1分でわかる忙しい人のための王濬の紹介
王濬(おうしゅん)、字は士治(しち)、出身は弘農郡湖県、 生没年(206~286年)
魏から晋に仕えた武将で、益州統治と呉征伐での大功により歴史に名を刻む人物である。
若年期は素行が悪く評価されなかったが自ら改め、大志を抱いて仕官した。
太守として蜀の重い負担を軽くし数千人の子を救ったことで人望を得た。 益州刺史となって反乱を平定し、蛮夷を帰服させて統治を安定させた。
晋が呉征伐を決めると密かに造船を進め、咸寧五年(279年)に自ら出兵を請い、軍を率いて西陵や武昌を攻略し建業へ迫り、孫皓が降伏させた。
戦後は王渾と功労を巡って争い弾劾を受けたが、司馬炎はその功績を認めて重ねて恩賞を与えた。 晩年には諫言を受けて態度を改め、さらに昇進を得た。太康六年(286年)に没し武侯と諡され。
王濬の生涯を徹底解説!呉討伐で長江を制し建業に迫った進軍、巴郡救民・益州統治、王渾との功労論争と晩年の特進
素行不良と大志
王濬は若い頃から容姿が整い、書物にも親しんで学識を備えていた。
それなのに身なりには無頓着で、周囲の目線を気にせず遊び歩く日々を送ったため、近隣からは褒められるどころか冷笑される存在だった。
才能に恵まれていながら自ら価値を下げていく者は、どの時代にも一定数いるものだ。
しかし王濬は、このまま無為に歳月を潰すことへの危機感を覚え、将来のために心を入れ替える決意を固める。
若さの強みと弱さが混じるような転機であり、彼の中で何かが変わったのだろう。
ある日、王濬は自宅前の道路を自ら広げ始めた。理由を尋ねられると、将来将軍となったとき長い戟や幡旗を掲げた隊列が通るためだと答えた。
周囲は笑って戯言と決めつけたが、身の程を測る物差しを他人に預けてしまった時点で、彼らはすでに負けていたのかもしれない。
王濬は笑う者たちに対し、秦に反乱を起こした陳勝の言葉を引用して「燕雀いずくんぞ白鳥の志を知らんや」と返す。
やがて州郡の役所が王濬を見いだし、彼は河東従事に任じられた。
赴任先で不正を働いていた地方役人たちは、王濬が来ると知るや否やおそれて自ら職を退いたという。
徐邈の娘との婚姻と羊祜からの評価
涼州刺史だった徐邈は、娘の結婚相手を選ぶにあたり、ちょっとした趣向を凝らした。
役人たちを一堂に集めておいて、娘には別室から彼らを観察させたのである。 娘が指さしたのは王濬。母親を通じてその意思を伝えると、徐邈もそれを受け入れ、王濬に娘を嫁がせた。
言うなれば、王濬は無言のオーディションを突破したわけだ。
その後、王濬は征南軍事に加わり、羊祜からの引き立てを受ける。
一方で、羊祜の甥である羊暨はやや違った見方をしていた。
「王濬の志の大きさは認めるが、贅沢好きで節度がない。一人で任せるには向かず、むしろ制御を加える必要がある」と、能力はあるが暴走が心配と一刀両断した。
それに対し、羊祜はこう返す。 「王濬には才がある。やろうと決めたことは必ず実行する。きっと使い道があるはずだ」
放っておくと手に余るが、うまく扱えば手駒としては有能、という評価だったのだろう。
王濬はこの後、車騎将軍・羊祜の従事中郎に昇進する。
後の活躍を見て、「羊祜は見る目があった」と周囲はこう言った。
巴郡太守としての民生改革
王濬が巴郡太守として赴任した当時、この地は呉と接する国境の緊張地帯であり、蜀全体が重い負担にあえいでいた。
民は際限ない労役に苦しみ、まともな生活ができない。男児が生まれても育てる余裕などなく、泣く泣く手放す者すら少なくなかったという。
王濬はこの惨状を目の当たりにし、制度をただ緩めるのではなく、むしろ法を厳格にしたうえで、労役と税負担の見直しを断行する。
働き疲れて倒れる前に、まず立ち止まる時間を与えようとしたのだ。特に出産した者には休暇を設け、子供を育てる余地を保障した。
