1分でわかる忙しい人のための陸遜の紹介
陸遜(りくそん)、字は伯言(はくげん)、出身は呉郡呉県、西暦183年~245年
三国時代の呉を代表する軍事家・政治家である。少年時代に一族が戦乱で没落するも、若くして孫権に仕えた。
山越平定や荊州攻略、さらに夷陵の戦いで劉備を大破するなど、戦略家として大きな功績を残した。 とりわけ夷陵の戦いで火を使った大勝は「後から動いて先に攻める」戦い方の代表例として、中国の歴史として名高い。
政治面でも孫権の信任厚く、外交や法令の改訂を一任され、さらには皇太子孫登の補佐役も務めた。刑罰の緩和や民政の充実を訴え、儒家的な思想に基づいて国を支える姿勢が特徴的であった。
晩年は二宮の変に巻き込まれ、上奏が孫権の怒りを招いて憤死したと伝わる。しかし、その忠誠と知略は高く評価され、武廟六十四将に数えられるほど名将として語り継がれている。
陸遜を徹底解説!関羽・劉備を撃破し、呉の国政を担った丞相の悲劇
呉郡の名門に生まれた少年時代
光和六年(183年)、陸遜は呉郡呉県に生まれた。幼い頃に父を亡くし、祖父である廬江太守陸康のもとで育った。
やがて軍閥袁術が孫策を派遣して廬江を攻め、陸康は二年も耐えたが、兵糧は尽き、陸氏の一族は大半を失った。
そこで陸康は陸績と従孫の陸遜を呉郡へ帰還させ、一族を守る道を選んだ。陸遜は陸績より数歳年長であり、家門を支えながら成長していく。
この時代、陸績や顧邵は博学で名を轟かせたが、陸遜もまた張敦や卜静と並び、次世代を担う士人として評価を受けていた。
孫権に仕えて地方で手腕を示す
建安八年(203年)、21歳になった陸遜は孫権に仕え、最初は東西曹令史という役職に就いた。
やがて海昌の屯田都尉、さらに行県長を務めることになった。そこは連年の旱災に苦しむ土地だったが、陸遜は倉を開き穀物を分け与え、農業を監督して生産を保った。 飢えにあえぐ人々にとって、若き役人の行動は救いであり、彼への信頼は厚くなっていった。
しかし世の中は善政だけでは収まらない。
呉郡・会稽郡・丹楊郡には山越の賊が潜み、各地を脅かしていた。 陸遜は討伐の利益を説いて出征を願い出、会稽の大帥・潘臨を打ち破った。 以後、彼の旗の下には二千を超える兵が集まり、地方官の域を超えた軍事力を手にしていく。
建安二十一年(216年)、鄱陽では賊帥・尤突が蜂起した。陸遜は賀斉とともにこれを討ち、多くの戦いを経て定威校尉に任じられ、利浦に駐屯することになった。若き陸遜は、戦と政治の双方で頭角を現す存在へと変わりつつあった。
孫権への進言と軍事的初成功
孫権は妹婿に陸遜を迎え入れ、天下の情勢について意見を交わした。ここで陸遜は冷静に告げる。「山越の乱が国内に巣食っているのに、外へ領土を広げようとしても前に進めません。まず内部を鎮めねば、国は持ちません」と。きれいごとではなく現実の提案である。孫権はこれを容れ、彼を右部督とし、会稽・鄱陽・丹楊三郡の軍を任せた。
ほどなくして、丹楊の賊帥・費棧が曹操から印綬を受け取り、山越を焚きつけた。敵の軍勢は陸遜の兵よりも多い。正面から戦えば押し潰されるだけだった。そこで陸遜は軍旗と太鼓を四方に配置し、夜の闇に潜ませる。やがて合図の鼓が鳴り響くと、敵は四方八方から包囲されたと錯覚し、隊列は一気に崩れ去った。少数の兵で大軍を破る、典型的な奇策である。
この戦いで揚州東部三郡を平定した陸遜は、健強な者を兵に編入し、虚弱な者は戸籍に戻して人口を増やして呉の兵力不足を補った。 兵站の不足を解くための現実的な手段である。
さらに会稽太守の淳于式が「民を徴発した」と訴えたとき、陸遜は彼を責めるどころか善吏と評価した。
荊州攻略1:呂蒙の後任
建安二十四年(219年)、関羽は樊城で魏の曹仁を攻撃する。公安と南郡に兵を残して守備させていた。
その隙を逃すまいと目を光らせたのが、呉の都督呂蒙である。病を装って建業に戻り、表向きは戦線を退いたように見せたが、彼は計略をもって荊州を奪取しようとしていた。
