王経:狄道で姜維に大敗するが後に出世し、甘露の変で散る【すぐわかる要約付き】

王経

1分でわかる忙しい人のための王経の紹介

王経(おうけい)、字は彥緯(げんい)、出身は清河郡、生没年(?~260年)

王経は農家の出身ながら文帝時代に冀州で許允・崔賛と並び称される名士となり、中央に進出した。

大将軍曹爽の私的命令を拒み官を棄て帰郷した逸話が残る。
母は「分を越えた官位は災いを招く」と戒めたが、経は従わず雍州刺史に昇進した。
正元二年(255年)、蜀漢姜維が隴西に侵攻すると狄道で大敗し城に籠もったが、援軍到着まで守り抜いた。後に司隷校尉・尚書に任じられる。
甘露五年(260年)、皇帝曹髦が司馬昭討伐を決意した際、経は必死に諫めたが聞き入れられず、事件後に反逆罪で母と共に東市で処刑された。母は「人は誰しも死ぬもの、恨みはない」と笑って答えたという。
泰始元年(265年)、武帝司馬炎は詔を下し王経の志を嘉し、孫を郎中に取り立てて名誉を回復した。

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王経の生涯を徹底解説!甘露の変で曹髦の司馬昭討伐を諫めるも処刑されるが司馬炎により名誉回復する

平民からの登用と官途の開始

王経は平民の家に生まれたが、魏の文帝・曹丕時代に冀州で許允・崔賛と並び称される名士となり、中央へ進んだ。

のちに江夏太守となると、母は出世を素直に喜ばず、平民の子が二千石に至るのは行き過ぎで不吉だから身を引けと強く諭した。王経は従わず後に、雍州刺史、司隷校尉と出世していった。

江夏太守の頃、大将軍曹爽が呉との交易のため、絹二十匹と文書を王経に託した。
しかし王経は文書を届けることなく官を離れ、帰郷してしまう。兵馬を預かる官が無断で職を捨てれば、本来は一巻の終わりである。

帰郷後、母が理由を尋ね、王経が事情をそのまま話すと、母は王経を杖で五十打った。曹爽はこの件を聞き、王経を処罰しなかったと記録されている。

姜維北伐と王経の情勢報告

正元二年(255年)、雍州刺史の王経は、姜維の動きを警戒し、征西将軍の陳泰に対して詳細な情勢報告を行った。「姜維と夏侯覇が、祁山・石営・金城の三方向から侵攻する可能性があります。涼州の兵を枹罕に出し、祁山方面と呼応させるべきです」と上申し、早期の対応を促した。

だが陳泰はこれを退けた。「蜀に三方面を同時に攻める余力はない。こちらが兵を分ければ、各地が手薄になる。まずは敵の動きを見極めろ。東西の戦線が整ってから動くべきだ」と返書し、出兵を制止した。実際、この判断が正しかったことは、後の展開が証明する。

狄道方面の王経軍の敗北

姜維の本格侵攻が始まると、陳泰は王経に狄道方面の防備を命じ、自らは陳倉に向かった。王経は命に従い進軍したが、故関で姜維軍と遭遇し、不利な戦闘に突入した。

王経は兵をまとめきれず、洮水を渡って後退。狄道を固守しなかったことで、陳泰は事態の異常を察知し、迅速に動いた。王経はその後も姜維との交戦で大敗し、一万余の兵を連れて狄道城へ退却。その他の兵は四散した。

王経は忠実に戦ったが、結果として自軍を崩壊させ、敵に包囲される状況を招いた。

狄道城の籠城戦

勝ちに乗じた姜維は狄道を包囲し、情勢は悪化の一途を辿った。陳泰は上邽に入り要地を押さえ、鄧艾胡奮・王秘らが合流し、救援軍の形が整う。

鄧艾らは「王経の精兵は敗れ、賊軍は勢いに乗っている。我々は士気の低い混成軍にすぎず、隴右全体が揺らいでいる。今は狄道を捨てて軍を保ち、時を待つべきです」と進言した。

これに対し陳泰は、「姜維は軽兵で深入りしている。王経は本来、籠って敵の勢いを削ぐべきだったが、それを怠って敗れた。だが今、敵兵は消耗している。峻険な城を攻め続けられる余力はない。洮水は敵の背後にあり、こちらが高地を占めれば退かざるを得ない。守るべきは今だ」と反論し、救援の決行を明言した。

陳泰軍の奇襲成功と包囲解放

陳泰は決断を下し、五つの営を前に出して諸軍を率い、高城嶺を越えて狄道城の東南高地に夜間潜行で到達。烽火を掲げ、鼓角を鳴らして援軍の到来を知らせた。

狄道城内では将兵がこれを見て奮起する。逆に姜維は救援がこれほど早いとは予想せず、「策があるのでは」と疑い、軍の上下も動揺した。伏兵は三日間、山中に配置されていたが、陳泰は南道を選び、巧みにすり抜けた。

姜維は急行して陳泰軍に迫ったが、劣勢となって退却を開始する。涼州軍も金城南から圧迫し、陳泰と王経は連携し、退路を断つ計画を立てたが、事前に察知され、蜀軍は包囲される前に姜維は逃れた。

