伏した笮融・劉繇の残兵をまとめ、二千と馬五十匹を呂範に分け与えた。 呂範はただの功臣ではなく、いよいよ「任せれば勝つ男」として軍に刻印されていく。
その後も呂範は休む暇なく、宛陵令として丹陽の賊を叩き潰し、都督へ昇進し、より大きな軍勢を統率するようになった。
次に立ちはだかったのが、「呉郡太守」を勝手に名乗り下邳に巣くう陳瑀で、地元の豪族・厳白虎とタッグを組んでいた。 孫策は自ら厳白虎を討ち、呂範と徐逸には陳瑀を攻めさせる。結果は呂範の圧勝。大将の陳牧を斬り、陳瑀本人は命からがら袁紹のもとに逃げ出すしかなかった。
まだ終わらない。今度は陵陽で祖郎を討ち、さらには勇里に駐屯していた太史慈まで撃破する。 七つの県を平定し、征虜中郎将に昇進し、最後には江夏郡へと遠征し、帰り道でついでに鄱陽まで鎮めてしまう。
こうして見ると呂範が進む先は、まるで「ロードローラー」のように力強く、着実に孫策の地盤を固めていた。
孫権政権下での活躍と赤壁の功
建安五年(200年)、孫策が急死すると、呂範は呉郡へ戻り主君の死を悼んだ。 そしてそのまま張昭とともに呉郡にとどまり、政権の土台を守ることとなる。継いだばかりの孫権にとって、この残された忠臣の存在は何より心強い後ろ盾だった。
そして建安十三年(208年)、赤壁の戦いが訪れる。周瑜の指揮下で呂範も従軍し、曹操の大軍を相手に火と風の舞台に身を投じた。戦後には裨将軍となり、さらに彭沢太守を兼ね、彭沢・柴桑・歴陽の三郡を封邑として領有した。若き日から積み上げてきた軍功が、ここで確かな形に結実したのである。
その後、劉備が孫権の妹を娶るために建業を訪れたとき、呂範は思い切った進言をした。「ここで軟禁してしまえば、後日の患いはない」と。しかし孫権は笑って「いや、さすがにまずいだろ」と受け流す。 時に優柔不断は後の大事を呼ぶ。呂範はそう言わなかったが、目はそう語っていた。
関羽討伐と荊州戦後の昇進
建安二十四年(219年)、孫権が関羽を討とうと決意したとき、平南将軍に昇進し柴桑に駐屯していた呂範の家を訪れた。「あの時お前の進言を聞いていれば、今さら兵を動かす必要はなかった」と主君は吐露し、出陣する自らに代わり「建業を任せる」と託したのである。
その後、関羽が討たれ、孫権は都を武昌に遷した。呂範は建威将軍に昇進し、宛陵侯に封じられた。さらに丹陽太守を兼ね、旧都建業の統治を託される。扶州以南から南海に至る軍勢を監督し、溧陽・懷安・寧國を食邑として領した。
彼が背負った責務は、ひとつの都市や郡に収まるものではない。呂範は江東の屋台骨を預かる重臣として、確かにその存在を刻み込んでいた。
洞口の戦いと呂範の敗北
黄初三年(222年)、魏が本気を出す。 曹休・張遼・臧覇らを洞口に、曹仁を濡須口に、さらに曹真・夏侯尚・張郃・徐晃らを南郡に送り込むという、三方同時侵攻の総勢三十万の大軍勢を差し向けてきた。
呂範は前将軍・假節に任じられ、さらに南昌侯に改封された。 従えるのは徐盛・全琮・孫韶といった歴戦の武将。二万から三万の兵を率いて、呂範は洞口へと進軍した。戦いに挑む陣容としては、申し分なかった。
だが、戦場に立ちはだかったのは、魏軍よりも先に「天」だった。
突如として吹き荒れた暴風が、呉軍の船団を直撃する。川を覆うような暴風雨の中、無数の軍船が転覆し、多くの兵士が濁流に飲み込まれた。
船の一部は流されて魏軍陣地の近くに漂着し、そこへ天に愛された男・曹休軍の容赦ない攻撃が重なったことで、死者と溺死者は数千に及ぶ大惨事となった。
ここで呂範は全軍の崩壊を防ぐため、軍を撤退させる道を選ぶ。
そこに臧覇が、快速船500艘と1万の兵を率いて急襲してくるが、全琮・徐盛の奮闘により、尹礼(尹盧)を討ち取り魏軍を退けた。その功により、呂範は揚州牧に任じられる。
洞口の初戦の敗退は、確かに彼の名に傷をつけた。しかし、その混乱の中で組織を崩壊させず、魏を撤退させた指揮ぶりは、単なる敗将とは一線を画していた。
晩年と死去、孫権の深い哀悼
黄武七年(228年)、呂範は大司馬に昇進するはずだった。しかし栄誉の印綬を手にする前に病に倒れ、そのまま世を去った。
訃報に接した孫権は、深い悲しみに沈んだ。素服をまとい、使者を遣わして印綬を追贈した。 孫権が建業に戻った際、呂範の墓の前を通ると、思わず声をあげて「子衡!」と呼び、涙を流し、太牢の礼「王者が天地に祀るときの大典」をもって彼を弔った。主君がここまで手厚く葬送する例は稀であり、呂範がどれほど信頼されていたかがうかがえる。
その後、呂範の跡には、すでに亡くなった長子に代わり、次子の呂拠(呂據)が爵位を継いだ。やがて驃騎将軍・假節にまで昇り詰めるが、太平元年(256年)、孫綝との政争に負け自ら命を絶つ。呂氏三族は連座して滅ぼされた。
忠臣として主君に惜しまれた呂範の死とは裏腹に、その血脈は乱世の渦に呑み込まれて消え去った。
呂範の性格と人物像
孫策は呂範に財政を任せていた。まだ若かった孫権が私的に何かを求めると、呂範は一切独断せず、必ず孫策に報告した。その厳格さゆえに、彼は次第に信望を集めていった。
