1分でわかる忙しい人のための王允の紹介
王允(おういん)、字は子師(しし)、出身は并州太原祁、生没年(137~192年)
後漢末期の混乱期、朝廷の重鎮として登用され、董卓政権を内部から崩壊させた策士の一人。
19歳で太原郡吏に就任し、不正をただす姿勢で注目を集めるが、宦官勢力に目をつけられて幾度も左遷・投獄を経験する。
黄巾の乱では豫州刺史として活躍。何進政権の崩壊後、董卓の台頭を受けて長安遷都が行われる中、尚書令・司徒として朝政の要職を担う。
董卓暗殺計画を立案し、呂布を内応させてこれを実行、漢室を窮地から救う大功を立てた。
しかし、名士蔡邕の処刑、涼州兵への冷遇といった政治判断が裏目に出て、民心と軍の信頼を一気に喪失。董卓旧部の李傕・郭汜らが長安を攻め落とし、呂布は敗走。
王允は逃亡を拒否し、社稷に殉じて誅殺された。
王允を徹底解説!董卓暗殺を成功させた智謀、呂布との確執、蔡邕処刑と李傕・郭汜の反乱の結末
王允の出自と若き日の志
王允の生まれは并州太原祁、で名門・王氏の出。経書をそらで読み上げ、馬にまたがって矢を放つ姿も様になっていたという。文武どちらでも主役を張れる逸材だったわけだ。 十九の若さで太原郡吏に抜擢された彼は、早速やってのける。当時、地元で腐敗を極めていた小黄門・趙津をあっさり粛清。民衆は胸をすく思いだったが、宦官どもにとっては面白くない。おかげで太守の劉瓚が連座して処刑、王允自身も危うく命を落としかけた。 だが王允は、三年もの間その劉瓚のために喪に服すという美徳を貫いた。復職後も、曲がったことが嫌いな性分は変わらず。王球太守が品行ゼロの凡人を登用しようとしたときには真っ向から反発、牢にぶち込まれるハメになったが、并州刺史・鄧盛に見込まれ命拾いする。
二度目の投獄と流浪の道
中平元年、黄巾の乱が勃発し、王允は豫州刺史として鎮圧に奔走する。だが彼の目は、戦場の外にも向いていた。中常侍・張讓の賓客と黄巾残党のつながりを察知すると、即座に上奏。腐敗を許さぬその姿勢は、まさに「政敵」を炙り出す正義そのものだった。
しかし、時代はまだ正義を許していなかった。激怒した張讓の報復は早く、王允は罪をでっち上げられ、あっさり投獄。いったんは赦免されるも、十日足らずで再び収監されるという屈辱を味わう。正直者が馬鹿を見る、とはまさにこのこと。
だが、王允は決して孤立していたわけではない。大将軍・何進、名士・袁隗、老臣・楊賜らが救済を求めて繰り返し上奏し、その尽力によって王允はようやく死刑を免れた。釈放されたのは、翌年のことだった。
以後、彼は名を変え、姓を偽り、流浪の身となって河内や陳留に身を潜めた。野に下った忠臣。
乱世での復活と再起の道
再起の舞台は中平6年(189年)、漢霊帝が崩御し、帝位を巡る暗闘が始まる中であった。王允は洛陽へ馳せ参じ弔意を表した。 大将軍・何進は王允を従事中郎に抜擢し、宦官誅滅の謀略に加える。
その後、王允は河南尹へ昇進するが、何進の計画は露見し、逆に宦官たちに暗殺される。洛陽は混乱に沈み、。これにより洛陽は混乱に陥り、かつて何進が呼び寄せていた董卓が都へ進軍し、事実上の政権を掌握する。
董卓は少帝を廃して劉協(献帝)を擁立し、自らは太師に就任。王允はその傍らで太僕から尚書令、さらに司徒へと昇進し、再び政権の中枢を担う立場となった。
しかし、董卓の暴政は激化の一途をたどる。初平元年(190年)、関東諸侯の挙兵に恐れをなした董卓は長安への遷都を決断。洛陽を焼き払おうとするそのとき、王允は蘭臺・石室に保管されている文献を密かに携え、献帝とともに西へ向かう。文字の火種を護り抜いたこの行動は、ただの官吏の職務ではない。乱世にあってこそ見える、王允という一人の漢臣の執念と矜持である
