1分でわかる忙しい人のための陸抗(りくこう)の紹介
陸抗(りくこう)、字は幼節(ようせつ)、出身は呉郡呉県、生没年は226~274年。
呉の名将として、大司馬と荊州牧の地位を得た重臣である。
父・陸遜の汚名を自らの弁明で晴らし、建武校尉から立節中郎将へ昇進。寿春の救援、蜀滅亡後の永安への侵攻、西陵の乱鎮圧に尽くすなど、軍務に精励。
さらに晋の名将・羊祜との信義の逸話も伝えられ、その寛容と誠実で評判を得た。274年、病没したが、忠義と実務に貫かれた、その生涯は武廟六十四将に数えられる等、後世の評価を得続けている。
陸抗を徹底解説:西陵を守り呉を支えた最後の名将
出自と若き日:父の汚名を晴らした誠実な息子
建安20年(245年)、名将・陸遜が世を去ると、その次男・陸抗が家督を継ぐことになった。長兄の陸延は早逝していたため、若干20歳の若者が江陵県侯の爵位を受け継ぎ、さらに建武校尉として父の部曲五千をそのまま率いて武昌に駐屯する。
しかし、父の葬儀から戻った途端、待っていたのは香典ではなく尋問だった。孫権が取り出したのは、楊竺がかつて提出した陸遜への告発状。二十条にも及ぶ濡れ衣のオンパレードを、若き陸抗に突きつけたのである。
普通の青年なら黙りこくるか、泣きながら土下座するかの二択だが、陸抗は違った。一つひとつに明快かつ冷静に反論し、理詰めで父の潔白を証明していく。孫権はついに怒りを鎮め、父に向けていた疑念を取り下げた。
親の名誉を守った青年の誠実さは、「清白忠勤」として人々に記憶された。
早期の活躍:建武校尉から柴桑守備まで
建安21年(246年)、陸抗は立節中郎将に昇進し、諸葛恪と防区を交代する形で柴桑の守備を任された。彼が去ったあとの駐屯地は建物も軍備もきちんと維持され、まるで新品のような状態だったという。一方、諸葛恪の旧拠点は見るも無惨な荒廃ぶりであり、この差を目の当たりにした諸葛恪は恥じ入ったという。細部まで手を抜かず律義に処理した陸抗の仕事ぶりが伺える一幕である。
さらに建安26年(251年)、病の療養のため都・建業へ戻った陸抗は、孫権に召し出される。そこで老帝は涙を流しながらこう述べた。「我はかつて讒言を信じ、汝の父との義を損ねた。それはお前に対しても過ちであった。これまでのやり取りの文書はすべて焼いてしまえ、人の目に触れぬようにせよ」と。
この懺悔の告白を経て、翌年には陸抗は奮威将軍に任じられた。若くして軍政の要所を任される彼の力量は、もはや疑いようがなかった。
寿春救援と鎮軍将軍への昇進
延熙20年(257年)、魏の征東大将軍・諸葛誕が寿春で反旗を翻し、呉に降った。この機を逃さず、呉は援軍を派遣。柴桑督に任命された陸抗は出陣し、魏の牙門将や偏将軍を打ち破るという手堅い勝利を収めた。
この戦功により、彼は征北将軍に昇進した。すでに荊州の地で父・陸遜が撒いた信望の種は、陸抗の武功によって芽吹き始めたといえる。
さらに景元元年(259年)、鎮軍将軍に昇り、西陵の都督として赴任。翌年には節(軍事指揮権の象徴)を賜った。これは単なる肩書きの変化ではなく、彼の立場が前線における決定権を握る司令官クラスへと格上げされたことを意味している。
対蜀作戦:羅憲との永安攻防戦
景元5年(264年)、蜀漢が魏に滅びた直後の混乱を突き、呉は巴東に侵攻した。表向きは、かつて蜀に属した地を回収する名目だが、実際は空白地帯への火事場泥棒である。