この施策によって救われた命は数千にも及んだという。
その後、王濬は広漢太守に転じる。巴郡での経験を踏まえ、同じく民の生活を第一に据えた施政を行った。
広漢でもその姿勢は信頼され、再び人々の暮らしは息を吹き返した。
夢占と益州刺史への抜擢
ある夜、王濬は奇妙な夢を見る。寝室の梁に三本の刀が懸かっており、しばらくするとそれが四本に増えた。
目を覚ました王濬は、この光景に不吉な前触れを感じ取った。
翌朝、この夢の内容を主簿の李毅に語ったところ、彼はすぐさま拝礼し、笑みを浮かべて祝意を述べた。
李毅は、「三本の刀は『州』という字になります。そこに一本加わるということは、あなたが益州の長官になる兆しです」と明言した。
漢字の成り立ちというものは、時に人事異動まで先読みしてしまうらしい。
やがてこの夢は、現実の出来事になった。 益州刺史であった皇甫晏が、賊徒の張弘に殺害されるという事件が発生し、空席となったその地位に朝廷は王濬を任命した。
現在から見れば、偶然の符号が物語に昇華されたような印象を受ける。
だが当時の人々にとって、夢と現実はもっと地続きであり、政策と占いの距離は近かった。
益州統治と反乱平定
益州刺史に任じられた王濬がまず手を付けたのは、前任者を殺した張弘らの造反勢力の対応だった。王濬は策を練り泰始八年(272年)に張弘らを追討して誅殺し、益州の反乱は鎮圧した。
この功績により関内侯に封じられ、王濬は名実ともに「益州の顔」となる。
しかもその影響は、国境の外にまでにじみ出た。異民族たちも「これは敵に回したくない」と察したのか、次々に帰順する。
こうして辺境の安定が進み、王濬の株はさらに上がる。
朝廷もその動きに乗り、王濬を右衛将軍に任じ、大司農まで兼ねさせた。
ただ、その昇進にひとつ待ったをかけたのが、車騎将軍・羊祜だった。
彼は王濬の軍略と現場対応力を惜しみ、「都に戻して机に向かわせるのはもったいない」と密かに晋武帝・司馬炎に奏上した。
この意見は受け入れられ、王濬はそのまま益州に留任することになった。
羊祜の人事の操作には、もったいない程度ではなく、晋が直面している大きな理由があった。
童謡の兆しと呉討伐計画
その頃、呉の街角では奇妙な童謡が流行していた。
「阿童よ、また阿童よ。刀をくわえて江を渡る。岸の獣は恐れず、水中の龍のみを恐れる。」
無垢な子どもが口ずさむには物騒すぎる歌だが、聞き流せなかったのが羊祜だった。
彼はこれは瑞兆だと断じ、「水軍が決定的な役割を果たす。そして『阿童』という名が鍵になる」と語った。
実際、王濬の幼名は「阿童」だった。ちょうどこの頃が、右衛将軍と大司農として召されようとして時だった。 羊祜はこの童謡に名前が一致することを見て、彼こそ水軍を託すべき人物と見なした。
字遊びのような人事だが、偶然と決断は歴史の二本柱である。
羊祜はこの意見をまとめて司馬炎へ上奏し、王濬を益州に留任させた上で、龍驤将軍の位を加えるよう願い出た。
そして王濬に、呉を討つための軍備を整えさせ、舟や櫂の修繕とあわせて水軍の準備を開始させた。
すべては、密かに、着々と進んでいった。
巨大船団の建造と呉の反応
王濬は蜀の地で巨大な船の建造を開始し、それらをいくつも連結させた。
一隻の大きさは百二十歩四方、乗員は二千名超。船とは呼ばず、もはや水上要塞といった方が近い。
木で城壁を巡らし、楼閣ややぐらを建て、馬がその上を駆け回ることすらできた。
船首には鷁首や怪物の姿を描き、江の神ですら退かぬと信じ込ませる仕様だった。
目を疑うような光景だが、それが実在したのが王濬の船団である。
建材として用意された木材は、蜀から川を伝って流された。その量はやがて長江を覆い尽くし、見る者の度肝を抜くほどだった。
密かに進めていたはずの水軍計画は、まさかの材木ラッシュで情報ダダ漏れという展開を迎える。