道中陸遜が呂蒙を訪ねて進言する。「関羽は自らの武勇に酔い、人を見下している。大功を立てて心は驕り、北へ進むことしか頭にない。もし将軍が病と聞けば、さらに備えを怠るだろう。今こそ奇襲の好機だ。」
呂蒙はその場では軍機を秘するため取り合わなかったが、内心ではこの意見を深く肯定していた。 建業に戻ると孫権に陸遜を推薦し、「陸遜は思慮深く、大任に堪える器量を持つ。だがまだ名が広まっていないため、関羽にとっては取るに足らぬ存在に見えるだろう」と評した。孫権はすぐに陸遜を偏将軍右部督に任じ、呂蒙の後任を託した。
荊州攻略2:関羽を撃破する
陸遜は陸口に赴任すると、早速関羽に弱腰な書を送りつけ、あえて呉の脆弱さを装った。 まんまと関羽は信じ込み、荊州の守備兵を引き抜いて樊城攻撃に専念した。
同年十一月(219年末)、孫権は満を持して軍を潜ませて進軍し、陸遜と呂蒙を前軍として公安・南郡を一挙に攻略。 陸遜はその功により宜都太守・撫辺将軍に任じられ、華亭侯に封じられた。昨日まで「無名の新人」だった男が、一気に歴史の表舞台に躍り出た瞬間である
呂蒙が関羽を追撃する一方で、陸遜は別働隊を率いて房陵・南郷を制圧。 劉備配下の宜都太守樊友、房陵太守鄧輔、南郷太守郭睦、秭帰の豪族文布や鄧凱らは悉く敗走し、あるいは降伏した。 諸城の長吏、蛮夷の君長までもが次々と服属し、関羽の退路は完全に断たれ、援軍を呼ぶ術すら奪われたのである。
荊州の士人たちは新たに呉に帰順したばかりで不安を抱えていたが、陸遜はすぐさま孫権に上疏して彼らを広く登用すべきだと訴えた。「今こそ恩を施して人材を掬い上げるべきです」と。その誠意は実を結び、かつて劉備のもとに走った文布すら帰降し、人心は呉に傾いた。
戦後、孫権は陸遜を右護軍・鎮西将軍とし、婁侯に封じた。その地位は先輩の呂蒙をも越えた。さらに功績を殊更に示すため、揚州牧呂範に命じて陸遜を別駕従事に推挙し、茂才に取り立てた。
こうして陸遜は、一躍して呉の中枢に食い込み、後の大都督への道を切り開いたのである。
夷陵の戦い1:劉備の快進撃
章武元年、魏の黄初二年(221年)、劉備は「関羽の仇討ち」「荊州奪回」という二つの大義名分を引っ提げ、軍勢を率いて呉への侵攻を開始した 一方の孫権はまず和平を模索するも、劉備の怒り高く、その願いは通らなかった。追い詰められた孫権は、仕方なく魏に臣服を表明して背後の安全を確保し、陸遜を大都督に任じて呉の命運を託した。
翌年(222年)二月、蜀軍は夷陵から秭帰にかけて数百里にわたる布陣と、武陵の蛮族を味方につけたその勢いはすさまじく、誰もが今にも呉が押し潰されると思った。 蜀軍の挑発は繰り返されたが、陸遜は兵の鋭気に対抗することを避け、敢えて応戦しなかった。 三峡地帯は険しい山川が続き、下流で戦う呉軍にとっては補給が難しいため、彼は巧みに背後に退き、夷陵・猇亭の要害へと軍を誘導した。補給を確保しつつ、有利な陣地を布いたのである。
夷陵の戦い2:火計で大勝利を収める
膠着した戦線が半年にわたって続く中、六月の酷暑が蜀軍を蝕んだ。軍営が息切れし、士気が崩れたその隙を陸遜は見逃さなかった。全軍をもって一斉攻撃をかけ、火を以て陣営を焼き払い、朱然と連係して江面を封鎖。夷陵の道は瞬く間に断たれた。結果は凄惨だった。四十以上の営が崩れ、兵船、兵糧、器械はほぼ戦果として刈り取られ、戦場に散った遺体は川を埋め尽くすほどだった。
蜀の将馮習・張南・傅肜・馬良・王甫・沙摩柯らは討ち取られ、江北を守備していた黄権は退路を失って魏へと降るしかなかった。劉備は惨敗を喫し、夜間に僅かな残兵を率いて白帝城へ退却した。
呉の諸将は追撃を求めたが、陸遜は魏の曹丕が大軍を集めて東征を企図していると見抜き、追撃を退けて軍を江陵へ戻した。ほどなくして曹丕は「呉と共に蜀を討つ」と称して侵攻を開始したが、呉軍がすでに備えを固めていたため、魏軍は進撃を断念した。
戦後、孫権は陸遜を輔国将軍に進め、江陵県侯に封じ、西陵を鎮守させた。関羽を破り、歴戦の勇者の劉備を打ち破った陸遜の名は、ここに天下に響き渡ることとなった。
