1分でわかる忙しい人のための呂布の紹介
呂布(りょふ)、字は奉先(ほうせん)、出身は并州五原郡九原県、生没年(?~199年)
三国志の戦場において、その名を聞いただけで敵が震えたとされる男、それが呂布である。
彼は武力と騎射に優れ、愛馬「赤兎馬」に跨る姿は、まさに一騎当千の化身だった。
だが、その華やかな武の裏には、裏切りに裏切りを重ねた冷酷な現実があった。
丁原を斬り、董卓を殺し、主君を次々と乗り換えた果てに、最後は自らも部下に見限られ斬首されるという皮肉な結末。
“最強の武人”と称された呂布の生涯には、強さゆえの孤独と、人間関係における決定的な欠陥が隠されていた。
この記事では、そんな呂布の全貌を史実に基づき徹底解剖していく。
呂布の戦歴一覧
年代 | 場所・事件 | 対戦相手 | 勝敗 | 内容 |
---|---|---|---|---|
190年 | 董卓討伐 | 孫堅 | × | 胡軫との指揮連携取れず |
192年 | 董卓暗殺 | 董卓 | 〇 | 王允の策で裏切り |
192年 | 長安防衛 | 李傕・郭汜 | × | 王允死去、長安を去ることに |
193年 | 常山の戦い | 張燕(黒山軍) | 〇 | 袁紹軍として討伐 |
194年 | 兗州侵攻 | 曹操軍 | × | 曹操がいない間に張邈らと一瞬兗州を奪うが 曹操到来で敗れる |
195年 | 徐州占領 | 劉備 | 〇 | 劉備を追放し、徐州掌握 |
195年 | 徐州防衛 | 袁術軍 | 〇 | 袁術軍を大敗させる |
196年 | 下邳反乱 | 郝萌 | △ | 郝萌が反乱、脱出後討伐 呂布としては負け |
197年 | 小沛 | 劉備 | 〇 | 張遼・高順を差し向けて小沛奪取 その後、曹操・劉備連合軍到来 |
198年 | 徐州防衛戦 | 曹操・劉備 | × | 下邳で捕らえられて処刑 |
※丁原は除く。董卓を含めても5勝4敗1引き分け。
呂布を徹底解説!なぜ「最強」なのに敗れ続けたのか?
呂布とは何者か?「人中に呂布、馬中に赤兎」と呼ばれた猛将の出自
呂布の出身は并州五原郡九原県。現在の内モンゴルにあたる地で、騎馬と弓の文化が根づいた辺境である。
この環境で育った彼は、若くして騎射に長け、容姿も麗しいと評判だった。
いわば「戦場で映える男」。力もスピードも見た目も揃っていたが、そういう男が平穏に生き残る世ではなかった。
呂布を語る上で欠かせないのが、赤兎馬の存在である。
「人中に呂布、馬中に赤兎」という成句は、最強の男と最速の馬の組み合わせがどれだけ恐れられていたかを象徴している。
実際、彼が赤兎に乗って戦場を駆ければ、敵は怯え、味方は見とれた。
ただし、戦の天才が必ずしも政治の天才ではない。呂布にはそうした光と影がつきまとっていた。
当初、彼は丁原に仕えていた。忠義というより、武の力で評価された若手として重用されたのである。
だがこの関係は長く続かない。やがて呂布は、人生初の大きな選択を迫られる。
それは出世か、それとも恩義か?答えは、あまりにも早く出た。
丁原を斬り董卓の義子に:裏切りから始まる出世劇
中平六年(189年)、霊帝が崩御し、都は混乱に包まれる。
この隙を突いて長安から入京してきた董卓は、幼い皇帝を廃して新帝を立てるという実権掌握の暴挙に出る。
だが、すでに洛陽を守っていたのが丁原とその配下・呂布だった。
ここで歴史は大きく転がる。董卓は呂布に赤兎馬を贈り、密かに取り込もうと動く。
呂布は迷う間もなく、恩人・丁原を手にかけ、董卓に寝返った。
この裏切り劇は単なる鞍替えではない。
呂布は自ら董卓を「義父」と呼び、実質的にその側近筆頭として仕えることになる。
都の軍事を任され、董卓の護衛として常にそばに控える。それは信頼というより、支配者の恐怖心の裏返しだった。
「いつか裏切られる」と思っているからこそ、手元に置かずにはいられなかったのだ。