一方で、陽羡の長官を務めていた頃の孫権は、公金を私的に流用したことがある。功曹の周谷はこれを隠すため帳簿を改ざんし、孫権はその場では安心した。しかし後に国を背負う身となった孫権は、この処置の軽重を悟る。周谷の行いは私情を優先するものと退けられ、代わって呂範の忠誠と公正さが厚く信任されるようになったのである。
孫策との弈棋逸話と都督任命
ある日、孫策と呂範が弈棋(囲碁に近い遊戯)を打っていた最中のこと。
呂範の耳には、軍中の規律が乱れているという噂が届いていた。
そこで彼は碁盤を挟んで、こう切り出す。「私が都督を務め、軍を引き締めたい」
孫策はこれを聞いて、「あなたは士大夫であり、すでに大軍を預かる身。そんな小さな雑務に時間を使うべきではない」と、やんわり退ける。
だが呂範は引き下がらない。「同じ船に乗る者として、沈むのは皆一緒。だからこそ、自分のためにも軍を正したい」と重ねて訴えた。
孫策は笑って答えず、それきりだった。
だがその後、呂範は囲碁の席を辞し、文官の服を脱ぎ、武官の装いに着替えると、自ら都督を名乗って軍律を整え始める。
これに対し、孫策は最終的に呂範の行動を追認し、正式に都督として任命した。
以後、軍中の秩序は大いに回復し、呂範の統率力が改めて評価されることとなる。
孫権と後世の評価
呂範の存在感は、揺らぐことはなかった。
あるとき、呂範と賀斉の服装が王者に似すぎていると指摘されると、孫権はこう答えた。
「昔、管仲は礼を越えたが、斉の桓公はそれを受け入れ、覇業に支障はなかった。
今、子衡(呂範)や公苗(賀斉)は管仲のような過失すらない。ただ軍の威容を保つために、器具が精巧で舟車が華やかなだけ。政治に何の害があろうか。」
服装や形式にとらわれず、功労者の存在を認める孫権らしい言葉だった。
また、群臣を集めたある宴の席で、孫権は厳畯に問いかける。
「私はかつて魯子敬(魯粛)を鄧禹に、呂子衡(呂範)を呉漢に比した。そなたたちは納得していないと聞くが、今はどう思うか?」
厳畯は率直に答える。「まだその真意を理解しておりません。少々褒めすぎではないかと感じております」
それに対して孫権は、自らの意図をこう説明した。
「鄧禹が光武帝に仕えた頃、光武はまだ天下を目指してすらいなかった。その彼に、禹は漢の再興を説いた。魯粛も同じだ。私がまだ政を定めていなかった頃、一度の対話で天下の計を議した。その慧眼と決断は、まさに鄧禹に匹敵する。」
「呂範もまた、忠誠に厚く誠実な人物。奢侈を好む面はあったが、公を思い、袁術を離れて兄(孫策)に帰参し、軍律を正すために自ら都督を申し出た。
その働きぶりは、呉漢に劣らないと私は見ている。これは私の好みではなく、実績に基づく評価である」 孫権のこの言葉に、厳畯もついに納得し、深く敬意を示したという。
呂範は生前から広く敬われていた。陸遜・全琮・貴族の子弟たちに至るまで、誰もがその人格と実務を認めていた。
もちろん、その後世の評価も高い。
陳寿は『三国志』の中で朱治と並べ、「旧臣として重んじられた」と記録しており、陸機もまた、顧雍や呂岱とともに「器任幹職(武だけでなく、政務も安心して任せられる器)」と称している。
李漁は「魏には未来を見抜く占術家の管輅がいたように、呉には呂範がいた」と述べ、占い師に例えてまで、彼の軍略における洞察力を称賛した。
勝ち戦より、正しい行動と見通せる力で信を得た「呂範」という武将は、最後まで「任せられる男」であり続けた。
参考文献
- 三國志 : 呉書十一 : 呂範伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十五 : 全琮伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書二 : 吳主伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書九 : 曹休伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書十八二 : 臧霸伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻069 – 维基文库,自由的图书馆
- 蕭氏續後漢書 : 卷三十一 – 中國哲學書電子化計劃
- 建康實錄 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:呂範 – Wikipedia
呂範のFAQ
呂範の字(あざな)は?
呂範の字は子衡(しこう)です。
呂範はどんな人物?
呂範は奢侈を好みましたが、公正で厳格な性格で、軍務を引き締め忠実に孫策・孫権を支えた人物です。
呂範の最後はどうなった?
黄武七年(228年)、大司馬に任命されるが病没しました。孫権が号泣して弔い、太牢で祭祀を行いました。
呂範は誰に仕えた?
呂範は孫策・孫権兄弟に仕え、生涯を通じて呉に尽くしました。
呂範にまつわるエピソードは?
孫策と将棋を指している最中に軍紀の乱れを訴え、自ら都督を拝命して軍を整えた逸話が有名です。
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