楼玄:清廉ゆえ孫皓に抜擢されるも暴政に沈んだ忠臣【すぐわかる要約付き】

楼玄

1分でわかる忙しい人のための楼玄(ろうげん)の紹介

楼玄(ろうげん)、字は承先(しょうせん)、出身は沛郡蘄、生没年(?~272~275年前)

呉の孫休・孫皓の二代に仕えた呉の官僚である。 監農御史として出仕し、散騎中常侍・会稽太守・大司農などを歴任した。 清廉で直言を辞さぬ性格であり、暴君孫皓の怒りを買って流罪となり、のち(272~275年前)に交阯で自殺に追い込まれた。 死後は家族が誅滅されたが、後世『三国志』では王蕃・賀邵と並び称される節義の士とされる。

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楼玄の生涯を徹底解説!大司農として活躍し、孫皓に抜擢されるも暴政に巻き込まれた悲劇の最期

孫休から孫皓へ、異例の昇進

楼玄は「樓玄」と書くが、楼玄で記載する。

前半は何をしていたか伝わっていないが、孫休の治世(258~264年)において、楼玄は監農御史という「農政と土地管理の監督役」に任じられた。

元興元年(264年)、孫皓が帝位につくと、楼玄は王蕃・郭逴・万彧とともに散騎中常侍に任ぜられた。「皇帝のそばに侍る」という案内看板を掲げられ、彼は中央政界の入口に立ったのである。

その後、楼玄は会稽太守を経験して中央に召還され、大司農という国家の財政と穀物の出納を司る重職に昇進した。
ここに至って、国家の財布と食料庫の総責任者になり、彼の仕事ぶりが評価された証であった。

宮中勤務と流罪への転落

鳳凰元年(272年)、楼玄は宮下鎮禁中候という役職に任じられた。

もともと、このポストは「君主に親しい」というだけで起用されるのが通例で、いわば「身内びいき」の特権ポジションだった。
しかし、万彧は「ただ親しいというだけでなく、善良で人格のある者に任せよ」と進言したのである。
孫皓はこれを受け、詔を下し「忠清の士」を探させた結果、選ばれたのが楼玄であった。 楼玄は職務には忠実だったが、その切直な性格は次第に孫皓の不興を買い始めていた。

ある日、楼玄が旧知の賀邵と道端で言葉を交わし、笑っていたところを見咎められる。
誰かがそれを「政治を謗って笑った」と訴え、孫皓はこれを信じて即座に詔を下した。
楼玄は弁明の機会もなく広州への流罪を命じられ、賀邵も降格処分を受けた。

この処分に対しては、東観令の華覈が上疏して弁護に立ち、「国の統治は家を治めるように行うべきであり、忠実で信頼できる人間を用いるべきだ」と訴えた。
だが孫皓はこれを退け、楼玄はそのまま中央から追放された。

真面目に働いて罪、笑ったら罪という、呉末期がどんな時代だったかを如実に物語っている。

交阯での最期

孫皓は、なおも楼玄の名声を恐れた。ただ遠ざけるだけでは足りず、ついには交阯への追放を命じたのである。「戦功を立てさせ、罪を償え」との建前の下、息子の楼拠(楼據)と共に、現地の将・張弈のもとへ送られた。だがその裏には、「楼玄を密かに処断せよ」という密詔が添えられていた。

交阯に着いて間もなく、息子の楼拠は病に倒れ、父の前で命を落とす。
楼玄は悲しみを抱えたまま、張弈に従い、賊討伐に参加する。
身一つで兵とともに歩き、剣を携えて戦列に並ぶその姿に、張弈は心を打たれたという。

密命を持っていた張弈だが、どうしてもそれを実行できず、楼玄を庇い続けた。
やがて張弈が急死すると、楼玄は葬儀を自ら取り仕切った。
その遺品の中から、一通の文書が現れる。そこには、紛れもない孫皓の筆で、楼玄の死を命じる詔が記されていた。
楼玄はすべてを悟り自らの命を絶ったという。

一方、『江表伝』には別の伝承もある。
孫皓が張弈に毒を渡し、楼玄に服用させようとしたが、張弈は彼を敬って実行できなかった。
楼玄はそれを察し、「それなら早く言ってくれればよかった。命など惜しくはない」と語り、自ら毒を飲んだと伝えられている。

この話に裴松之は「楼玄のような清廉の士が、死を前にして節を曲げるはずがない」と述べ、
むしろ『江表伝』の方が真実に近いのではないかと評している。

死後の処遇と評価

楼玄の死後、孫皓はなおも怨念を遺し、天冊元年(275年)に彼の一族を誅滅した。血筋すらも許されず、名誉の回復などあり得なかった。

楼玄には大司農以外の目立った実績が記されていないにもかかわらず、同時代からその名声はきわめて高かった。
左丞相の陸凱は病に伏し、死を目前に「姚信、楼玄、賀邵、張悌、郭逴、薛瑩、滕脩、そして一族の陸喜・陸抗らは、清廉にして忠勤、あるいは才智に優れた者である。これらは皆、国家の柱石となる人物であり、必ず重用すべきである」と言い残している。

薛瑩は「王蕃は器量広く、学識に富み、楼玄は清白にして節操あり、理に通じて条理を明らかにした」と称賛し、賀邵・韋曜とともに呉末期の四賢人として名を連ねた。

胡沖も「楼玄・賀邵・王蕃の三人は清廉の名士であり、あえて順位をつけるなら楼玄が筆頭」と断言する。
実際の功績よりも人となりが重視されたこの評価は、節を曲げず、正道を貫いたことを物語っている。

『三国志』の陳寿は。華覈・楼玄・賀邵・王蕃らを「清廉の臣」と総評し、「名と節を保ち、道理を曲げなかったために禍を招いた」と記している。
その中で生き延びたのは華核のみだったが、それすらも「ただ時運に恵まれただけ」と述べられている。

参考文献

楼玄のFAQ

楼玄の字(あざな)は?

字は承先(しょうせん)です。

楼玄はどんな人物?

清廉で正直、権力者にも臆せず意見を述べる人物でした。法を重んじ、節を曲げぬ性格として知られています。

楼玄の最後はどうなった?

孫皓により交阯へ送られ、密詔で自殺に追い込まれました。『江表伝』では鴆毒を賜され自ら服毒したとされています。

楼玄は誰に仕えた?

孫休・孫皓の二代の呉皇帝に仕えました。とくに孫皓の時代には大司農や禁中候などの重職を務めました。

楼玄にまつわるエピソードは?

流罪先の広州で虞翻の旧宅を訪ね、彼の清節を偲んで感慨にふけったと伝えられています。

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