李勗:讒言で孫皓に誅殺された、陸抗が認めた秀才【すぐわかる要約付き】

一般文官4

1分でわかる忙しい人のための李勗(りきょく)の紹介

李勗(りきょく)、字は不詳、出身も不詳、生没年(?~270年)
李勗は三国時代の呉に仕えた官僚であり、孫皓政権下で少府の地位にあった人物である。
建衡元年(269年)には監軍使者として徐存と共に出征し、交阯で起きた反乱鎮圧を命じられた。彼の軍は建安の海路を通って出発したが、道が塞がれて進軍が困難となり、案内役の馮斐を斬ったうえで撤退した。
翌年(270年)、その行動を咎めた孫皓は、寵臣何定の讒言を受けて李勗を一族もろとも誅殺し、遺体を焼き捨てた。
その死後、名将陸抗は上表して深く嘆き、李勗を楼玄・王蕃と並べて「当世の秀才」と評したという。短い生涯ながら、才能を惜しまれた悲運の官僚であった。

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李勗の生涯を徹底解説!孫皓政権の少府として交阯討伐に挑み、冤罪で滅ぼされた悲運の官僚

孫皓政権下の少府・李勗の任命と出征

李勗は「李勖」と記されたり、史料によって名前が違ったりする。
ただでさえ地味な上に出身地も字(あざな)も不明という、あまりにも情報がない人である。

呉末期の孫皓の時代に少府として登場し、南方の交阯で起きた反乱鎮圧に投入された。
宮廷の仕事からいきなり戦地に投入され、李勗と徐存は「海路で建安から出発せよ」と言われた。

さらに陸路からは監軍の虞汜、威南将軍の薛珝、蒼梧太守の陶璜らが出発する。
合浦で全軍が合流し、共同で交阯を制圧する段取りだった。 李勗は急遽徴発された、いわば人手不足の穴埋め要員だった。

行軍の困難と馮斐の処刑

李勗らの部隊は、建安から海路で出発し、案内役には馮斐という人物がついていた。
が、どうやら彼が道を間違えたらしく、進軍は停滞してしまう。
李勗は怒り「この遅れの原因」として馮斐を斬首する。

しかし道は荒れたままで、首を落としたところで進軍は進まなかった。
建衡二年(270年)に李勗はこれは無理だと決断し、軍を率いて撤退してしまう。
しかし、撤退に待っているのは政治的な断罪と責任追及の始まりであった。

何定の讒言と李勗の一族処刑

孫皓に取り入っていた寵臣・何定は、かつて自分の息子と李勗の娘を婚姻させようとしたが、李勗はこれを断っていた。 理由は記録されていないが、権力者との縁談をはねつけるという時点で、少なくとも空気を読む気はなかったらしい。 案の定、何定の恨みを買うことになる。

そして、その恨みを晴らす時が来た。 李勗が馮斐を処刑し、独断で軍を撤退させた件を、何定は孫皓に対して「過失どころか裏切りだ」と讒言した。
疑念を膨らませるのが大好きな孫皓は、すぐに信じて李勗を罪人とし、一族ごと処刑する。
ついでに徐存も一族ごと処刑されている。

しかも遺体は焼かれ、名前すら抹消する勢いで跡形もなく消された。
※当時、儒教的価値観により土葬が一般的 この一件、呉末の政治が「法」ではなく「感情」と「根回し」で回っていた証として、じつに分かりやすい教材である。

陸抗の上表と李勗への追悼

李勗が処刑されたあと、呉の重臣・陸抗は上表文を通じて、その死を深く悼んだ。
彼はこう述べている。
「李勗・楼玄・王蕃の三名は、いずれも当世の俊才であり、一時の顕器なり。彼らを失ったことは国の大きな損失であり、今さら悔やんでも手遅れだ。」

忠誠と実務を重んじる者が、派閥争いのあおりで焼かれ捨てられ、その後に「国政の損失」と言われる。 これが呉末の政治の現実であった。

参考文献

李勖のFAQ

李勖の字(あざな)は?

李勖の字は伝わっておりません。

李勖はどんな人物?

李勖は呉末期の少府で、誠実かつ才幹のある官僚として知られました。陸抗は彼を「当世の俊才」と評しています。

李勖の最後はどうなった?

建衡二年(270年)、讒言を受けて孫皓に誅殺され、一族も処刑されました。遺体は焼かれたと記録されています。

李勖は誰に仕えた?

李勖は呉の皇帝・孫皓に仕え、少府や監軍使者として任務にあたりました。

李勖にまつわるエピソードは?

孫皓の寵臣何定が息子と李勖の娘の縁組を申し出た際、李勖がこれを断ったため、恨みを買って讒言される結果となりました。

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