【1分でわかる】陸胤:忠義で孫和を救い、徳で南方平定した清廉の名臣【徹底解説】

陸胤

1分でわかる忙しい人のための陸胤(りくいん)の紹介

陸胤(りくいん)、字は敬宗(けいそう)、出身は呉郡呉県、生没年(?~?)

呉の官僚であり、陸遜の族子、陸凱の弟である。太子孫和に重んじられ、御史・尚書選曹郎を歴任したのち、二宮の争いで密議を太子側に通じた嫌疑で捕えられたが、酷刑に耐えて孫和を守り通したため、最終的に解放された。
赤烏十一年(248年)に交州刺史・安南校尉として赴任すると、恩信を掲げて高涼の渠帥黄呉らを帰順させ、賊帥百余人と民五万余家を降して交域を清め、就いて安南将軍に加任された。
その後、蒼梧・建陵の賊を討ち、前後八千余人を徴して軍備を充実、商旅往来と農業生産の回復を実現した。
永安元年(258年)には召還されて西陵督、封都亭侯、のち虎林督となる。中書丞華覈は、清廉・寛和の政績と物欲に乏しい私生活を上表で称え、都に召して重用すべしと推薦した。 子の陸式は柴桑督・揚武将軍となり、天冊元年(275年)に従兄の陸禕とともに建安へ徙され、天紀二年(278年)に建業へ召還されて軍職に復した。

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陸胤を徹底解説!太子孫和を救い、楊竺を消し、南方を平定した清廉の名臣の生涯

孫権・楊竺の密談を陸遜に伝える

陸胤は、陸遜の族子、陸凱の弟である。若くして御史・尚書選曹郎に抜擢された才人である。
清廉で聡く、誰に媚びることもない。そんな評判を聞いた太子・孫和は特別な礼をもって彼を遇した。

この頃、呉の宮廷では太子孫和と魯王孫霸が後継の座をめぐって対立していた。
宮廷という密室で進行する権力戦で、後世に「二宮の変」で伝わる争いである。
楊竺全寄らは魯王に肩入れし、太子派を排することで己の安泰を図った。

ある日、孫権は楊竺を召して密談した。
「魯王孫覇は文武の才を備え、風姿も立派だ。嫡嗣とすべきではないか。」
楊竺は同調し、孫覇の立太子を勧めた。だが、この密談には致命的な穴があった。
床下に、偶然にも給使が潜んでいたのである。
密室のはずが、簡単に一人が潜り込めるあたり、呉の宮廷にセキュリティという概念は存在しなかった。

その給使は一言一句を逃さず聞き取り、翌朝には太子孫和にすべてを報告した。
報告を聞いた孫和は蒼白になり、廃立の不安が一気に現実味を帯びた。
彼はただ一人、信を置ける人物として陸胤を呼ぶことを決めた。

ちょうど陸胤が武昌へ向かう途中だったため、孫和は変装して密かに車上を訪れる。
二人は人目を避けて語らった。
「父上が魯王を立てようとしています。陸遜殿に伝え、上表して諫めていただけないでしょうか。」
陸胤は頷き、陸遜に事の次第を伝えた。

陸遜は報を受け、すぐに上表した。
その文は切実であり、孫権の誤りを正面から指摘するものだった。
その文を読んだ孫権は、たちまち顔色を変える。
この話を知る者はただ一人。その楊竺への疑念が膨らみ、のちの悲劇が始まる。
部屋の構造や床の下など、己の警備状態を一切疑う気配はなった。

密議の露見と冤罪、獄中の沈黙

孫権は楊竺を呼び寄せ、「誰が漏らした」と問う。
楊竺はうろたえるでもなく、淡々とした声で答える。
「最近、西へ向かったのは陸胤ただ一人でございました。あの者が話したに違いありません。」
孫権はさらに陸遜にも確認を取り、「陸胤から聞きました。」という返答を得ると、疑念の矛先は一気に陸胤へと定まった。

まもなく陸胤は召し出され、しばらく沈黙したのち、ゆっくりと口を開いた。
「楊竺が私に話したのです。」その一言は、太子孫和を守るための虚言であった。
食い違う二人のやり取りに、陸胤と楊竺を牢へと下した。 重ねられる尋問と拷問の中で、陸胤は沈黙という鎧をまとい、自らの忠を守り抜いた。