呉の建平太守・吾彦は流れてきた木材を見て、即座にそれがただの流木でないことを理解した。
彼は木を拾い集め、孫皓にこう進言した。
「これはただの材木ではありません。晋は本気で攻めてきます。建平に兵を増やすべきです。ここが落ちなければ、連中は渡れません。」
だが、孫皓はこの進言を聞き流した。
材木で長江を詰まらせたが、彼の耳も詰まっていた。
王濬の準備が目の前を流れているというのに、それを「流木」くらいにしか思っていないのだから、もはや風前の灯火である。
呉討伐の出兵請願
咸寧五年(279年)四月、晋の朝廷では呉への出兵を巡って意見が割れていた。
慎重論が多く、司馬炎も決断を保留していた中、益州にいる王濬が上奏文を奉じる。
「私は何度も呉と楚の動静を観察しましたが、孫皓という男は、放蕩と残虐を同居させた逆臣です。荊州・揚州の民は賢者も愚者も皆が嘆き、恨みを口にしております。
時の巡り合わせを見ても、いま討たずしていつ討つのでしょう。
この好機を逃せば、天の変化など予測できません。
もし孫皓が死に、まともな君主が立てば、呉はまとまり、文官も武官も職にふさわしい者が就くでしょう。
そのときには、今のような脆さは消え、手の届かぬ敵となるでしょう。
私は蜀で船を造り始めて七年、材も兵も朽ちる日々です。
そして私は七十歳、いつ寿命が尽きてもおかしくはありません。
船が腐るのが先か、私が朽ちるのが先か、その競争を続けているのです。
このうち、時機・敵情・戦備のどれか一つでも欠ければ、呉討伐は成り立ちません。
どうか陛下、今日という日を逃さぬよう、御決断下さい。」
この上奏に、司馬炎は大きくうなずいた。
賈充や荀勗(荀勖)は依然反対を唱えていたが、張華が強く賛成し、杜預もこれに続いて上奏を重ねた。
こうして、ついに詔が下され、賈充を総司令官に任じ、諸方面から軍を進めることが命じられた。
呉討伐の電撃戦
咸寧五年(279年)十一月、王濬が呉討伐の軍を率いて出発すると、かつて巴郡太守の時に救われた数千人の子どもたちはすでに成人しており、皆が王濬の軍に従って戦う兵となっていた。
その父母たちは「王大人が命を救ってくれたのだ。恩に報いて、死を惜しんではならぬ」と鼓舞して送り出した。
王濬は長江を下って進軍し、巴東監軍・広武将軍の唐彬を従えて丹楊を攻略、丹楊監の盛紀を捕らえた。
呉は江に鉄鎖を張り、川底に鉄槍を仕込んで水軍の進軍を阻もうとしたが、これらは生前に羊祜が遺した情報で事前に把握されていた。
王濬は呉の防衛線を正面から突破するため、まず百歩以上の正方形の巨大な筏を数十隻作らせた。
その上には草を束ねて人の形を作り、それぞれに甲冑を着せ、杖を持たせて立たせた。
泳ぎの得意な者たちがこの筏を押し進め、水面を滑らせて先行させる。
やがて水底に隠された鉄槍にぶつかると、槍は草人に突き刺さり、そこで大きく曲がって使い物にならなくなった。
次に王濬は、十余丈もの長さと、数十人が手を繋いでやっと囲めるほどの太さをもつ、巨大な松明を作らせた。
その中に麻油をたっぷりと染み込ませ、船が進み呉の鉄鎖に触れたその瞬間、火を点けると松明は轟々と燃え上がり、鉄鎖を熱と炎で溶かして切断した。
鉄で固めた防壁も、油と炎の前にはまるで蝋細工で、江上の守りは、煙の中へと消えていった。
太康元年(280年)二月(たぶん三日)、西陵を攻め落とし、鎮南将軍の留憲・征南将軍の成据・宜都太守の虞忠を捕縛する。
その二日後には、荊門・夷道を陥落させ、監軍の陸晏を捕らえた。
二月八日、楽郷を制圧し、水軍督の陸景を捕縛し、平西将軍の施洪らは降伏した。
二月十八日、詔により王濬は平東将軍に進められ、節を授かり、益州・梁州の諸軍を統率することとなった。
蜀を発してから血を流さぬまま勝ち続け、夏口も武昌も抗うことなく、軍は三山へと迫った。