このとき白帝城(永安)を守っていたのが、蜀から魏に帰属した羅憲だった。彼には守る義務など既に無い。それでも「誠信を守らぬ呉のやり口には従えぬ」と激昂し、即座に籠城態勢を整える。
呉はまず歩協・留平・盛曼を投入したが、羅憲の反撃に敗れ、孫休は激怒。ここでようやく陸抗が登場する。西陵駐屯中の彼に三万の兵を与え、総攻撃を命じた。
陸抗は丁寧な包囲戦を展開し、6か月にわたって永安を攻め続けた。だが魏からの援軍は遅れ、永安の内情は逼迫。水も食料も乏しいなか、それでも羅憲は「降伏せずに死す」との決意で立てこもり続けた。
やがて魏の荊州刺史・胡烈が2万の軍で西陵を攻撃し、呉軍の背後を脅かす。陸抗は永安の攻略を断念し、西陵救援のため撤退。呉の対蜀行動は、羅憲の気骨と魏の陽動により失敗に終わった。
この一連の動きは、形式上は敗北だが、蜀滅亡後の混乱に対して呉がすばやく軍事的対応を取った点では戦略的意義がある。なお同年、孫皓が即位し、陸抗は鎮軍大将軍・益州牧に昇進している。
西陵の乱の鎮圧:包囲戦術による叛将・歩闡制圧
鳳凰元年(270年)四月、大司馬・施績が死去すると、陸抗がその後任として信陵・西陵・夷道・楽郷・公安を統括する都督に任じられた。
彼は湖北省松滋の北東にあたる楽郷に駐屯したが、配下の将兵たちは「それぞれに主がおる」と言って命令系統を無視し、まったく統制がとれなかった。
陸抗は憂慮し、孫皓に宦官の専横を禁じ、軍政への干渉を排し、任用人事の改善を求める17条の上奏を提出したが、すべて無視された。体制が腐れば末端が腐るという、組織論の教科書通りの展開である。
腐った官制に呆れ果てる間もなく、西陵が炎上する。鳳凰元年(272年)、西陵督・歩闡が突如反旗を翻し、晋に降伏するという事件が発生した。
陸抗は即座に出兵し、力攻めを避けて包囲に徹するという堅実な戦術を選ぶ。ところが晋も手をこまねいていなかった。車騎将軍・羊祜が江陵を攻め立て、西陵の包囲を解こうと動く。
だが陸抗は動じない。部下たちの反対を押し切って、西陵への包囲を続行させつつ、江陵都督には死守を命じ、公安都督には長江南岸での水軍迎撃を命令。羊祜は攻めきれず退却、陸抗は西陵を奪還し、歩闡以下の反乱首謀者を斬る。
しかしここで「見せしめの大粛清」などしないのが陸抗の真骨頂だった。反乱に加担した数万人の将兵について、彼は孫皓に「赦免せよ」と進言し、実際に多くが許された。命を落とさずに済んだ者たちは、その後も呉の防衛戦に貢献したという。
鳳凰二年(273年)、その功により陸抗は大司馬・荊州牧に昇進。だが翌年、彼は病没する。生きていれば、西晋による呉の滅亡も、もう少し先延ばしにできたかもしれない。
西陵の乱の鎮圧:包囲戦術による叛将・歩闡制圧
鳳凰元年(272年)、西陵督・歩闡が突然晋に寝返った。よりにもよって戦略上の要衝、西陵をまるごと差し出す裏切りである。このとき呉の中央では宦官の専横が進み、陸抗は上奏して「官を与えるなら職に応じた者にせよ」「小人を重用するな」と17条もの進言を行ったが、すべて無視された。
政治が腐っているときに限って、なぜか軍事も崩れる。まさに悪い見本である。
それでも、陸抗は現場で踏ん張った。信陵・西陵・夷道・樂鄉・公安を束ねる都督として、即座に出陣。戦術は「囲んで、攻めず」。西陵を包囲するが正面衝突は避け、兵糧と士気の消耗を狙った。