蜀の対応と政治家としての陸遜
劉備が没すると、蜀では諸葛亮が政権を掌握し、再び呉との同盟を進めた。この時以降、孫権は蜀との関係に関して必ず陸遜の意見を求め、蜀に送る文書もまず陸遜に見せて修正を受けてから出すようになった。
それどころか、孫権は特別の大印を陸遜に与え、呉と蜀との日常的なやり取りをすっかり任せてしまう。外交の実務を担いつつも、軍だけではなく、国家の信頼に応えられる人物であるとの証しだった。
黄武五年(226年)、陸遜の駐屯地で食糧が不足すると、彼は諸将に農地を開墾させるよう進言する。 孫権はこれを高く評価し、「父子ともに農を分担する」と述べ、自ら牛を使って田を耕す姿勢を示した。 陸遜はさらに、刑罰を軽くし、田賦の徴収を緩め、戸税の取り立ても停止すべきだと進言した。孫権は陸遜を特別に信頼し、関係官僚に法令の草案を書かせたうえで、陸遜や諸葛瑾に必要な修正を任せた
このように陸遜は軍事の統帥者にとどまらず、政治の場においても孫権の信任を一身に集め、国家運営に深く関わる存在となっていた。
石亭の戦いと魏への大勝利
黄武七年(228年)、魏の大司馬曹休は十万の軍勢を率いて呉へ進軍してきた。だが呉の側には、鄱陽太守の周魴が孫権と密かに謀り、「降伏芝居」を仕掛ける。曹休はまんまと信じ込み、十万の軍勢を皖城に動かしたのだ。
孫権はこの好機を逃さず、陸遜に黄鉞を授けた。これはただの出陣ではなく、孫権みずから鞭を取り、陸遜を馬に乗せ、百官が地にひれ伏して見送った。その姿は古代の聖王が大将を送り出す儀式に匹敵したという。
曹休は途中で計略に気づいたらしいが、十万の兵を背にすれば何とかなると高をくくっていた。だが兵力の多寡など、指揮官の才覚の前では紙くず同然である。陸遜は中軍を自ら率い、朱桓・全琮を左右に配置。三軍を巧みに操って石亭にて激突した。結果は火を見るより明らか、魏軍は瓦解し、兵器も軍糧も丸ごと失い、斬首・捕虜は一万を超え、軍車一万乗が呉の戦利品となった。曹休は命からがら逃げたものの、結局は恥に耐えきれずに憤死したという。こうして魏の十万は、ただの土煙に変わった。
凱旋した陸遜に孫権が与えた褒賞は、もはや贅沢の限りを尽くしていた。御車の蓋、黄金の帯、白鼯子裘、そして酒宴では主君自らが陸遜と舞いを披露した。陸遜が西陵へ帰還する際には御船を下賜し、その功績をねぎらった。
上大将軍として皇子孫登を教導
黄龍元年(229年)、孫権は武昌で帝位に即いた。呉はここに「皇帝の国」となり、陸遜もまた上大将軍・右都護に任じられ、三公をも凌ぐ地位とした。 同年、孫権は東巡して建業へ赴き、太子・孫登と皇子たち、さらに尚書九官を武昌に残した。陸遜は太子を補佐するとともに、荊州・揚州・豫章など三郡の事務を統轄し、呉の軍政を担った。
孫権は皇子たちの教育も陸遜に委ねた。当時、次子の孫慮は闘鴨を好んでいたが、陸遜は厳しく諫めて「君侯は経典を読み、学識を増すべきである。鳥を弄んで何の益があるのか」と言った。孫慮はすぐさま闘鴨場を壊したという。 皇子だからといって甘やかさず、正しい道に戻すのが陸遜の教育だった。
また、射声校尉の孫松は孫権の弟孫翊の子で、公子の中でもとくに孫権に近い存在だったが、軍紀を乱し、好き放題していた。 陸遜は彼の面前でその部下を剃髪刑に処し、さらに小過を犯した孫松本人にも直々に叱責を加えた。 怒りを顔に出す孫松に向かい、「私は何度も訪ねて忠言しているのに、なぜ不満そうな顔をするのか」と詰め寄ると、孫松は観念して「自分の過ちを恥じているだけです」と答えるしかなかった。
さらに、太子孫登の賓客である南陽人の謝景が「劉廙の説く、刑罰を先にして礼を後にすべきだ」と論じたときも、陸遜は容赦なく切り捨てた。「礼こそ治国の本である。刑罰を重んじるなど聖人の教えに背くものだ」と。彼は若き孫登の周囲から、儒学の正統を外れた言説を徹底的に排除したのである。
このようにして陸遜は、皇子や太子を厳格に導き、礼治を重んじる教育を徹底した。軍事を統べる大都督でありながら、後継者教育と政治の運営まで担ったのである。孫権の信頼がいかに篤かったかがうかがえる。