やがて楊竺は苦痛に耐えかねて、ついに自らが話を漏らしたと認めた。
赤烏八年(245年)、孫権は真相を知り、楊竺を処刑し、陸胤を釈放した。

命は救われたものの、陸胤に対する疑いは完全には消えなかった。
陸胤はしばらく官を遠ざけられたが、孫覇派の楊竺を消した功績は大きかった。

交州刺史としての赴任、恩信による南方の平定

やがて陸胤は赦されて衡陽の軍を監督する都尉となり、戦場の泥を踏む日々を重ねた。
赤烏十一年(248年)、南方の交阯と九真で反乱が起こる。指導者は趙嫗という女で、山を拠り所に勢力を伸ばし、城や郡を次々と陥落させた。
南海の風よりも荒々しいその動乱に、交州は瞬く間に混乱の渦へと沈んだ。
朝廷は陸胤の誠実と柔軟さを信じ、彼を交州刺史・安南校尉として派遣する。南方鎮撫の大任である。

陸胤は任地に着くや否や、剣ではなく徳を選んだ。
高涼の首領・黄呉らに書簡を送り、恩信をもって降伏を促したのである。
軍を率いて威を示すよりも、書一通に誠を込める方が、よほど心を動かすと知っていた。
その結果、黄呉ら三千余家が武器を捨てて帰順した。陸胤はさらに南へ進み、財貨や織物を贈って和を示した。

その誠意は風のように伝わり、各地の豪族や民が次々と投降した。
山深く、あるいは海辺の果てに潜んでいた反乱首領百余人、五万余家の民までもが陸胤のもとに膝を折った。
陸胤の誠意は、戦わずして敵を溶かし、街道には再び人の往来が戻った。

陸胤の名は南方全域に広まり、やがて安南将軍の位が加えられた。

蒼梧・建陵の賊討伐と南方統治の安定

交州がようやく静まったと思ったら、次は蒼梧と建陵が騒ぎ出す。
陸胤はむしろ「やはり来たか」と言いたげに、素早く兵をまとめて出陣する。

短期で反乱軍を殲滅したのち、八千余人を徴発して軍備と治安に回した。
永安元年(258年)、西陵督として召還され都亭侯に封じられる。
そのあと、左虎林へ転じた。

華覈の奏上と清廉の誉れ

中書丞・華覈は、陸胤の人柄と功績を高く評価し、中央に登用すべき人物として朝廷に推挙した。
彼は奏上で「陸胤は天性聡明にして行い清廉、交州では流民を帰附させ、地を安んじ、疫病と飢えを鎮めた。
十余年の在任中、私財を蓄えず、妾も置かず、富貴に驕らず。これほどの人物は今やまれであり、王室を支えるにふさわしい」と述べた。

しかしこの奏上は受け入れられず、陸胤は中央へ戻ることなく、任地にとどまったまま記録から姿を消す。

子の陸式と一族の行方

陸胤の没後、その血脈は呉の政においてなお息づいていた。
子の陸式は柴桑督・揚武将軍に任じられ、父と同じく南方に配されて軍を預かった。

建衡元年(269年)に陸凱が死去し、鳳凰三年(274年)に陸抗が死去すると孫皓は陸家の勢力を徹底的に削ぎ落とした。
天策元年(275年)、陸式は従兄の陸禕(陸凱の子)とともに建安へ移された。
しかし、天紀二年(278年)には建業へ召され、将軍の職と侯の位を再び得た。

陸氏といえば陸遜・陸凱の名が知られるが、陸胤の系統もまた、表に出ずとも政を支え、誠実をもって家名を残した。
派手な功績を誇らず、騒乱の世にあっても権門に飲まれなかったのは、清廉という名の遺産を守り続けたからである。

陸胤の人物評

『三国志』の陳寿は「身の潔く事をよくし、南方にその名を残した。まことに良き地方官といえる。」と言葉は少ないが、清らかにして実務に通じ、任地において確かな足跡を残した。

また中書丞・華覈は上表において、「天性聡明にして行い清廉」と評し、その政治は信をもって人心をまとめるものだったと称えた。
飾らず、奪わず、騒がず。十年にわたって南の果てで民と向き合い、富貴にも惑わされることなく職を全うしたその姿は、官吏の理想とされた。

参考文献

FAQ

陸胤の字(あざな)は?

字は敬宗(けいそう)です。

陸胤はどんな人物?

清廉で恩信を重んじる統治者です。交州では招撫と財幣を用いて賊帥や住民を帰順させ、商旅と農政を回復させました。

陸胤の最後はどうなった?

永安元年(258年)に西陵督、のち左虎林に異動し、以後の詳録は多くありません。子の陸式が官を継いでいます。

陸胤は誰に仕えた?

呉の孫権・孫亮に仕えました。

陸胤にまつわるエピソードは?

二宮の変の際、太子孫和を守るため自らを犠牲にして獄中で沈黙を貫きました。

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