1分でわかる忙しい人のための羅憲の紹介
羅憲(らけん)、字は令則(れいそく)、出身は襄陽、生没年(218~270年)
青年期に譙周に学び、太学で名を馳せた才子は、やがて巴東太守として国境を預かることになる。
蜀漢滅亡の報を受けて都亭で三日泣き、気持ちを切り替える間もなく呉軍三万がやってくる。
援軍ゼロ、武器ボロボロ、味方は少数、それでも半年間、永安を守り抜いた。
その後も巫城を落とし、晋では人材を推薦し、派手に目立たず地味に尊敬を集めた。
涙と決意と、ちょっとした頑固さが詰まった男である。
羅憲を徹底解説!永安で三日泣いて半年戦う、蜀漢最後の名将
黄皓と距離をとりすぎた結果、最前線へ左遷
羅憲は13歳で文章の才を讃えられ、太学で譙周に師事。
当時の学友には陳寿や李密など後に名を残す面々が揃い、羅憲はその中でも「子貢」に例えられる、要するに“弁の立つ優等生”だった。
そんな彼が仕えた蜀漢後期は、知恵よりコネ、清廉よりゴマすり、という残念すぎる官界。
特に黄皓という悪徳宦官が権力を握ると、ロジックと礼節で生きてきた羅憲の居場所は急速に蒸発する。
彼は黄皓と関わらず、忖度もせず、結果、都から巴東という辺境へ飛ばされる。
それは左遷だった。しかし、この僻地こそが彼の真価を問われる舞台となる。
「三日泣いてから戦う」永安死守の六ヶ月
263年、蜀漢が魏に降伏したとき、羅憲は都亭で部下とともに三日間喪に服す。
そこにやってくるのが、元同盟国・呉からの侵略軍。先頭に立つのは建平太守・盛曼。
かつて出張で行ったときには礼を尽くしてくれた呉の人々が、今は弓を向けてくる。
羅憲のもとには正規軍も援軍もなく、城兵と地元民あわせて防衛線を敷くが、まともな兵糧もなかった。
呉軍は初手で白帝城を強襲、羅憲は長江沿いに防衛ラインを敷きつつ、参軍・楊宗を使者として魏に援軍要請を出す。
だが成都では鄧艾・鍾会の乱の後始末でそれどころではなく、司馬昭は「援軍送れん」とあっさり通告。
それでも羅憲は踏ん張る。呉軍が三万であろうと、補給線が続く限り、ただの的にしかならんと割り切る。
攻防は半年続き、ついに魏が動いたのは、彼が粘りに粘って時間を稼いだ後だった。
胡烈が西陵を襲い、呉の背後に火をつけると、ようやく陸抗らの主力は退却。
巴東は守られた。だが、そこにロマンスも栄光もない。あるのは疲労と、静かな達成感だけだった。
巫城攻略と進言:戦いのその後も、控えめに忠を尽くす
戦後、羅憲は巴東守備の功績により武陵太守を兼ね、晋に仕えてからも西鄂侯に封じられる。
晋武帝・司馬炎の宴席では、蜀出身者として呼ばれ、「お前の知ってる使える若手誰?」と尋ねられる。
羅憲は、常忌・杜軫・寿良・陳寿(三国志の著者)・高軌・呂雅・許国・費恭(費禕の子)・諸葛京(諸葛亮の孫)・陳裕の10人もの名前を挙げた。
選挙ポスターみたいな推薦だったが、これらの人物は実際に後に登用されていく。
また、彼は呉との戦いにおいて巫城を攻略。攻勢だけでなく、晋への「呉征伐策」も上申している。
しかしその行動に自慢気なところはなく、報償を求めてアピールすることもなかった。
不器用で派手さのない忠誠。それこそが、羅憲が生涯貫いたスタイルだった。
参考文献
- 参考URL:羅憲 – Wikipedia
- 三國志·蜀志·霍弋傳 裴注引《襄陽記》
- 華陽國志
- 漢晉春秋
- 資治通鑑
- 晋書羅憲伝
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