1分でわかる忙しい人のための李通の紹介
李通(りつう)、字は文達(ぶんたつ)、出身は江夏郡平春、生没年(168~209年)
李通は後漢末期に江水・汝水一帯で勢力を築き、のちに曹操に帰属した武将である。
若い頃から侠気ある人物として知られ、陳恭とともに挙兵し、周直・陳郃を倒し軍勢をまとめた。黄巾の乱では呉覇らを討って地域を平定した。
飢饉の際には私財を投じて民を救い、人望を集めたことでも知られる。
建安年間初めに曹操に属して以降は、張繡討伐戦や官渡前後の動乱で忠節を示し、汝南太守として淮水・汝水一帯を鎮撫した。
江陵救援戦の途上で病没し、四十二歳で没したが、その功績は高く評価され、後に剛侯と諡された。
李通の生涯を徹底解説!官渡の戦いの動乱下で汝南を守った忠義の将の最期
江夏の侠士としての出自
李通は若い頃から侠気ある人物として知られ、江水・汝水一帯でその名が広まっていた。
この時期の李通は、官職に就く以前から地域社会に影響力を持つ存在であった。
江水・汝水周辺で人々に認識されるほどの名声を得ており、後に挙兵して勢力を形成する基盤は、この段階ですでに整っていた。
江夏の侠士としての出自
李通は若い時から江水・汝水一帯では「おぉ、あの李通か」というレベルで知られていた。
当時はまだ官職に就く前の素人同然の立場ながら、すでに地元社会においてはちょっとした顔役扱い。地域の名士、というより「侠気ある名物人」として周囲に認知され、いざ挙兵した際にも「李通さんならしゃーない」と人が集まる下地があった。
地域の「リトル領主」としての存在感が、後の大志へのステップになったのは、偶然でも運命でもなく、地道な評判の積み重ねというやつだった。
陳恭との挙兵と地位を確立
後漢末、地方の統治はガタガタに崩れ、群雄割拠の時代へと突入していた。そんな中で李通は、同郷の陳恭と共に朗陵で挙兵する。
この動きに呼応した者は多く、李通と陳恭の下には、自然と人が集まっていった。
だが、勢いづいた矢先に、早くも内側に火種を抱えることになる。
周直という人物は二千余家を従える有力者で、表向きは挙兵に協力していたが、胸の内にはまったく別の計算を抱えていた。
李通はその危うさを見抜き、排除すべきだと進言したものの、陳恭は即断できなかった。優柔不断、あるいは義理堅さの表れかは知らないが、こういう場面ではどちらも命取りになる。
そこで李通は、自ら動くことを選ぶ。
周直を酒宴に招き、酔わせた上で、そのまま殺害する。いかにも古典的な手口だが、用心深い敵を騙すには、古くさい手が最も効くという例である。
周直の死によって、その配下は動揺した。李通と陳恭は、その隙を突いて周直派を掃討する。もともと抱えていた軍営ごと、勢力を自軍に吸収してしまう。
この時点で、李通たちは名実ともに、地域一帯の武装勢力としての地位を確立していた。
ここで陳恭の義弟・陳郃が、肉親の情もお構いなしに陳恭を殺害し、その兵力を奪ったのである。
李通はすぐさま陳郃を討伐を開始する。軍を率いて陳郃を破り、首級を斬って陳恭の墓前に供えた。
この一連の粛清と統合作戦により、軍内部の反抗勢力は排除され、李通は単独で挙兵勢力の指導者として立つこととなった。
黄巾賊呉覇の捕縛と地域平定
李通は、黄巾賊討伐に参加する。 呉覇は黄巾党の首領格で、配下を従えて勢力を保っていたが、大帥・呉覇を生け捕りにした。
指揮官を失った黄巾賊は戦意を喪失し、相次いで降伏する。
こうして、江夏周辺に残っていた黄巾の残党勢力は制圧され、地域の混乱も終息に向かった。
飢饉下での救済と人望形成
この頃、地域を襲ったのは飢饉だった。
食糧が枯渇し、人々の生活は困窮を極める。そんな中で李通は、自身の私財を惜しげもなく投じて救済を図った。
兵たちと同じ粗末な糧を口にし、自らも飢えをしのぐ日々を送った李通の姿勢は、やがて人心を動かす。
