1分でわかる忙しい人のための陸瑁の紹介
陸瑁(りくぼう)、字は子璋(ししょう)、出身は呉郡、(?~239年)
陸瑁は呉の名将・陸遜の弟であり、学問を好み義を重んじた人物である。若くして士人たちと親交を結び、貧しい友人と財を分け合うなど、その誠実さで知られた。仕官の誘いを辞退しながらも、兄弟や孤児を養うなど、道義を実践した生活を送った。
嘉禾元年(232年)に朝廷に召され、議郎・選曹尚書となる。孫権が遼東の公孫淵を討とうとした際には、二度にわたり上疏し遠征の危険を諫め、ついにその出征を止めさせた。正論を恐れずに述べる諫臣として高く評価され、『聖人は善を嘉し、愚を憐れむべし』と説いたその言葉は後世にも伝わる。赤烏二年(239年)に没したが、その篤義と高潔な人格は「君子これを称す」と讃えられた。
陸瑁を徹底解説!忠義と学問を貫いた諫臣、孫権を動かした智の言葉
学問と義に生きた青年期
陸瑁の父は九江郡都尉の陸駿で、兄は呉の丞相・陸遜である。
若い頃から学問を愛し、筋の通らぬことが大嫌い。義理と誠実に取り憑かれたような青年だった。
彼の周りには、志を同じにする士人たちが集まった。陳融、濮陽逸、蔣纂、袁迪といった、いずれも家は貧しく、志は高く、出世欲よりも信念を選ぶ連中だった。陸瑁はそんな彼らと寝食を共にし、食べ物も財も分け合い、互いの志を支え合った。言ってみれば「清貧救済サークル」である。財や食を分け合い「仁義とは何か」を語り合った。
ある日、同郡の徐原という人物が病で亡くなる前に、一通の遺書を陸瑁へ送った。面識もない相手からの書状には、「幼い子の後事を託す」とあった。普通なら驚くだろうが、陸瑁は迷わなかった。墓を建てて弔い、残された遺児を自らの手で育て上げた。縁も血もないのに、ここまでやる。彼にとって義理とは、呼吸のようなものだった。
さらに、従父の陸績が早くに世を去った(219年)ときには、残された二男一女を引き取り、成人するまで養育した。 だがそこには、単なる善意ではなく、もう一つの意味があった。かつて陸瑁の父・陸駿が亡くなったあと、陸績の父・陸康が陸遜と陸瑁の兄弟を育ててくれた。その恩を返す形で、陸瑁は陸績の子らを養ったのだ。
義を受けて義で返す。陸家の繁栄を支えたのは、剣でも官位でもなく、この「恩のリレー」だったのかもしれない。
仕官を拒み、道義を重んじた隠遁
陸瑁は若くして名を知られながら、州郡からの招聘をすべて断った。彼にとって官職は目標ではなく、時に「品位を下げる危険物」だった。
彼の名が広まったきっかけは、尚書・暨豔との書簡のやりとりだった。暨豔は当時、三署(官庁)の人事を握り、人の過失を暴いては「自分は賢者だ」と世に示したい性格の男だった。現代なら、SNSで毎日他人を批評して炎上していたタイプである。
陸瑁はそれを見過ごせず、一本の書を送った。
「聖人は善を嘉し、愚を憐れみ、過ちを忘れて功を記すものなり、今まさに王業始建の時で、漢の高祖が瑕を捨てて賢を用いたように、世俗を励まし教化を明らかにしたほうがいい。孔子の博愛に倣い、郭泰の包容を学ぶべし」と諭した。
要するに「お前は徳を広げる立場であって、粗探しの係ではない」と言っているのだ。
しかし暨豔は、この忠告を理解できなかった。いや、理解したが実行できなかったのだろう。結局、彼はその性格のまま失敗した。世の人々はこれを見て、「陸瑁の言は一篇で人を超えた」と称えたとか。
孫権に公孫淵討伐中止の諫言をする
嘉禾元年(232年)、陸瑁は朝廷に召され、議郎・選曹尚書に任じられた。 同じ頃、顧雍の子・顧承も仕官しており、呉の政権は世代交代の入り口に立っていた。 しかし、ようやく表舞台に出たかと思えば、最初の仕事は、主君の暴走を止めるという高難度ミッションだった。
というのも、遼東の公孫淵が魏と呉の二股外交で裏切りを繰り返し、孫権の怒りが限界を突破していたのだ。「許さん、俺が征伐してやる」と、完全に血が上っている。
部下たちは沈黙し、誰も止められない。そんなとき、無謀に冷水を浴びせる男が陸瑁であった。
