1分でわかる忙しい人のための王朗の紹介
王朗(おうろう)、字は景興(けいこう)、出身は東海郯県、生没年(?~228年)
後漢末から曹魏にかけて、政治と軍事の両面で動いた儒官。陶謙政権で仕え、会稽太守として地方改革を断行。孫策との戦いで敗れ漂泊するも、曹操に迎えられ法務や政治で頭角を現した。慎重な軍事判断と民生重視の政策で、曹丕や魏明帝に重用される。高潔さと人情味ある逸話を多く残し、没後も学者としての名声は続いた。
王朗を徹底解説!儒雅な政治家と漂泊の生涯
学問に生きた青年期と登用の拒絶
若い頃の王朗は、近所の子供たちが竹馬で遊ぶ中、ひとり経書と格闘するような地味男子だった。しかしその学識はすぐに評判となり、郎中として中央入り。さらに菑丘県長に就任するも、師・楊賜が亡くなるとあっさり辞職。
「天下の官職よりも一人の師の死が重い」とでも言いたげな潔さである。孝廉に推挙されても頑なに応じず、官途への執着ゼロ。世間的には「変わり者」で片付けられそうだが、実際は冷静に時勢を見極める計算高さもあった。
陶謙政権での進言と長安使節
後漢末、董卓が献帝を長安へ強制移動させた混乱期。王朗は旧友・趙昱とともに、徐州刺史・陶謙に「今こそ忠誠を示すべき」と進言。使節を派遣し献帝へ奏章を届けた。
結果、陶謙は徐州牧・安東将軍に昇進し、王朗も会稽太守に抜擢。政治的にも人生的にも、大きなステップアップである。だがこのとき王朗は、「ああ、これで波乱の人生が始まるな」と半分予感していたのかもしれない。
会稽太守としての改革と「暴君追放」
会稽に赴任すると、地元には秦始皇と夏禹を同じ廟に祀るという風習があった。
王朗は「いやいや、暴君を聖王と並べるとか意味わからん」と断じ、秦始皇の祭祀を廃止。住民は最初こそざわついたが、彼の統治は倹約と清廉が徹底しており、次第に支持を集めた。
地方官としては珍しく、権威よりも合理を優先する改革派でありながら、民からの信頼も厚い――この時点でなかなかのバランス感覚である。
孫策との衝突と敗走劇
建安元年(196年)、江東を席巻した孫策が会稽に侵攻。功曹・虞翻は「正面衝突はヤバい」と撤退を進言するが、王朗は「郡守が城を捨ててどうする!」と抗戦を選ぶ。
結果は案の定の大敗。東冶に逃れ、侯官の商升が援護に立つも、内部の裏切りであっけなく瓦解。まるで三流ドラマのように、味方同士で揉めている間に敵に押し込まれるという結末である。
孫策は王朗を高く評価し、降伏を勧めるが王朗は拒否。これもまた、意固地とも言える信念の現れだった。
漂泊と困窮、それでも義を貫く
交州へ逃れようと船出するが、孫策軍の追撃を受けて降伏。その後も曲阿で仕官せず、日々の食すら怪しい生活を続けながら、親族や旧友を助け続けた。
「自分が貧しくても、他人を見捨てない」。この姿勢は後の逸話にも繋がっていく。彼の中では、出世よりも義理が優先順位のトップにあった。
曹操政権での復帰と法務の名手
建安三年(198年)、曹操からの招聘で中央復帰を決意。しかし戦乱で道が寸断され、辿り着くまでに数年を要すというスローペース復帰劇。
着任後は諫議大夫から始まり、少府・奉常・大理と出世。刑罰の判断では「疑わしきは罰せず」を徹底し、寛容かつ公正な裁判で評判を得る。鍾繇と並び、魏の司法界のツートップと呼ばれるまでになった。
曹丕への諫言と慎重論
延康元年(220年)、曹丕即位後に御史大夫、安陵亭侯に封ぜられる。夷陵の戦いでは即時出兵論に反対し、「両軍が疲弊した時こそ出番」と主張。
その後、曹丕は孫権の長子・孫登を東中郎将に任命し、実質的には人質として呼び寄せた。しかし孫登は一向に来ない。
国内では「今こそ呉を攻めるべき」との声が高まったが、王朗は「孫登が来ないうちに出兵すれば、後で来たとき外交的に大問題になる」と強く反対。
慎重策を無視して曹丕は出兵したが、長江まで進んだところで戦況が悪化し撤退し、「ほら見ろ」という流れに。派手な勝利より、確実な勝ち筋を選ぶのが王朗流であった。
魏明帝時代と晩年
魏明帝の下で司徒に昇進。宮室造営の中止を進言し、国費節減を説いた。太和二年(228年)に没し、成侯の諡号を贈られる。
没後も『易伝』の編纂で名を残し、学者としての評価は高く、後世の学者からも尊敬を集めた。
人情味あふれる逸話と性格
王朗は儒雅で厳格、倹約を重んじる一方、困窮者を救う情の深さも持っていた。友人・劉陽の遺族を匿い、曹操に赦免を働きかけた話はその代表例である。
一方、『世説新語』にはこんな逸話もある。乱を逃れて華歆と同じ舟に乗っていた王朗は、途中で同じく避難を求める者を乗せた。
しかし追手の船が迫ってくると、王朗は「危険だから降ろそう」と言い出した。これに対し華歆は、「乗せるべきか迷ったのはこういう事態を予想してのこと。
しかし一度受け入れた以上、情勢が変わっても見捨てるべきではない」と諫め、そのまま舟を進めたという。
この話は人徳比較の材料となり、華歆の義を際立たせる一方で、王朗の慎重さと計算高さも示すものとして伝わっている。
参考文献
- 参考URL:王朗 – Wikipedia
- 三國志·魏書·王朗傳
- 三國志·魏書·三少帝紀
- 世説新語
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