晋は救援に羊祜を派遣し、江陵に攻め込んできた。ここで普通なら「分断される」と焦るところだが、陸抗は動じない。江陵都督に守りを任せ、公安都督には長江南岸を巡回させ、羊祜の水軍を防がせた。
羊祜は攻めきれず退却、陸抗は西陵を奪還し、歩闡以下の反乱首謀者を斬る。
しかしここで「見せしめの大粛清」などしないのが陸抗の真骨頂だった。反乱に加担した数万人の将兵について、彼は孫皓に「赦免せよ」と進言し、実際に多くが許された。命を落とさずに済んだ者たちは、その後も呉の防衛戦に貢献したという。
鳳凰二年(273年)、その功により陸抗は大司馬・荊州牧に昇進する。
敵将に信頼される将:羊祜との逸話に見る信義
陸抗と晋の将軍・羊祜は、戦場で敵対していたにもかかわらず、奇妙な信頼関係を築いたことで知られている。
羊祜は徳をもって接する懐柔策を取り、陸抗もまた敵地の民に暴を振るうことを戒め、「相手が徳を尽くしてくるなら、我々が暴で応じれば民の心は離れてしまう」と諫めた。
このため、両国の国境は一時的に安定し、越境をした民でさえ礼遇されるという、前線らしからぬ光景が現出した。
ある時、陸抗が病を患うと、羊祜は薬を届けた。部下たちは「毒かもしれません」と止めたが、陸抗は「羊祜がそんなことをする人間か」と一蹴し、疑わずに服用した。
後日、陸抗は美酒を贈り返すが、羊祜もまた疑うそぶりすら見せず、そのまま飲み干したという。
この異様なまでの信頼は、信義を何より重んじた将としての陸抗の姿勢を示しているが、孫皓の怒りを買い、「臣節を失した」と国内では嘲られた。
最期と後世評価:大司馬・荊州牧としての死と賛辞
陸抗は大司馬に昇進した翌年の274年に、病に倒れ48歳で没した。
生きていれば、西晋による呉の滅亡も、もう少し先延ばしにできたかもしれない。
『三国志』の編者・陳寿は、彼の統治と行動の誠実さ、そして策を立てて実行する優れた能力について、「誠実で明敏、計画実行に長ける者」と称賛している。
時を経て唐代、礼儀官である顏真卿が皇室に奏上し、歴代の名将を祀る「武廟六十四将」の一人として陸抗も選ばれた。そこに名を連ねるのは関羽・張飛・張遼・周瑜・呂蒙・陸遜・鄧艾・王濬・羊祜・杜預など、歴史に残る猛者ばかり。そうした中に加わった陸抗は、戦上手というより「信義に厚く、組織と誠実に生きた文武の指揮官」として評価されたのである。
死後に戦が始まるというタイミングも、彼の抑止力の大きさを物語っている。
参考文献
- 参考URL:陸抗 Wikipedia
- 《三國志·陸抗伝》
- 《三國志·呉書·孫皓伝》
- 《晋書·羊祜傳》
- 《晋陽秋》
- 《資治通鑑·魏紀十》
- 《漢晋春秋》
- 《宋書·顧覬之傳》
- 陸雲《祖考頌》
- 《陸氏世頌》
- 《唐鈔文選集註》
FAQ
陸抗の字(あざな)は何ですか?
陸抗の字は幼節(ようせつ)です。
陸抗はどんな人物でしたか?
東呉の名門出身であり、父・陸遜の汚名を自身の誠実さで晴らした忠臣です。軍事・政治の両面で活躍し、その誠実さと節度が評価されました。
陸抗の最後はどうなりましたか?
大司馬として荊州牧を務めた後274年に病没しました。
陸抗は誰に仕えていましたか?
主に孫権を中心とする呉政権に仕えました。
陸抗にまつわる逸話はありますか?
晋の将・羊祜との間で、美酒や薬の交換など信頼し合う逸話が残っています。
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