彼は上疏し、「向こうが野人なら、野人のままにしておけばいい、公孫淵のような小物に本気になるのは、時間と燃料の無駄、遠征すれば兵は三分し、食糧も足りず、戦えば消耗する。勝っても赤字、負ければ破産」と理屈で相手の血圧を下げにかかった。
最後に、「怒りは戦略ではありません。まずは国を固め、機会を待つべきです」と結んだ。 冷たいようで、最も人間的な忠告だった。
孫権は上疏を何度も読み返し、やがて地図をたたんで、遠征は中止する。怒りの炎より、理屈の火消しが勝った瞬間である。
英雄とは、刀で敵を斬る者だけではない。暴走した王の決意を斬った者もまた、英雄と呼ばれる。
晩年の識見と死
赤烏二年(239年)、陸瑁はその生涯を閉じた。嘉禾元年(232年)に朝廷へ召されてから、議郎・選曹尚書として仕えた期間は短いが、孫権の遠征を止めた上疏は、一国の戦を止め、一人の皇帝の怒りを鎮め、その功績は『呉書』に伝を立てるほど濃かった。
また、人を見る目にも確かな勘があった。同郡の聞人敏が厚遇され、宗脩が軽んじられていたころ、陸瑁は「宗脩こそ真にすぐれた人物である」と言い切った。誰も信じなかったが、のちに宗脩の方が実績を挙げ、陸瑁の見立てが正しかったことが証明されている。
陳寿は『三國志』で「陸瑁は篤義にして規諫を重んず。君子これを称す」と記す。その評の通り、陸瑁は正義感をもって主君に言葉をぶつけ、己の理を曲げなかった。
彼の死に涙した者がどれほどいたかは知らない。だが彼がいなければ、呉の地図はきっと違っていた。名誉も富も持たず、ただ「間違っている」と言うために生きた男、それが陸瑁という人間だった。
陸瑁の子孫たちと繋がり
陸瑁の子孫は、呉から西晋にかけて代々中央政界に仕え、名門としての地位を保った。
第二子の陸喜(字・文仲)は、呉で吏部尚書に昇進し、呉の滅亡後も西晋に迎えられ、散騎常侍を務めた。第三子の陸英もまた兄に劣らぬ人物であり、西晋で高平国の国相・員外散騎常侍を歴任した。兄弟ともに文才と節義に富み、人倫を重んじたと伝えられている。
孫にあたる、陸喜の子・陸晔(りくえつ、字・士光)は、車騎将軍・儀同三司にまで昇り、陸家の名声を高めた。弟の陸玩(字・士瑶)は温厚で度量広く、司空に就任し、死後には太尉を追贈された。『晋陽秋』にはその人柄が風雅であったと記されている。
こうして陸瑁の遺風は、子や孫たちにも受け継がれ、三代にわたって政界で栄達を遂げた。
また、志を同じにした濮陽逸の子、濮陽興は後に呉の丞相になり、袁迪の孫・袁曄(袁暐とも書かれる)は『献帝春秋』を著したと言われている。
参考文献
- 三國志 : 呉書十二 : 陸瑁傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書七 : 顧承傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書二 : 吳主傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十三 : 陸遜傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 晋書 : 列傳第二十四 陸機 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:陸瑁 – Wikipedia
陸瑁のFAQ
陸瑁の字(あざな)は?
陸瑁の字は子璋(ししょう)です。
陸瑁はどんな人物?
学問を好み、義理を重んじる人物でした。貧しい友を助け、孤児を養うなど、誠実で慈悲深い性格でした。
陸瑁の最後はどうなった?
赤烏二年(239年)に没しました。生涯を通じて直諫を貫き、君子と称されました。
陸瑁は誰に仕えた?
呉の孫権に仕え、選曹尚書として政務にあたりました。
陸瑁にまつわるエピソードは?
孫権が遼東の公孫淵を討とうとしたとき、二度にわたり上疏して遠征を止めさせたことが有名です。
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