この電撃戦で、呉の拠点は攻めれば落ち、進めば逃げ、抵抗という言葉も地図から消えた。
孫皓の降伏と呉滅亡
孫皓は遊撃将軍・張象に一万の水軍を率いさせ、王濬の軍を阻もうとした。
だが張象の軍勢は、王濬の軍旗が翻るのを見るなり、戦わずして降伏した。
その報せが届く頃、孫皓の目前には、江を覆うほどの戦船と、一面に翻る旗と武具が並んでいた。
その威容に圧倒された彼は、ついに恐れを抱き、震えた。
ここに至って、もはや抵抗は意味をなさないと悟る。
孫皓は光禄大夫・薛瑩、中書令・胡沖の進言を容れて、王濬に降伏の文を送った。
「呉郡の孫皓は、頭を地につけて罪をお詫びします。漢が天下を失って以来、九州は裂け…」
と続く文には、正統を継いだとの弁解と、大晋の徳に対する遅れた服従が綴られていた。
太常の張夔らを派遣し、印綬を捧げて降伏した。
太康元年(280年)三月十五日、王濬は石頭城に入った。
孫皓は亡国の儀を執り行い、白車白馬を用い、衣を脱ぎ、縄で体を縛って玉璧を口に含み、羊を引かせた。
大夫たちは喪服を着し、士人たちは棺を抱え、偽太子・孫瑾、魯王・孫虔ら二十一人と共に城門へと至った。
王濬は自ら縄を解き、玉璧を受け取り、棺はその場で焼かれた。
降伏は正式に受け入れられ、孫皓らは京師へ護送された。
呉の文書と倉庫は押収され、軍は私物を略奪することなく規律を守った。
これを見た司馬炎は使者を派遣し、王濬の軍を労った。
こうして五十余年にわたった江南の政権は、小さな羊の足音と共に幕を閉じた。
王渾の弾劾と対立の始まり
当初の詔勅では、王濬は建平に到着すれば杜預の指揮に従い、さらに秣陵に至れば王渾の配下として動くよう定められていた。
だが杜預は、そもそも指揮権を行使する気などなかった。江陵に入ったとき、彼は周囲にこう言った。
「王濬が建平を落とせるなら、その勢いに逆らって指揮する必要はなく。もし落とせなければ、私が指揮するまでもない」
実に潔いというか、ある意味で投げやりな判断である。
王濬が西陵を陥落させると、杜預は激励の書を送った。
「すでに砦を破ったのなら、そのまま秣陵へ進み、長年の怨敵を討つのです。民を救い、呉を滅ぼし、江を下って淮、泗、汴を経て、河を遡り都に帰還する。それはまさに、後世に残る大事業となるでしょう。」
王濬はこの書を読み、大いに喜んだ。そしてすぐにこれを上奏し、さらなる進軍の正当性を固めた。
だが、そうやって進軍する彼の前に立ちはだかったのが、秣陵に布陣する王渾だった。
王渾は使者を送り、「一度立ち寄って軍議を行おう」と申し出た。
ところが王濬は「追い風で停泊できない」と答えて涼しい顔で船を進めた。
風のせいにされた王渾だったが、彼とて黙っていたわけではない。すでに孫皓の中軍を撃破し、呉の丞相の張悌らも討ち取ってはいた。
だがそこからさらに進む勇気は持てなかった。
その隙に王濬が一気に石頭城を占拠し、降伏を受け入れてしまったのである。
これはもう面目丸つぶれである。
勝ちを横取りされた形となった王渾は、恥と怒りに燃え、「詔に背いた」だの「節を受けずに動いた」だのと、王濬の罪状を山のように並べ立てて上奏した。
問題は、その罪が真実かどうかではなく、誰の面子が潰れたかである。
司馬炎からの叱責に対する王濬の弁明
役所はさっそく王濬を取り調べ、拘束するための車を用意した。
だが、司馬炎はこれを止め、まずは詔で王濬を責めることにした。
「呉を討つのは国家の大事である。ゆえに指揮官は一人でなければならぬ。
先の詔で、そなたは王渾の指揮を受けよと命じた。
王渾は甲冑を整えてそなたを待っていたというのに、なぜ命令を無視して突き進んだのか。
規律を破り、功を欲し、大義を失った。
功績があることは朕も知っている。だが国は、法によって治められねばならぬ。