「この人のために」と人々は進んで働くようになり、軍の統率はかえって強まっていった。
やがて盗賊ですらこの地に足を踏み入れようとしなくなり、飢饉という災厄の中で、李通は武力によらぬ信頼によって秩序を築き上げた。
曹操への帰属と張繡戦での戦功
建安年間の初め(196年頃)、李通は自軍を率いて許へ赴き、曹操に帰属した。
地方勢力としての独立路線を捨て、大局を見る判断力を示した形である。
これにより振威中郎将の任を受け、汝南の西境に駐屯することとなった。
その後、建安二年(197年)、曹操が張繡を攻めた際、劉表が援軍を送ったことで戦況は悪化する。
曹操軍にとって不利な状況が広がる中、李通は夜のうちに軍を率いて救援に駆けつけた。
命令を待つでもなく、要請を待つでもなく、自ら判断して動いたのである。
戦闘が再開されると、李通はためらうことなく先陣を切って張繡軍に突撃する。
その勢いで敵軍を大破し、結果として戦局を一変させた。
状況判断と行動力の両方が認められ、この戦功により、彼は裨将軍となり、建功侯にも封じられた。
陽安都尉時代の法治姿勢
張繡戦の戦功によって、李通は汝南の二県を分け与えられ、陽安都尉に任ぜられた。
軍功から行政といった、「剣から法」への転身が始まった時期である。
そんな折、思いもよらぬ形で李通は自身の「義」と「私情」を試されることになる。
なんと、法を犯したのは自分の妻の伯父だった。朗陵県令の趙儼がこれを捕らえて調査の結果、死刑相当の罪であると断じた。
李通の妻子は泣き叫び、助命を求めた。
李通には正式な裁可権こそなかったが、曹操の信任厚い功臣として、その一言が命を左右する立場にあった。
だが彼は、それを使わなかった。「私は今、曹公のために力を尽くしている。私情で公を損なうことは義に反する」ときっぱり退けたのである。 血縁より倫理、情より大義で、このときの李通の顔に「正論」と書いてあったに違いない。
そして趙儼が法律に則って淡々と裁きを下したことを、李通は高く評価した。
以後、両者は親しく交わるようになり、信義をもとにした付き合いが始まった。
官渡前後の忠節と袁紹使者斬殺
建安五年(200年)、官渡で曹操と袁紹が対峙するころ、許や蔡の南方では不穏な空気が広がっていた。
情勢は不透明で、人々の忠誠心は徐々に揺らぎ始める。そんな最中、袁紹は李通に使者を送り、征南将軍として自らの陣営に引き入れようとした。
同時に、荊州の劉表も密かに使者を寄越して誘いをかける。
「いまなら初回無料」みたいな勧誘ラッシュに、李通の周囲も浮き足立った。親族や部下は涙ながらに言った。
「もう孤立している。いま背を向ければ、明日は命もない」
だが、李通は剣を手にして彼らを叱りつける。
「曹公は明哲な人物であり、必ず天下を平定する。袁紹は勢いはあるが人を見る目がない。いずれ捕らえられて終わる男だ。私は死んでも主君を変えることはしない」
この言葉で、迷いはすべて断ち切られた。
李通は袁紹の使者をその場で斬り捨て、印綬を曹操のもとへ送り届けた。
さらに、瞿恭・江宮・沈成ら郡内の賊を討ち破り、首級を送って忠誠を明示する。
その働きにより、揺れていた淮水・汝水の一帯は平定された。
淮汝の平定と汝南太守就任
官渡の前後、世の趨勢が見えぬ中でも、地方の混乱は終わっていなかった。
淮水・汝水一帯では賊がなお活動しており、治安という言葉からは程遠い有様だった。
李通は郡内で勢力を持っていた瞿恭・江宮・沈成らを彼は一つひとつ潰していく。
これらの軍をいずれも撃ち破り、一帯の不安定要素を着実に潰していった。
そして、討ち取った首級をまとめて曹操へ直送した。 政治的センスも申し分ない。
この功によって、李通は都亭侯に改封され、汝南太守の任を受けた。
しかし着任後も、問題は山積していた。
今度は賊の張赤ら五千余家が桃山に立て籠もる。