この時点で、呂布は“都最強の男”としての地位を得た。
だが、その地位の下にあるのは、恩を仇で返す裏切りの前科と、支配者に飼い慣らされた暴力装置としての役割。
彼の人生は、この瞬間から「信じられない者」としての道を加速度的に転げ落ちていく。
表面上は出世だが、実際は“信用ゼロの番犬”。この皮肉が、後の転落を予告していた。
関東諸侯の董卓討伐戦:胡軫との不和と孫堅の撃退
董卓が都を牛耳ったと聞き、各地の諸侯は激怒する。
「なに勝手に皇帝すげ替えてんだよ!」とばかりに、袁紹を盟主とする関東軍が結成され、董卓討伐の旗が掲げられた。
このとき呂布は、当然のように董卓軍の先鋒を担う。都を守る“最強の矛”として出陣したわけだ。
だがその戦いの最中、またもや「不和」の火種がくすぶる。
味方の将軍・胡軫(こしん)との指揮系統の対立で、連携はボロボロ。
自軍の足を引っ張り合ってる間に、孫堅率いる関東軍に叩き潰されるというお決まりの展開である。
呂布の武力は健在だったが、それを活かすどころか、内輪揉めで台無しにしてしまった。
戦況が不利になると、董卓はさっさと決断する。
「もうダメぽ」と見切って、洛陽に火を放ち、天子を連れて長安へ遷都。
民衆の反発?知ったことではない。皇帝すら移動させてしまえば、そこが「都」になるのがこの時代のルールだ。
この撤退戦の中で、董卓の猜疑心はさらに膨れ上がる。
「呂布が裏切ったらどうしよう…またかもしれん」
そう思った董卓は、呂布を常に自分のそばに置き、昼夜問わず監視と警護を兼ねさせた。
それは信頼ではない。ただの恐怖からくる囲い込みだった。
呂布にとっては、まるで“董卓という檻の中に閉じ込められた番犬”のような日々が始まるのである。
董卓暗殺と都の崩壊:王允の計略に乗った呂布
長安に都が移されても、董卓の横暴は止まらない。むしろエスカレートする一方だった。
政治は私物化され、反対する者は即座に粛清。やることなすこと“暴君テンプレ”そのまま。
そんな中、密かに牙を研いでいたのが尚書令・王允。彼は董卓を討つべく、最後の賭けに出る。
策はこうだ。董卓の寵愛する呂布を裏切らせ、暗殺を実行させる。
義父にして主君でもある董卓を討つのは簡単じゃない。だが、呂布は口説き落とされた。
理由は諸説ある。董卓にたびたび罵倒されていたとか、美女貂蝉を使った色仕掛けが効いたとか。
真偽はさておき、呂布は王允に加担する道を選ぶ。再び“裏切り”の剣を抜いたのだ。
そしてその日、董卓は呂布に護衛されて朝廷に向かう途中、何の疑いも持たず門をくぐった。
だが待っていたのは、数人の兵と、呂布の冷たい眼差し。
「何をするか!」と叫ぶ董卓に、呂布は一言。「令があります」。そのまま斬り捨てた。
義父を討った呂布、計略を成功させた王允。ふたりは勝者のはずだった。
しかし李傕・郭汜ら董卓の残党は黙っていなかった。彼らは長安に攻め入り、王允は殺され、呂布は敗走。
国を変えるはずの計略が、結果として都の大混乱を招く皮肉な結末となった。
呂布にとっては「また裏切ったのに、また失敗した」事件である。
流浪する呂布:袁術・張楊・袁紹を転々とする傭兵時代
王允が殺され、長安を追われ、義父もすでにこの世にいない。
呂布は“孤立無援のヒーロー”……と言えば聞こえはいいが、実態はただの“厄介者”。
行き場を失った彼が最初に頼ったのは、寿春にいた袁術だった。
だが応対は冷ややか。「裏切りグセのある武将に、背中は預けられない」
赤兎馬ごと門前払い。呂布はその蹄音だけを響かせ、次の地を目指した。
河内の張楊は、珍しく呂布を受け入れてくれた。が、これは“功績”というより“話題性”だ。
まるで町に新しくできたテーマパークみたいな扱い。赤兎と愉快な武人、見世物感すらあった。
結局ここにも長居せず、彼は袁紹のもとに向かう。
「ここなら……!」という期待は、すぐ裏切られる。