このまま好き勝手に動かれては、朕は何をもって天下を治めればよいのだ?」
要は、「独断専行にもほどがある」ということである。
この詔に対して、王濬は上奏文で自己弁明した。
内容を要約すれば、「指示通り動きました。敵の状態を見て判断しました。忠義に偽りはありません」の三本立てである。
※当時の状況がわかるので載せておきます。これも長いので読み飛ばしてください。
王濬の弁明
最初にいただいた詔には、「軍が勝ち進み、士気が高まっていれば、その勢いに乗って秣陵へ向かえ」とありました。私はその詔を受け取ってすぐに東へ進軍しました。
また別の詔では、「太尉の賈充が全軍を統率し、司馬伷・王渾・私・唐彬は皆、賈充の指揮に従うように」とありましたが、私が王渾個人の命令に従うべきとは書かれていませんでした。
私は巴丘を出発し、道中の敵を次々と打ち破り、孫皓はすでに逃げ場もなく追い詰められていました。十四日に牛渚に到着した時点で秣陵までは二百里、攻撃準備も整っていました。
三山に着いたところ、王渾の軍が北岸に布陣しており、手紙を送り「一度話し合いたい」と伝えてきました。ただし、その中にも私が指揮下に入るべきという話はありませんでした。水軍は追い風に乗ってすでに敵城へと向かっており、準備万端でしたので、いまさら引き返すことは不可能でした。
その後、孫皓から降伏の申し出があり、私はただちに王渾に報告し、その書状も見せて、「石頭でお会いしましょう」と伝えました。
軍は昼に秣陵へ到着しましたが、夕方になって王渾の詔が届き、「翌日までに兵を率いて石頭を包囲し、孫皓の逃亡を防ぎ、兵の名簿を提出せよ」と命じられました。
しかし孫皓はすでに降伏し、都亭にいました。空っぽの城を包囲する理由はありませんし、名簿を急いで出すことも、今すぐ必要とは思えませんでした。
それにもかかわらず、中書省では私が勝手に動いたと非難されています。厳しい詔を拝読し、恐れ多く思っております。
私は国家から多くの恩を受け、大きな責任を預かっています。これまでも使命を果たせず陛下の期待に背くことだけは避けたいと心がけてきました。
そのため命がけで戦い、遠征を重ね、ようやく職務を全うする機会をいただけました。
すべては陛下の優れたご判断とお力の賜物であり、私は命令に従っただけで、手柄をひけらかすつもりはありません。
私は十五日に秣陵へ到着しましたが、陛下の詔が洛陽を出発したのは十六日と聞いております。両地の距離や時差を考えれば、すぐに指令が届かないのは当然のことです。もし私に過ちがあるとすれば、その点はどうかお許しいただけますよう願います。
もし孫皓にまだ反撃の力が残っていて、私が軽率に動いて失敗していたならば、処罰は甘んじて受ける覚悟でした。しかし八万以上の軍は勝利の勢いそのままに進み、孫皓は味方も親族も離れ、家族すら守れず、命乞いするしかない状態でした。
一方、江北の諸軍はその実情を把握できておらず、即座に対応できていませんでした。そこに多少の判断ミスはあったかもしれませんが、大きな過ちではないと考えています。
私が現地に到着した時、軍中では不満の声がありました。「何ヶ月も戦ってきたのに、最後の手柄は他人のものになった」と言い合う者もいたほどです。
『春秋』の教えによれば、大夫が辺境で軍を率いる際には、自らの判断で行動してよいとあります。私のような者が申し上げるのも恐れ多いことですが、忠誠を尽くし、命をかけ、現場の状況を踏まえて動くのが、忠臣の務めだと信じております。
疑われたくない一心で、わざと行動を遅らせるようなことは、本当の忠臣の姿ではなく、国家にも損失を与えるだけです。
私はただ、愚かながらも誠意を尽くし、身命を賭して反逆者を平定し、天下に平和をもたらしたいと願っただけです。陛下が私の心を信じてくださったからこそ、大きな任務を与えてくださったのだと理解しています。