李通はこれにも迷わず出陣し、張赤勢力を徹底して叩いた。
江陵救援と最後
建安十四年(209年)、赤壁の戦いの後、劉備と周瑜が江陵の曹仁を包囲する。
さらに関羽を北方へ回して補給路を断たせたことで、曹仁は背水の陣に追い込まれた。
この切迫した状況に対し、李通は救援のため兵を率いて出陣した。
戦場では馬から下り、自ら鹿角(防御柵)を引き抜いて進軍する。
肉薄する中で戦いながら曹仁軍を迎え入れ、その奮戦ぶりは諸将の中でも際立っていた。
ただし、彼の戦いはそこまでだった。
行軍の途中で病に倒れ、そのまま命を落とす。享年四十二。
最期の戦いを誰よりも前で指揮し、誰よりも地面を踏んだ男。
剣ではなく足で示した忠誠と勇気が、李通という人物を象徴している。
死後の追贈と子孫の動向
李通が没した後、その功績はなおも重んじられた。
食邑は二百戸が加増され、合計で四百戸となる。
のちに文帝・曹丕が即位すると、李通には「剛侯」の諡が贈られた。
戦場での武勇と節義を評価された形である。
子の李基はすでに爵を継いでいたが、それだけでは物足りなかったらしい。
「もっと盛ってやれ」ということで、奉義中郎将に任命される。
さらに兄の李緒までもが評価の対象になる。
「昔、樊城でちょっと働いてましたよね?」という理由で、平虜中郎将という職をもらう。
詔には、「代々その労を重んずる」と明記されており、一族の功が制度的にも認められていた。
後世の評価と李通の歴史的位置づけ
李通の忠節と行動は、後代においても変わらぬ評価を受け続けた。
曹丕は、袁紹との対立が深まる中で、許や蔡の地の多くが揺れる中、李通だけが義を守り、危険を顧みずに背く者を引き戻したと、その姿勢を高く評価している。
正史『三国志』を著した陳寿は、李通を臧覇・文聘・呂虔と並べて記録しており、州郡の安定を担い、威信と恩恵によって民心をつかんだ将として紹介した。
李通はその中でも、地方の鎮撫を任された将として、地道な功績で名を残した人物である。
また、南朝宋の劉裕も李通を賞賛している。
官渡戦当時、汝南や兗州の士人たちの多くが二心を抱く中で、李通はただ一人、大義に殉じた。
その選択は、時代や立場を越えて賞賛されるに値すると評された。
李通には、「奇策」もなければ「覇道」もなかった。
ただ、権力者が崩れそうになるときにそれを支え、秩序が壊れかけるときに踏みとどまり、混乱の地に地面を踏んで入っていった。
武功はあっても誇示せず、忠義はあっても見せびらかさない。
彼のような人物は、歴史の表舞台では地味で、記憶にも残りにくい。
だが、国家が分裂せず、地方が無事に動くためには、どうしても必要な「土台の石」である。
李通の人生が証明しているのは、義という言葉が、時に組織の骨格すら支える力になるということだ。
参考文献
- 三國志 : 魏書十八二 : 李通傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷062 – 维基文库,自由的图书馆
- 宋書 : 卷一百列傳第六十 自序 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:李通 – Wikipedia
李通のFAQ
李通の字(あざな)は?
字は文達(ぶんたつ)です。
李通はどんな人物?
李通は私情よりも法と義を重んじ、地域統治と軍事の両面で実績を挙げた人物です。
李通の最後はどうなった?
江陵救援戦の途上で病を得て没し、四十二歳で亡くなりました。
李通は誰に仕えた?
建安年間初めに曹操に帰属し、その配下として活動しました。
李通にまつわるエピソードは?
妻の伯父が法を犯した際も助命せず、法を執行した趙儼を評価した逸話が残っています。



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