1分でわかる忙しい人のための李衡の紹介
李衡(りこう)、字は叔平(しゅくへい)、出身は襄陽、 生没年(?~?)
後漢末から呉に仕え、大将軍司馬・丹陽太守・威遠将軍などを歴任した武将である。彼は孫権に仕えて呂壱を弾劾し、清廉で公正な人物として評価された。
諸葛恪の司馬として蜀漢へ出使し、姜維を説得して呉と蜀の連携を実現させた。丹陽太守時代には法を厳しく適用し、のちに皇帝となる孫休をも裁いたことで知られる。孫休即位後には自身の安危を憂い魏への帰順を考えるも、賢妻習英の助言で思い止まった。
晩年は沅水の樊洲に宅を築き、千株の柑橘を植えたことから橘洲の名が生まれ、後世にその地名が残るほどの影響を与えた。呉末には橘洲の実りにより家は裕福となり、その遺産は東晋の時代まで語り継がれた。
李衡を徹底解説!孫権に恐れず呂壱を弾劾、孫休も恐れず裁断し後悔した呉の官僚、そして橘洲に残した千樹の遺産
孫権に仕え、呂壱を弾劾
李衡は襄陽の兵の家に生まれた。後漢末の動乱期に武昌へと移り住んだ。 この男を見た羊衜は、目を細めて一言。「尚書の才がある」、要するに、事務も進言も一人でやれる便利な人材というわけである。
当時、孫権の側近には呂壱という男がいた。彼は「校事」という肩書きを盾に、朝廷で好き勝手していた。 権力を振りかざしては人を陥れ、法を弄んで、宮廷の空気を腐らせていた。 被害者は顧雍、刁嘉、朱拠(朱據)といった面々。 誰もが口をつぐむなか、「あの呂壱を止められるのは、李衡しかいない」と羊衜は思い孫権に推薦した。
孫権の召しを受けた李衡は、すぐさま呂壱の悪行を数千言にわたって並べ立てた。賄賂、私刑、讒言、虚偽といったもう「悪事の総合商社」みたいな内容である。場が凍る中、李衡は一歩も退かず、淡々と罪状を明らかにした。
孫権は最初こそ聞き流していたが、次第に眉をひそめ、ついには愧色を浮かべた。 つまり、「これはあなたの恥ですよ」と遠回しに突きつけられたようなものだが、孫権は怒らずむしろ深く感じ入ったという。
数ヶ月後、呂壱の悪事はすべて暴かれ、ついに処刑が下された。李衡の直言は、刀より鋭く、血を流さずに一人の巨悪を葬ったのである。孫権はその功を賞して李衡を厚く遇し、官途でも引き立てた。
諸葛恪の司馬として仕える
李衡はやがて諸葛恪の幕下に入り、司馬として府中の事務を取り仕切った。
東興の戦いで勝利を収めた翌年、建興二年(253年)、諸葛恪はさらなる一手を打つ。
蜀漢と連携して魏を挟撃する構想で、その使者に選ばれたのが李衡だった。相手は、蜀の北伐大好き将軍の姜維であった。
李衡は「聖人であっても時を作ることはできぬ。しかし、時が来たなら逃してはならぬ。今、魏の政は私門にあり、内外は疑心に満ち、兵は外で敗れ、民は内で怨んでいる。曹操以来、このような衰えは見たことがない。いまこそ挟撃の好機。呉が東から、漢が西から攻めれば、魏は自ら崩れる」と述べた。まるで兵法書の一節のような論理である。
その言葉は姜維の胸を打った。魏を討つために孤軍奮闘してきた彼にとって、呉との連携は喉から手が出るほど欲しい策だった。李衡の冷静な分析と、淡々とした口調が、むしろ信を得たのだろう。
こうして呉と蜀の共同作戦が動き出した。ただし結果は、諸葛恪率いる呉軍の惨敗であった。しかし李衡の責任ではなく、お咎めもなかった。
丹陽太守時代の孫休との関り
諸葛恪の死後、李衡は丹陽太守を望み、五鳳元年(254年)正月、その任命を受ける。自ら望んで官職に就く。
着任した李衡は、法を刀のように振るった。情け容赦なし、例外もなし。そんな彼の前にいたのが、琅邪王・孫休である。まだ若く、いずれ皇帝になる男を、李衡はなんと何度も裁断した。おそらく皇族だからと手を抜くことなど微塵も考えなかったのだろう。彼にとって法は天より上にあり、人情は下にあった。
当然、周囲は青ざめ、なかでも妻の習英は「そのくらいにしておきなさい。」と繰り返し諫めている。 だが李衡は聞かない。正義感というのは、ある種の麻薬で、一度キマると理屈が通じなくなる。
やがて孫休の耐えかねて上奏文をしたため、「どうか他の郡へ移してほしい」と訴えた。 李衡を讒言せず、自分が移動するくらい、後ろめたさもあったのだろう。結果、詔勅によって孫休は会稽へ転任する。
この一件、当時は「太守が厳正だった」で済んだかもしれない。だが後に、孫休が皇帝の座についたとき、この出来事がどんな記憶として甦ったか。李衡にとって、それが「過去の事件」で済まなかったのは、もう少し先の話である。