襄陽遠征と智謀による全軍退却
嘉禾三年(234年)、孫権は魏への遠征を命じ、陸遜と諸葛瑾に襄陽攻略を命じた。 陸遜は親族の韓扁に上奏文を託して都へ送ったが、その道中で魏軍に捕らえられるという事件が起こった。これを聞いた諸葛瑾は顔色を失い、「もう敵に全ての秘密を握られた、今すぐ撤退すべきだ」と慌てふためいた。
だが陸遜は全く動じない。部下に畑へ葱豆を植えさせ、自らは将たちと碁や弓の遊びに興じる。敵前にあっても普段と変わらぬ態度に、諸葛瑾はようやく悟った。「伯言には深い考えがある、決して慌ててはいけない」と。実際、陸遜は冷静に状況を読んでいた。魏はすでに孫権本軍の撤退を知り、次は自分たちを全力で叩きに来る。だからこそ、こちらが狼狽すれば一気に崩れる。まずは落ち着き払って兵を安定させ、退却はあくまで「計略」に見せる必要があったのだ。
やがて陸遜は大軍を率いてわざと襄陽へ進軍する姿を示した。魏軍は「陸遜が攻めてくる」と恐れて城に引きこもり、諸葛瑾は船団を整えて悠々と江上に姿を現した。その間に陸遜は隊伍を整え、大きな音と旗印を誇示しながら堂々と船へ乗り込み、全軍を無傷で退却させたのである。魏軍は真意を測れず、ただ見ているしかなかった。
さらに陸遜は白囲に軍を進め、周峻や張梁らを派遣して江夏郡の新市・安陸・石陽を急襲させる。ちょうど石陽の市では多くの民が交易の最中で、魏軍は城門を閉じられず民を斬ってようやく防いだが、千人余りが討たれ捕らえられた。 陸遜は捕虜となった住民を丁重に扱い、家族連れには兵をつけて保護し、孤児や遺族には衣食を与えて帰郷させた。この姿勢に感銘を受けた人々が次々と帰順し、江夏功曹の趙濯や弋陽の斐生、夷王の梅頤らも兵を率いて投じた。陸遜は私財を投げ打って彼らを養い、心をつかんでいった。
また、江夏太守逯式が部下の文休(文聘の子)と不仲であることを知ると、偽の密書を作り「あなたが呉に帰順したいと聞いた」と書いた偽手紙を仕掛け、これを魏軍に拾わせた。 これが魏の手に渡ると逯式は疑われ、ついに失脚する。 襄陽遠征は城を落とすには至らなかったが、陸遜は智謀によって全軍を無事に退かせ、さらに人心を掌握し、魏の将を失脚させるなど大きな成果を収めた。
二宮の変と晩年の悲劇
赤烏七年(244年)、丞相顧雍が世を去ると、その後任として陸遜が三代目丞相に任じられた。丞相に加え荊州牧や右都護の職務まで兼ね、武昌にあって呉の政と軍を支える重鎮となった。 しかし彼を待ち受けていたのは、国を二分する後継者争いだった。 太子・孫和と魯王・孫覇、二人の皇子が帝位をめぐって激しく対立し、歴史に名高い「二宮の変」が幕を開けたのである。
魯王派の全琮の子・全寄が孫覇と親しいことを憂いた陸遜は、全琮に厳しく忠告した。「漢の金日磾は国を守るために実の子を犠牲にした。あなたも家門を守るために断を下すべきだ」と。しかし全琮はこれを容れず、両者の間に亀裂が生じた。
一方、孫権は楊竺の密談を交わし孫覇を立てることを考えていた。だがその密談を偶然床下で聞いた使者が太子孫和に知らせてしまう。危機を悟った孫和は陸遜の族子・陸胤と密議し、陸遜に諫奏を依頼した。陸遜は「太子は正統、魯王は藩臣。嫡庶を正すべし」と繰り返し上表したが、孫権の耳には届かなかった。直接面会して説得しようと建業に赴く願いも拒まれる。
やがて密談が露見し、楊竺と陸胤は捕らえられ、外甥の顧譚・顧承・姚信は孫覇派の讒言によって流刑となった。さらに太子太傅の吾粲も陸遜との書簡を理由に獄死する。太子派は次々と排除され、陸遜の孤立は深まっていった。
孫権はたびたび使者を送り、陸遜を非難した。陸遜は憤りを抑えきれず、病を得て赤烏八年(245年)に世を去る。享年六十三。死因は憤死とも、自ら命を絶ったとも伝わる。家には財産ひとつ残されていなかった。
