1分でわかる忙しい人のための陸凱の紹介
陸凱(りくがい)、字は敬風(けいふう)、出身は呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市)。生没年は198年~269年。
陸遜の一族であり、三国時代・呉の後期に重臣として活躍し、最終的には左丞相まで上り詰めた人物である。
若くして地方官として民政に功績を挙げたほか、軍事にも従事し、南方の儋耳・朱崖征伐などで戦功を立てた。
特筆すべきは、孫皓の専制に対して幾度となく諫言を行い、暴政を正そうとした剛直な姿勢である。
その忠直さゆえに皇帝の逆鱗にも触れたが、最期まで節を曲げずに忠言を続けたことで知られる。
晩年は重病に倒れたが、死の間際まで後進の推挙と政務改善の献策を行った。
陸凱を徹底解説!呉の滅亡へと向かう時代に最後まで正論を貫いた男の生涯
若き日の行政手腕と文武両道の才覚
222年から224年にかけて、陸凱は永寧長・諸暨長という地方官を歴任した。
この時期の政績は「治跡あり」と記されており、要するに「ちゃんと仕事してた」タイプの若手エースだったわけだ。
その後、軍職である建武都尉となって軍を率いることになるが、本人の関心はもっぱら書物で、 特に揚雄の『太玄経』に強い関心を持ち、繰り返し読み込むうち、占筮にも応用してたびたび占いを的中させた。 「手不釋卷」と言われるほど書物を離さず、文と武の双方に才を発揮した人物である。
南征の成功と江陵で味わった苦杯
242年、孫権は陸凱に南方の征討を命じた。同行したのは将軍の聶友で、率いる兵は三万。
行き先は朱崖と儋耳、現在の雷州半島から海南島にかけての地である。
気候も風土もまるで異なる地域での遠征だったが、陸凱は軍を統率し、敵を討伐して戦果を挙げた。
さらに朱崖には新たに郡を設置し、功績を認められて建武校尉に昇進している。
しかし、数年後には苦い経験が待っていた。
250年、魏の王昶と王基が江陵に侵攻し、呉の守将である朱績が敗退。
事態を重く見た孫権は、陸凱と戴烈を援軍として急派したが、二人が到着した時点で戦況は既に厳しく、戦果を挙げる間もなく撤退し、期待された反撃は実現しなかった。
山賊討伐と巴丘督への昇進
255年、零陵で山賊・陳毖が出没。
呉と言えばサンエツ討伐で、陸凱も例にもれず経験する。
しっかり討伐は成功し、陳毖を斬首。功績により偏将軍・巴丘督に昇進し、ついでに都郷侯にも封じられた。
毌丘儉・文欽の乱に乗じた出兵と征北将軍への昇進
255年、零陵で山賊・陳毖が出没する。
討伐は成功して陳毖を斬首し、功績により偏将軍・巴丘督に昇進、ついでに都郷侯にも封じられた。 同255年、魏の淮南で守将・毌丘儉と文欽が司馬師に対して挙兵した。
呉はこれを好機と見て、丞相の孫峻、呂據、留贊らが軍を率いて寿春への進軍を開始。
陸凱にも命令が下され、軍を率いて東興へ出動したものの、到着前に反乱はすでに鎮圧されていた。
その後、文欽は残兵を連れて呉に投降し、呉と魏の戦闘が続くが、勝敗は一進一退に終始した。
この一連の動きにより、陸凱は蕩魏将軍、さらに綏遠将軍へと昇進している。
258年、孫休が即位すると、陸凱は征北将軍に任命された。
将軍の証である節も与えられ、さらに名義上ではあるが豫州牧にも任じられている。
ただしこれは実際に赴任するものではなく、肩書きのみを与える形式的な官職であった。
孫皓即位後の重用と晋との国交断絶に反対した進言
元興元年(264年)、孫皓が即位すると、陸凱は鎮西大将軍・巴丘都督・荊州牧という三役を一気に与えられる。
さらに嘉興侯に封じ、重用する姿勢を見せた。
寶鼎元年(266年)、晋が油断してるという報を受け、孫皓は「弋陽に攻め込もうか」と浮かれ出す。