孫休の帝位即位と李衡の不安
やがて時は巡り、太平三年(258年)、かつての琅邪王・孫休がついに皇帝となる。 国中が祝うその報を聞いたとき、李衡の胸中は祝福よりも冷や汗だった。 丹陽太守時代、手加減なしで何度も法で裁いたあの男が皇帝になったのだ。
李衡は夜も眠れぬほど怯え、思い詰めた彼は「いっそ魏に帰順しよう」と決断する。呉を裏切り、北へ逃れるという禁断の選択である。だが、傍らの妻・習英が止めに入った。
「それは道に背くことです。あなたのしてきたことが正しかったのなら、正々堂々と頭を下げればよいではありませんか」 正論だが、李衡にとっては毒のように苦い言葉だった。それでも彼は思い直し、自ら罪を認めて出頭した。
ところが、孫休の対応は意外だった。怒るどころか赦したのだ。それどころか、李衡を威遠将軍に任じ、棨戟(けいげき)まで賜った。冷や汗を流していた男が、翌日には褒賞を受ける、まるで処刑台の階段を登った先に、褒美の卓が置かれていたような話である。
もっとも、孫休の胸中までは誰にも読めない。本当に寛容だったのか、それとも「生かしておいた方が面白い」と考えたのか。李衡は助かったが、その安堵の裏に、得体の知れぬ不気味さが残った。正義を貫いた男が初めて味わう、「赦される側の居心地の悪さ」であった。
習英の賢明な助言と橘洲の築造
晩年の李衡は十人の従者をこっそり差し向け、武陵・龍陽の沅水にある樊洲へ屋敷を建てさせ、さらに千株もの橘を植えさせたのである。
臨終の際、李衡はその件を息子に告げた。息子が母・習英に報告すると、彼女は平然として言った。 「あの人は橘を植えるとよく言っていました。七、八年前に十人の従者が消えたのも、それでしょう」 驚きも怒りもない。つまり、最初から夫の行動など読み切っていたということだ。
李衡は生前、司馬遷の『史記』にある一句「江陵千樹橘、当封君家」を好んで引いた。橘を千本植えれば、一家を封侯に値するほどの財産になる、という理屈だ。だが習英は、即座にその幻想を切り捨てた。
「人が恐れるべきは徳を失うことであって、富貴を失うことではありません」 そう言って彼女は一線を引いた。夫の理屈よりも、己の筋を選ぶその一言で、夫婦の力量差ははっきりした。
橘洲の繁栄と後世への影響
呉が末期を迎えるころ、李衡が樊洲に植えた千株の橘がついに実を結んだ。皮肉なことに、政治よりも橘のほうが長持ちしたのである。その収穫は驚くほどで、李家は毎年数千匹分の絹に相当する収益を得た。家は潤い子孫は裕福になり、李衡が生きていた頃には手の届かなかった安定が、ようやく現実になった。
時代が移り、東晋の咸康年間(335~342年)になっても、李衡の旧宅跡には橘の枯木が残っていたと記録にある。幹は朽ちても根は残り、名だけが風に乗って続いていった。
樊洲はやがて「橘洲」と呼ばれるようになった。その名は地名として今も残り、栄華でも忠節でもなく、一本の橘の木が、彼の名を後世に残した。
参考文献
- 三國志 : 呉書三 : 孫休傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十九 : 諸葛恪傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻076 – 维基文库,自由的图书馆
- 襄陽記 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:李衡 – Wikipedia
李衡のFAQ
李衡の字(あざな)は?
字は叔平(しゅくへい)です。
李衡はどんな人物?
李衡は剛直で法を守り、時に皇族であっても厳しく裁いた人物です。また直言を恐れず、呂壹を弾劾したことでも知られます。
李衡の最後はどうなった?
晩年に沅水の樊洲に宅を築き、橘を植えました。没後、橘洲は李家に豊かな富をもたらし、その遺産は東晋まで伝わりました。
李衡は誰に仕えた?
呉の孫権、孫休らに仕えました。また諸葛恪の司馬としても活動しました。
李衡にまつわるエピソードは?
建興元年(252年)、蜀漢に赴き姜維を説得し、呉と蜀の共同戦を推進したことが有名です。また、妻の習英との夫婦のやりとりも逸話として残っています。
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