【1分でわかる】王忠:飢饉を生き抜き、劉備に惨敗した武将の意外な信念【徹底解説】

一般武官

1分でわかる忙しい人のための王忠の紹介

王忠(おうちゅう)、字は不詳、出身は扶風郡、生没年(?~242年)
後漢末の混乱期に亭長を務めるが、三輔の飢饉で人肉を食べる極限状態を経験。その後、婁圭の軍を奪って曹操に帰順し、数々の戦や政治的動きに関与。劉備討伐、曹操を魏公に推す奏上、曹丕や呉質との奇妙な逸話など、多彩で皮肉な場面を残した。

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王忠を徹底解説!飢饉・略奪・悪ふざけまで揃った数奇な将軍人生

王忠の出自と三輔の混乱

扶風郡生まれの王忠は、若くして亭長という村の治安責任者を務めていた。しかし後漢末、三輔地域は戦乱と飢饉に襲われる。食べる物が尽きた末に人肉を口にするまで追い込まれるという、歴史書でもなかなかの衝撃ワードが残る経歴だ。
この時期を生き延びたというだけで既に尋常ならざる生命力を持っていたのだろう。

婁圭との遭遇と曹操への帰順

飢饉に襲われた三輔を逃れ、南へ向かった王忠は武関を越えた先で婁圭と出会う。当時の婁圭は荊州牧・劉表のもとで北方から流れてくる士人を集めていたが、王忠にその気はない。劉表の配下になるくらいなら別の道を選ぶ、と最初から決めていたのだ。
そこで王忠は同行者と手を組み、婁圭を急襲してその兵をまるごと奪い取る。そして千余人の軍勢を引き連れ、そのまま曹操へ帰順。
さらに面白いのは、この後に婁圭本人も曹操のもとへやって来ることだ。奪った側と奪われた側が同じ主君の下で顔を合わせるのだから、現代に置き換えればライバル企業から顧客を奪った相手と、翌月には同じオフィスで働くようなもの。曹操の人材政策は、時に人間関係の酸いも甘いも飲み込む規模感だった。

劉備討伐とその後の官歴

建安四年(199年)、徐州で劉備が車冑を殺害し、曹操に叛旗を翻した。
曹操はただちに討伐軍を編成し、王忠と劉岱を指揮官に任じて徐州へ向かわせる。
だが、劉備はこの時すでに兵を整え、劉岱らの到来を待ち受けていた。『獻帝春秋』によれば、劉備は「お前らが百人で来ても俺には勝てん。曹操本人が来れば話は別だが」と豪語したという。


結果、討伐軍は勝利を得られず、王忠も大きな功績を挙げることはできなかった。それでも彼は中郎将、揚武将軍、軽車将軍と昇進を重ね、都亭侯に封じられていく。敗戦の責を問われぬあたり、曹操からの信頼が一定以上あった証だろう。

曹操を魏公へ推挙

建安十八年(213年)、王忠は曹操を魏公に推す奏上に名を連ねる。ここで名前を刻むあたり、単なる武人ではなく、政権運営にも顔を出せる立ち回りの巧さを持っていた。

曹丕と髑髏の悪ふざけ

五官中郎将だった曹丕と共に外出していたある日、事件は起きた。曹丕が墓地から髑髏を拾わせ、それを王忠の馬鞍に括り付けさせたのだ。場所は野外の行軍中ともされ、しかもこの仕掛けは冗談ではなく、王忠が若き日に飢饉で人肉を食べた過去をからかうためだった。
生きるか死ぬかの瀬戸際で生きてきた当時のことをからかうあたり、曹丕の性格の悪さがうかがえるエピソードである

呉質との宴会騒動

黄初五年(224年)、文帝の親友の呉質主催で開かれた酒宴。魏文帝・曹丕の命で集まったのは、上将軍から特進までの高官たち。
酒も進んだ頃、呉質は芸人に太めの曹真と痩せ型の朱鉉をネタにした「肥瘦」寸劇をやらせる。
笑い声が起きるはずが、曹真は眉間に皺を寄せ、場が凍りつく。
その沈黙を破ったのが王忠と曹洪だった。

「将軍を痩せさせたいなら、まず自分が痩せて見せるべきだ」。
この一言は、単なる場の空気を壊す冗談ではない。礼節を欠いた振る舞いを戒める、軍人としての誇りを背負った発言だった。しかも相手は皇帝の親友、発言次第では自分の立場が危うくなる。王忠はそれを承知で口を開いたのだ。
『王粲伝』では勇気ある諫言と記され、『呉質別伝』では異なる描写がある。しかし、飢饉も戦場もくぐり抜けた男が、最後まで沈黙より信念を選んだことだけは確かである。

参考文献

  • 参考URL:王忠 – Wikipedia
  • 『三国志』魏書1 武帝紀
  • 『三国志』魏書6 袁紹伝
  • 『三国志』魏書21 呉質伝
  • 『三国志』蜀書2 先主伝
  • 裴松之注『獻帝春秋』

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