昔、燕の君主が楽毅を信じ、漢の高祖が蕭何を重んじたように、私もこの上ない恩を受け、命をもって応えるべきだと心得ております。
ですが私は不器用で頑固なところがあり、判断を誤ってしまいました。今回、陛下が私を厳しく叱責なさったのは当然のことと受け止めております。ただ、どうか私の真心だけはお汲み取りいただければと、心より願っております。
王渾による二度目の弾劾
王渾はあきらめなかった。今度は周浚の文書を手に、「王濬の軍が呉の財宝を奪った」と訴えてきた。
またしても王濬は上奏し、「正式に報告を出しており、火を放ったのも宝を奪ったのも、孫皓の近習どもです」と反論した。
軍規は厳しく、勝手な略奪は禁じていた。違反者は斬首。証人を立てて契約を明確にし、まさに法の番人のごとく振る舞っていたという。
王渾側の言い分は二転三転し、宝の数も、火を放った責任者も、記録の整合性すら怪しかった。
だが王濬は疑いをかけられた理由が、証拠ではなく「人望のなさ」だったことを知っていた。
弁明の文末では、「王渾の『王濬は出世しすぎた』という一言こそ、もっとも真実で、もっとも恥ずべきものです」と結んでいる。
※当時の状況がわかるので載せておきます。これも長いので読み飛ばしてください。
王濬の二度目の弁明
壬戌の日に、安東将軍が提出した揚州刺史・周浚の文書が届けられました。
そこには、私の軍が孫皓の財宝を奪い、さらに牙門将の李高が勝手に宮殿に火を放ったと記されていました。 私はすぐ尚書省に正式な報告を出し、詳細を説明しました。ところが、どうやら王渾は私を陥れようとしているようです。 私は不器用で、感情のままに行動してしまうこともありますが、正しいと信じて行動してきました。天に恥じるようなことはしていないつもりです。
秣陵での件も、先に上奏した通りであり、多くの者たちが私を陥れようとしています。彼らは、粗末なものを飾って錦に見せかけるように、事実をねじまげています。
昔から、おべっか使いや陰謀家が国を滅ぼした例は山ほどあります。楚の無極、呉の宰嚭、漢の石顕など、すべて歴史の警告です。
楽毅は斉を攻めて70以上の城を落としたのに、中傷によって失脚し亡命しました。反論の文書を送ったときには、すでに讒言が箱いっぱい届いていたのです。
私など、どうしてそのような中傷を免れられるでしょうか。こうしてまだ命があるのも、陛下の英断のおかげにすぎません。しかし私は孤立し、朝廷に味方もなく、遠地にいるため人との交流も絶えています。しかも権勢ある一族からは恨みを買い、地元の豪族からも嫌われています。
まるで雷の中に素手で立ち、蚕のような柔い体で狼の道を歩くようなものです。どうして無事でいられましょうか。主君に逆らえばまだ弁明の余地がありますが、権臣の怒りを買えば、どうなるか想像もつきません。 朱雲が楊皇后の親族を非難したとき、景帝は怒らなかったが、望之や周堪が石顕に逆らったときは、たとえ朝廷中が惜しんでも、処刑は一瞬でした。これこそ、私が最も恐れていることです。
今、王渾の一族は政権内外に根を張り、洛陽にまで手を伸ばして私を攻撃し、孔甘を使って人々の目と耳を惑わせています。
曾参が人を殺していないと分かっていても、三人に言われれば母が信じたように、私のような者が何を言っても中傷は止まりません。道に猛獣がいれば麒麟ですら避けるというのに、私が恐れずにいられるわけがありません。 偽呉の人々はまだ生きています。彼らに聞けば真実は明らかになるはずです。
中郎将・孔攄によると、武昌が落ちて私の水軍が接近すると、孫皓は石頭に戻りました。周囲の者は「最後まで戦います」と叫び、孫皓は信じて彼らに財宝を与えました。ところが彼らは逃げ出し、孫皓は怯えて降伏を選んだのです。
その後、彼らは財宝を奪い、妾たちを連れ去り、宮殿に火を放ちました。私は後から到着し、すぐに参軍に命じて火を消させました。