張燕率いる黒山軍との戦いで活躍し、勝利を手繰り寄せた呂布。
「これで面目躍如!」と思った彼は、堂々と袁紹に兵を要求。
ところが袁紹は冷笑するだけだった。
「人を裏切るのが趣味な奴に、兵なんて渡せるか」
呂布は面目を失い、腹いせに部下に略奪を許した。
勝者の風格?そんなもの、とうに風に飛ばされていた。
気まずさに耐えかねて呂布は別れを告げるが、袁紹もまた一枚上手。
「餞別に三十人の壮士を送ろう」。その本意は暗殺である。
呂布は勘づいた。「あ、これ死ぬやつだ」
替え玉に琴を弾かせて宴に残し、自分はそっと闇に紛れた。
袁紹が「追え!」と命じたとき、将たちは押し黙る。
呂布を追うというのは、死にに行けという意味と同じだった。
こうして呂布はまたも生き延びたが、それは敬意ではなく恐怖ゆえ。
力に頼りすぎた男の行く先は、もはや人の好意ではなく地そのものを奪うしかなかった。
そして次なる標的は、兗州。今度は自らの足で地を奪いに向かう。
兗州乗っ取り事件:曹操の留守を突いた呂布の失敗
曹操が徐州を攻めに出たその隙をついて、兗州で異変が起こる。
張邈と陳宮が呂布を迎え入れ、彼は郡県の多くを制圧。
やっと腰を落ち着けられそうな土地を得たはずだった。
だが現実は甘くない。
軍は略奪を重ね、統治はガタガタ、民心も逃げ出す。
地盤の整備どころか、足元の土が崩れていく感覚だったろう。
そこへ帰ってきたのが曹操である。
激しい攻防戦の末、呂布は押されに押され、ついには敗走。
頼る先もなく、最終的に劉備のもとへ身を寄せることになる。
兗州の一件で見えたのは、呂布がただの強者ではなく、「居場所を築けない男」であるということ。
武勇に秀でても、統治に欠ければ、天下は掴めない。
そう教えてくれたのが、この兗州だった。
徐州を奪った呂布の外交戦術:劉備との緊張、曹操・袁術との駆け引き
兗州で敗れた呂布は、東へと逃れ、行き着いた先が劉備だった。
受け入れられた呂布は、形式上は劉備の客将として小沛に駐屯。
だが入って早々、呂布は袁術に書簡を送り共闘を打診している。
この時点で、「仲良くやる気ゼロです」と言っているようなものだった。
やがて劉備と袁術が争い始めると、呂布は機を見て徐州を奪取、自ら徐州牧を称す。
劉備は立場を逆転され、小沛に兵を置くことを許される“お情けポジション”に転落した。
「兄者」と呼んでいたその男に、自分の土地を乗っ取られる屈辱である。
そんな中で起きたのが有名な「陣門射戟」。
袁術軍の紀霊が劉備を攻めた際、呂布は形だけ仲裁役を演じ、
戟を射貫いて場を収めた。紀霊はこの威を見て、「将軍天威也」と称えたという。
ただし、最初から双方を天秤にかけていたのは明白である。
さらに陳珪の進言で、呂布は袁術との関係を断ち、
代わりに曹操と一時的な和解を図る。
この間、陳登が密かに曹操と連絡を取り、呂布討伐の内応準備も進めていた。
その後、袁術が再び徐州を攻めてくると、呂布はこれを撃退。
だが、劉備も黙っていなかった。小沛で兵を集め、再び力を蓄える。
ある日、劉備が呂布の馬を持ち出すという事件が起き、呂布は激怒。
腹いせに部下の袁渙に罵倒文を書かせようとするが、袁渙は名言を残して拒否。
「人を辱めるのに文句じゃ足りません。徳で勝ってください」と涼しい顔で切り返す。
呂布はこれに恥じ入って、強要をやめたという。
この一連の混乱のさなか、漢献帝は呂布に迎えを命じるが、
呂布は「食料がない」と断る。代わりに上表を送り、
平東将軍・平陶侯として形式的に認められることとなる。
その後、曹操は自らの手紙と印綬を送り、
「袁術を拒んでくれてありがとう。君のその忠義、忘れません」とお世辞を並べる。
呂布はまんまと感激し、陳登を通じて礼状と贈答品を返した。
このやり取り、どう見ても“手玉に取られている”のは呂布のほうである。
下邳の死闘と呂布の最期:陳宮の助言、命乞いの顛末