これにより狄道の包囲は解かれ、城内の兵は脱出可能に。王経は「糧は十日に満たなかった。機を逸していれば城は割かれ、州は滅んでいた」と語った。陳泰は将を再配置し、城を修繕して上邽へ帰還した。

結果として、陳泰の理詰めの戦略が勝ちを呼び、王経の焦りに基づいた判断は失敗に終わった。

司隷校尉・尚書としての後年

戦場から戻った王経は、中央での役職に就いた。まずは司隷校尉として、次いで朝廷の政務を担う尚書として働いた。戦の報告書を出す側から、それを読む側へと立場が変わったというわけだ。

司馬昭は、荀顗に対し王経の働きぶりを見てこう語ったという。「王経は沈着で、勇気があり、決断力も備えていた。重い任を背負いながらも、落ちかけた城を自力で救った。援軍も要請せず、上奏も簡素だったが、それでも賊を退けた。都督や大将軍というのは、こうでなければならん」

高評価には違いないが、実際の王経は、陳泰との合流を待たずに単独行動を取り、姜維に敗北し、狄道に籠もって援軍を待つのが精一杯だった。
だが、敗北して死ぬより、生き延びて美談になるほうが、人事的には都合がいい。歴史の評価など、都合のいいところだけを切り取れば、いくらでも着飾れる。

だが順風満帆な道など長くは続かない。『世語』によれば、このころ王業が赴任地に向かう際、本来上司である王経に申告すべきだったにもかかわらず、それを怠った。これが後になって王経に災いを及ぼすこととなる。
部下が勝手に出兵し、上司が何も知らない。現代なら「マネジメント不全」と呼ばれる案件である。

甘露の変と王経の直諫

甘露五年(260年)、曹髦は日に日に強まる司馬昭の専横に業を煮やし、侍中王沈、尚書王経、散騎常侍王業を呼び寄せた。
「司馬昭の野心は、道を歩く者すら知っている。黙って辱めを受けることなどできぬ。今日こそ自ら討伐に立つ」と語り、激情をあらわにした。

これに対し、王経は「かつて魯の昭公は家臣・季氏を討とうとして敗れ、国を失いました。今や権力は司馬氏の門に集まり、誰もがそれに従っています。兵はなく、武器も足りません。陛下は何をもって、この急を決するおつもりですか。病を治そうとして命を落とすのと同じです。どうかお思い直しください」と必死に諫めた。
だが曹髦は、懐から詔板を取り出し地に投げつけた。「やると決めた。たとえ死ぬとしても、恐れる理由などあるまい。まして、必ず死ぬとも限らぬ」と言い切る。

説得は失敗に終わり、王沈と王業はそそくさと司馬昭に密告し、あちら側の準備は万端となった。

曹髦は側近の者数百を率いて出撃したが、迎え撃ったのは賈充の命を受けた成済である。成済が曹髦を刺し、曹髦はその場で絶命し、事件は急速に幕を閉じる。こうして甘露の変は、始まるより早く、終わった。

王経の処刑と母の最期、晋朝での名誉回復

曹髦の決起に連座し、王経は「凶逆の徒」として廷尉に送られた。罪状がどうであれ、政争に敗れた者に言い分はない。判決は東市での処刑が決定され、民衆が集うその場所で、粛々と見せしめが行われた。

捕らえられた王経が、最期の別れを母に告げると、母はこう応じた。「人は誰でも死ぬものです。これまで止めなかったのは、あなたが思うように仕えることができず、悔いが残るのを恐れたから。一緒に命を終えることに、何の恨みがありましょう。」
母子はともに処刑された。

その処刑の場には、かつて王経が司隷校尉だった頃に登用した向雄の姿もあった。彼はその場で大声を上げて泣き、その声は市中の人々に響いた。その後、向雄は投獄されている。

また、雍州の旧吏であった皇甫晏は、自身の財産を投じて王経母子の遺体を収葬したと記録されている。

それから五年後の泰始元年(265年)に、司馬炎が皇帝となり晋が成立すると詔が下された。「王経は法に触れて身を失ったが、その志は嘉すべきである。門戸が断たれたことを、常に哀れに思ってきた」。
名誉は回復され、王経の孫には郎中の官が与えられた。遺された者が官職を得て、歴史は都合のいい場所だけを繋ぎ直す。そうして王経の家は、晋のもとで立ち直った。

参考文献

王経のFAQ

王経の字(あざな)は?

王経の字は彥緯(げんい)です。一字に承宗とも記録されています。

王経はどんな人物?

曹髦の挙兵を諫めたことから、冷静に直言する性格が見られます。

王経の最後はどうなった?

甘露の変のち、司馬昭への報告を怠ったとされ母と共に処刑されました。

王経は誰に仕えた?

王経は魏の曹丕に仕え、曹叡、曹髦に仕えました。

王経にまつわるエピソードは?

狄道で姜維に大敗し包囲されたものの陳泰らの救援で脱出したこと、曹爽の命に従わず帰郷して母に杖で打たれたことなどが記されています。

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