董卓の専横と王允の暗躍
長安に入った王允は、旧秩序の再建を試みる。政務の枢要を掌握しながら、民と朝廷に残された秩序を与えんと奔走する。だが董卓の暴政はますます烈しく、王允の理想は、時代の激流の前に押し流されつつあった。 太僕から尚書令、さらに司徒へと昇進した王允は、董卓の厚遇を受けつつも、その陰で謀を巡らせていた。表では臣下として恭順を装い、裏では司隷校尉・黄琬や尚書・鄭泰と共に董卓討伐を画策する。
王允は武関へ出兵するよう上奏し、楊瓚・士孫瑞らを実戦に名を借りた策謀の要として京中に招く。しかし董卓はこの不自然な動きを察知し、計画は露見。王允らは事を起こす前に打つ手を失い、楊瓚・士孫瑞の二人を残して策は雲散霧消する。
それでも王允は退かない。董卓が蓋勳の任命を問うた際には、朝廷の兵権を任せぬよう巧みに制し、策を忍ばせ続ける。信頼と猜疑が入り交じる中、王允の政治手腕は、孤高の策士としての輪郭をいよいよ濃くしていった。
呂布を動かした計略:董卓の最後
初平三年(192年)、王允は士孫瑞・楊瓚らと共に再び董卓誅殺の謀を練る。 董卓を討つなら、まずはその懐刀を折ること。 標的はもちろん、あの筋肉と短気が売りの呂布である。 董卓が呂布に手戟を投げつけた事件と、呂布が董卓の侍女と密通していた問題を使い、て呂布の心に種を撒いた。 己の謀を告げ、董卓の横暴を終わらせるため、呂布の刃を用いると決したのである。
献帝の病が癒え、董卓が「お見舞い」と称して宮中に出向いたその瞬間、呂布が鮮やかに一突き。董卓は絶命し、その一族はきっちり三族皆殺し。主簿の田儀も巻き添えで命を落とした。 長安中が歓喜に包まれた。まるで悪夢が明けた朝のように。しかし、この勝利の宴が、次なる悲劇の前夜であったとは、まだ誰も知らない。
一時の栄光と蔡邕の悲劇
董卓の死によって、王允は録尚書事となり、呂布と共に政権の頂点に立った。民衆の間では英雄視され、一時的な栄光を得るが、その後の王允の政治判断は綻びを見せ始める。
まず、董卓を討つために手を結んだ呂布に対し、王允は誅卓後まもなく軽侮の念を隠さなくなり、両者の関係は徐々に悪化。功臣であるはずの呂布が次第に冷遇され、政権内部には緊張が走った。
加えて、王允は董卓と関係のあった蔡邕を、その過去の縁故を理由に容赦なく断罪した。蔡邕は名士であり、学問の大家として尊敬を集めていたが、董卓の死を悼んだ言葉を「逆臣を惜しむ不忠」と断じ、処刑を命じたのである。
さらに致命的だったのは、涼州出身の董卓旧部に対する王允の対応である。彼らを全て罷免しようとした王允に対し、朝臣らは「彼らは袁紹ら関東軍を恐れており、軍職を解けば暴発する」と警告。皇甫嵩を将軍として立て、涼州軍を安撫しつつ、関東勢との連携を図る策も進言されたが、王允はこれを「関東軍に誤解を招く」として退けた。
赦免の詔も出されないまま、涼州軍には「王允が皆殺しを画策している」との噂が広がり、疑心と恐怖が充満する。王允の頑なな正論主義と融通の利かない政治手腕が、やがて自らの首を締めることになるのだった。
李傕・郭汜らの反乱と王允の最期
涼州兵の冷遇策で軍心は離反。政の根幹はすでに砂上の楼閣と化していた。
そんな折、董卓の旧部・李傕と郭汜が陳留・潁川で略奪を終えて西へと向かう。 牛輔が死に、赦免もなく、頼る者を失った彼らの胸にあったのは、王允の粛清に対する恐怖と絶望だった。 そこに賈詡の計略が火をつける。彼らは報復の軍を挙げ、帰還の道すがら兵を募り、十万を超える大軍勢となって長安へ迫った。
王允は胡軫・徐栄を差し向けるも、胡軫は投降、徐栄は戦死する。 防衛線は崩壊し、樊稠・李蒙・王方ら董卓の遺臣たちも呼応して、長安は完全に包囲され8日後(魏書では10日後)、城は陥落する。