建安元年(196年)、下邳城で起きた小さな“異変”が、呂布の信頼と命運にヒビを入れ始める。
家臣の郝萌が突如反乱を起こしたのだ。
しかも、主君の呂布は敵の正体がわからず、慌てふためき、”まっぱで女連れ、糞溜めから脱出”という、後世に残したくない伝説を打ち立てた。
その後、高順の冷静な分析により郝萌と判明。
討伐は成功したが、この混乱の中で陳宮が共謀者と名指しされる。
顔面蒼白となった陳宮に対し、呂布は不問に処すが、
この時点で彼の政権にはすでに亀裂が走っていた。
その後、韓暹・楊奉という“頼りない味方”が食糧難を理由に離反を画策、呂布が麦を取りに行けと命じたところ、両名は小沛の劉備と結託。
が、ここでの劉備が一枚上手。酒宴に招いた楊奉を暗殺、逃げた韓暹も部下に討たれ、両軍を吸収して戦力を倍増させるという離れ業を見せる。
建安三年(198年)、呂布は劉備が馬を奪ったことで怒り心頭、張遼・高順を差し向けて小沛を攻め、妻子を捕虜に。
逃れた劉備は曹操のもとへ走り、ついに“最強の仇敵コンビ”が成立してしまう。
こうして始まった下邳包囲戦は三ヶ月に及び、呂布は出撃するたびに敗北し、ついには水攻めを受ける羽目に。
兵の士気は下がり、ついには侯成・宋憲・魏續らが裏切り。
高順と陳宮を縛って差し出すという「絶望フラグの満貫役」が完成。
呂布は観念し、自らの首を差し出すよう命ずるが、配下に拒まれ、ついに白門楼で捕らえられることになる。
捕縛された呂布は、曹操に「今後は役立つぞ。騎兵は任せろ」と懇願し、隣にいた劉備にも「繩がきつい、助けてくれんか」と媚びるが、ここで劉備が冷酷に言い放つ。
「丁原や董卓の末路を見なかったのか?」
曹操はこの一言で態度を変え、「殺せ」と命ずる。
呂布は怒りに燃えて最後に絶叫する。「劉備、お前が一番信用ならん!」
こうして呂布・陳宮・高順は縊り殺され、首を斬られて許都へ送られた。
豪胆な武力と、絶望的な人望。そのギャップこそが呂布という男のすべてだった。
呂布の人物評価:戦場では最強、だが信義なき者の末路
呂布の武勇は、正史のどの記録を見ても“当代最強”と断言して差し支えない。
張遼や高順といった手練れを部下に持ち、自らも一騎当千の豪将であった。
董卓すら彼を「飛将」と称して寵愛し、曹操もまたその武力に一度は用いたがっていた。
しかし、呂布という人物に“信”の文字はなかった。
丁原に恩義を受けながら董卓に乗り換え、
董卓を裏切って斬首し、献帝の勅命すら自分の都合で受けたり拒んだり。
張邈や陳宮に助けられても、その恩を握りつぶすような形で独裁に走り、最後は家臣に見限られて敗北する。これほど“報いの連鎖”が明瞭な人物も珍しい。
高順や陳宮といった忠臣すら最期は道連れに。
侯成にすら警戒し、酒一つで粛清の気配を漂わせてしまう。
部下を疑い、敵には媚び、自らを省みる言葉はない。
この“信じられない者”の背中に、誰が命を預けようか。
呂布は間違いなく“戦場最強”の男だった。
だが、人の心を掴めなければ、どれだけ剣を振るっても勝利は続かない。
彼が敗れ続けたのは、力が足りなかったのではない。
信義も、共感も、約束すら持たない「孤独な最強」が、最後には誰にも救われずに沈んでいった。
それだけのことだ。
参考文献
- 参考URL:呂布 – wikipedia
- 後漢書
- 三国志(魏書・呂布伝ほか)
- 資治通鑑
FAQ
呂布の字(あざな)は?
呂布の字は奉先(ほうせん)です。
呂布のあだ名や異名は?
「飛翔」と呼ばれています。また「人中に呂布、馬中に赤兎」とも称されました。
呂布は誰に仕えた?
丁原、董卓の主君に仕えました。王允については一時結託しただけで主従関係はありません。
呂布の最後はどうなった?
建安3年(198年)、下邳で曹操に捕らえられて処刑されました。
呂布はどんな人物だった?
三国志随一の武勇を誇りながらも、裏切りを繰り返したため信頼を失った人物です。
コメント