その子・陸抗が兵を継ぐが、孫権はなお怒りを収めず、楊竺が作った二十条の罪を突きつけて陸抗を責めた。だが陸抗は理を尽くして一つひとつを退け、孫権も次第に怒りを解いていった。そして太元元年(251年)、孫権は涙を流しながら「私は讒言に惑わされ、汝の父を負った」と陸抗に語った。陸遜を責める文書は自らの命で焼き捨てられた。
国家の危機を救い、国のために忠言を尽くした陸遜は、最後は権力闘争の渦に呑まれ、志半ばで倒れた。しかしその死後、かつての主君が悔恨の涙を流した事実こそ、陸遜という人の真の重みを示す証といえるだろう。
陸遜とは?人物像と思想と後世における評価と地位
陸遜はその生涯を通じて、武勇と知略に優れた将軍であると同時に、強い儒家思想を持つ政治家でもあった。彼は忠誠心に厚く、公私をわきまえ、朝廷では常に恭しく振る舞ったと伝えられる。また生活ぶりは質素で、死後に家財がほとんど残らなかったことからも、欲に淡い人柄であったことがうかがえる。
彼の政治的な姿勢は、しばしば「礼治優先」と評される。魏の劉廙が唱えた「先に刑、後に礼」という法家寄りの考えを批判し、「刑罰ではなく礼による統治こそ歴史が証明してきた正道である」と言い切った。孫権に対しても、厳刑を戒め、税の軽減や徭役の緩和を度々進言している。これは、国を強くするには民を休養させることが肝要だという彼の信念によるものだった。
また、陸遜は若者や皇族の教育においても一切妥協しなかった。孫権の次子・孫慮が闘鶏や闘鴨に耽っていた時には、「君侯たる者は学問に励み、見識を養うべきである」と厳しく諭し、孫慮も即座に遊戯をやめたという逸話が残る。宗室の孫松が軍紀を乱した際には、その従者を罰し、孫松本人をも厳しく叱責した。身分の高低によらず、公平に接する態度は、まさに長者の風格を備えていた。
陸遜は生前から高い評価を受けていたが、その死後も長く名将として称えられ続けた。孫権自身が「伯言(陸遜)は常に計略に優れていた」と語り、周瑜・魯粛・呂蒙に続く呉の柱石として認めていたことは有名である。陳寿も『三国志』において、劉備という一世の雄を破った戦功を大いに称え、彼を社稷を支える忠臣と位置付けている。
後世においても、その評価は揺るがなかった。晋や南朝の時代には「呉の社稷を守った忠将」として語り継がれ、唐代の武成王廟において祭祀の対象とされた武廟六十四将の一人に列せられた。さらに宋代においても名将七十二人の中に名を連ねており、諸葛亮・周瑜・関羽らと並び立つ存在として扱われている。
陸遜が単なる一武人ではなく、戦略眼と政治的力量を兼ね備えた存在であったことを示している。呉の存亡を支え、後世の史家や文人からも「社稷の臣」と称された陸遜の名声は、時代を超えて今日まで響き続けている。
参考文献
- 参考URL:陸遜 – Wikipedia
- 三國志・呉書十三・陸遜・陸抗伝 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 ・呉書二・呉主伝 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 ・呉書九・呂蒙伝 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑
- 建康実録
- 華陽国志
陸遜のFAQ
陸遜の字(あざな)は?
陸遜の字は伯言(はくげん)です。
陸遜はどんな人物?
陸遜は智略に優れ、忠義を重んじた人物です。政治面でも刑罰の緩和や民政の安定を訴えるなど、儒家的な性格を持っていました。
陸遜の最後はどうなった?
赤烏八年(245年)、二宮の変に関する上奏で孫権の怒りを買い、憤死または自殺したと伝わります。
陸遜は誰に仕えた?
陸遜は呉の孫権に仕え、その下で大都督・上大将軍・丞相を歴任しました。
陸遜にまつわるエピソードは?
夷陵の戦いで火攻を用いて劉備の大軍を破ったことが特に有名です。また、孫登や孫慮ら皇子を厳しく教育したことも伝えられています。
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