そこに立ちはだかったのが、当然、陸凱である。
「相手はまだ強い、今攻めても得は無い」と断言。
孫皓はその場では聞き入れたが、結局は晋と国交を断絶してしまうことになる。
左丞相任命と巴丘管轄の交代
266年、孫皓は政務体制を改め、丞相の職を左右に分割した。
左丞相には陸凱、右丞相には万彧が任命され、ふたりは並立するかたちで朝政を担うことになる。
翌年春、巴丘の軍務は陸凱から万彧へと交代。
これにより、陸凱は丞相職を維持しつつ、軍権の一部を手放すかたちとなった。
諫言と政変未遂、そして死の直言
陸凱は左丞相として、孫皓の苛政と奢侈、好戦的な政策にたびたび諫言を呈した。
ときには、桀や紂のような亡国の君主を引き合いに出し、直言をもって君主を諫めた。
さらに天象の異変や民間の歌謡を根拠として、建業への還都を進言するなど、迷信深い孫皓の性格を逆手に取った諫言も見られる。
宝鼎元年(266年)十二月、陸凱は大司馬の丁奉、御史大夫の丁固と共に、孫皓を廃し、孫休の子を立てようとする計画を立てたとされる。
ちょうど孫皓が廟を参拝する機会に合わせ、政変を起こすつもりだったが、計画を知らされた左将軍の留平がこれを拒否し、口外しないことを誓ったため、実行には至らなかった。
建衡元年(269年)、陸凱は重病に伏す。
孫皓は中書令の董朝を派遣して、遺言を問わせた。
陸凱は、側近の何定と奚熙を任用に値しないと明言し、地方に転任させるよう求めた。
一方で、姚信、楼玄、賀邵、張悌、郭逴、薛瑩、滕脩、陸喜、陸抗といった人物を推薦し、彼らはいずれも清廉かつ忠勤、あるいは優れた才能を持つ国家の柱石であり、社稷を支える賢人として重用するよう勧めている。
同年十一月、陸凱は死去した。享年七十二であった。
死後の報復と陸家の凋落、そして陸凱という人物
陸凱の死後、孫皓はすぐさま動いた。
まず陸凱の子である陸禕を召還し、外地での兵権を手放させる。
さらに274年に陸抗が死去すると、翌年の275年、陸凱の一族を建安へ流罪とし、名門・陸家の勢力を徹底的に削ぎ落とした。
その背景には、陸凱が生前しばしば命令を拒み、直言を繰り返したことへの遺恨があったとされる。
陳壽は陸凱を「忠壯質直」と評し、「大丈夫の節義を体現する人物」と称えた。
また、陸抗の子(陸遜の孫)・陸機もその政務への尽力を高く評価しており、「左丞相陸凱は諫言を尽くし、国家を支える柱石であった」と記している。
陸凱は、知識人であり軍人であり、そして何より空気を読まない正論屋だった。
皇帝に対しても堂々と「あなたは桀や紂レベルです」と言い放ち、政変すら企てるほどの反骨精神を持っていた。
最期の言葉では、信頼する家族と有能な官僚たちの名を列挙し、国家の未来を託そうとした。
仕えるという行為を、自身のためでなく国のために貫いたことこそが、陸凱という人物のすべてである。
参考文献
- 参考URL:陸凱 – Wikipedia
- 《三國志·呉書·陸凱傳》 陳壽著、裴松之注
- 《三國志·呉書·孫晧傳》 陳壽著、裴松之注
- 《資治通鑒》 司馬光著、胡三省注
- 《江表伝》
陸凱のFAQ
陸凱の字(あざな)は?
敬風(けいふう)です。
陸凱はどんな人物?
正義感と忠誠心に溢れ、どんな権力者にも正論をぶつける剛直な性格でした。
陸凱の最後はどうなった?
建衡元年(269年)に重病で死去しました。享年72歳でした。
陸凱は誰に仕えた?
孫権・孫亮・孫休・孫皓の四代に仕えました。
陸凱にまつわるエピソードは?
中止しますが、孫皓を廃し、孫休の子を立てようとする計画を立てています。
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