城内では呂布が奮戦するも、もはや形勢は覆せず、彼は青瑣門にて王允を伴い逃げようとする。 しかし王允は一言、「社稷と共に在りたい」とだけ答え、呂布は何も言えず立ち去った。
王允は捕えられ、市中に晒され、斬首される。夷三族の刑が執行され、一族すべてが処刑された。享年五十六歳。
董卓という暴を斃した手腕も、結果的にさらなる混乱を招いた。剛直は美徳にして刃。王允の忠誠は、漢王朝の屋台骨と共に、長安の瓦礫の中へと沈んでいった。
王允の家族・一族とその末路
王允の栄光は、一族にとって呪いでもあった。王允には長子・王蓋をはじめ、王景・王定ら息子たちがいたが、董卓の遺党によって王允が誅されると、そのすべてが連座して処刑された。兄の王宏(字は長文)もまた同じ運命をたどる。
唯一、甥の王晨と王凌の兄弟は脱出に成功し、故郷太原へと落ちのびた。特に弟の王凌は、後に曹操に見出されて魏に仕え、太尉にまで昇進する。しかし司馬懿を倒さんと挙兵するも失敗、最終的には自害し、王氏は再び三族を誅されることとなる。
他にも、令狐愚の母や郭淮の妻となった王氏など、王允の縁者たちは各地に散り、様々な形で歴史の影に名を留めた。孫の王黒は、献帝によって安楽亭侯に封じられ、わずかに王允の忠義を顕彰された。また北魏・西魏に活躍した軍人・王思政も、王允の子孫とされる説がある。
王允一人の志が、あまりにも重すぎたのか。その忠節の代償は、血筋にまで及ぶこととなった。
王允の性格・評価と後世の論評
王允は若き日から大節を好み、礼法と弓馬を兼ね備えた才人であった。忠義を旨とし、宦官の専横に敢然と立ち向かった姿は、「国の綱」と称されるにふさわしい。
董卓の権勢下にあっても一貫して節を曲げず、その専横を討つための策謀を練り上げ、ついには呂布を動かして大業を成し遂げた。しかしその後は剛直すぎる性格が災いし、融通のきかない政策が民心を失い、最終的に政権を崩壊させる一因となった。
馬日磾は「善人、国の紀なり」と評し、范曄も「功全元醜、身殘餘孽」と賛した。だがその一方で王夫之は「王允非定乱之人」と断じ、王允の死後に国が混乱した事実をもって、彼の政治家としての限界を突いた。
蔡邕を処刑した件では、多くの知識人が反発し、鄭玄らは「漢世の正道を誰が担うのか」と慟哭した。裴松之は後に「蔡邕が董卓に仕えたとしても、私情ではなく公務だった」と擁護し、その罪状に疑問を呈した。柏楊はさらに厳しく、王允が蔡邕の史学的手腕と、自らの醜聞を暴かれることを恐れた末の卑劣な口封じだと断じている。
それだけ王允の存在が歴史に強烈な印象を残した証でもある。正か邪か。忠臣か罪人か。その評価は今なお定まらない。
参考文献
- 参考URL:王允 wikipedia
- 《後漢書·王允伝》
- 《後漢書·董卓伝》
- 《後漢書·蔡邕伝》
- 《《三國志·董卓傳》
- 『資治通鑑』司馬光 著
- 柏楊『柏楊版資治通鑑』
- 《三國志·魏志》
FAQ
王允の字(あざな)は?
王允の字は子師(しし)です。
王允はどんな人物?
漢末の混乱期に活躍した政治家で、董卓を討った策士として知られます。経学にも通じ、忠義心と剛直な性格が評価される一方で、柔軟性に欠ける面もありました。
王允の最後はどうなった?
西暦192年に李傕・郭汜の乱によって長安が陥落し、王允は逃亡を拒んで捕らえられ、処刑されました。一族も連座して誅殺されました。
王允は誰に仕えた?
主に後漢の皇帝である献帝に仕えました。
王允にまつわるエピソードは?
董卓を暗殺するため、呂布を懐柔して内応させた謀略は、三国志の中でも最も劇的な事件の一つとして知られています。
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