周浚は16日より前に孫皓の宮殿に入りました。私は書類調査のため記録官を派遣しましたが、彼は縛られてしまいました。
もし財宝があったなら、周浚が先に手にしていたはずです。それなのに、他人のせいにして罪を擦り付けてきました。彼の文書には「孫皓が財宝を兵に分け、倉庫は空だった」とありますが、今は「箱が一万を超える」と言っています。内容が真逆です。
私は張牧や馮紞と共に宮殿を見ましたが、座る場所すらなかったのです。王渾は私より先に船を調べており、もし宝があったなら彼の手にあるはずです。私は兵の統率に厳しく、勝手な行動は許していませんでした。秣陵には20万の兵がいて、私の軍が先に入りましたが、私は一切の略奪を禁じ、売買には証人を立て、違反者は13人処刑しました。呉の人々も知っています。
他軍の兵が略奪し、私の軍を騙る者もいましたが、私の軍は蜀の兵が中心で、見分けはつきました。私だけが悪で、王渾だけが潔白ということはありえません。
石頭城で布を奪った者は800人以上いましたが、私は馬潜に命じ、20人を捕えて名簿を作り、周浚に渡しました。返答はありませんでした。きっと見逃したのでしょう。張悌の戦では、呉人によれば死者は2000。しかし王渾と周浚は「1万」としました。剛子という呉人を洛陽に送り、数字を水増しさせたのです。これも、孫皓や部下に聞けば真実はすぐわかるでしょう。
彼らは、「王濬が孫皓を連れてこず、反乱を企んでいる」と言いふらし、呉の人々には「王濬がお前たちを殺して妻子を奪う」と脅し、混乱を起こして私を陥れようとしました。反逆でさえこの扱いです。他の誹謗など言うまでもありません。
王渾は「王濬は器が小さいくせに、出世しすぎた」と言いました。これだけは、本当に正しい。恥じ入るばかりです。 今年、呉が平定されたのは国家にとっては喜びでしたが、私にとっては罪になりました。
孟子のように馬上で人材を見出してくれる者もおらず、朝廷には讒臣がいて、政治の風は濁り、美風は失われつつあります。
これはすべて私の未熟さが招いた結果であり、上奏を終えた今も、汗が止まらず、言葉も乱れております。
功労論争と恩賞の拡大
王濬が都に入ると、待ってましたとばかりに官僚たちが次々と上奏した。
「王濬の提出した文書には、これまで受けた七本の詔の年月日が一切書かれておらず、しかも赦令のあとも王渾の節度を受けなかった。これは極めて不敬であり、廷尉に送って処罰すべきです!」と役人とはいかにも細かい。
だが司馬炎は冷静だった。
「確かに、詔を受けた後に王渾の指揮を仰ぐことにはなっていた。しかし詔が届いたのは後のことで、命令違反と断じるのは筋が通らぬ。ただし、王渾からの伝令を黙っていたのは咎められるべきだ。」と一応の指摘は入れつつも、「だが王濬は呉を滅ぼした将だ。その手柄を、小さなミスひとつで帳消しにするのは、あまりに惜しい。」と結んだ。
それでも官僚たちは諦めない。
「王濬は、赦令の後に呉の船百三十五艘を勝手に燃やして戦利品を台無しにしました! これも処罰を!」
司馬炎は「その件、取り調べる必要はない。」と退け、王濬を「輔国大将軍・歩兵校尉」に任命した。
※もともと営とは車騎・越騎・步兵・射聲・長水の5つで「輔国営」などという部署は存在しなかったが、王濬のために新設された。
ところが、ここでも官僚たちはしつこかった。
「輔国大将軍では、まだ司馬(副官)を置けるほどの格ではありませんし、官の馬を支給する資格も、正直言ってないのでは?」
もうここまでくると、どれだけ嫌われていたのか察するしかない。勝者の凱旋とは思えない冷遇ぶりである。
それでも司馬炎は彼らを一蹴し、詔を下した。
- 輔国大将軍に、征・鎮大将軍と同等の待遇を与える。
- 五百台の軍車と兵を与え、「輔国営」を設置。
- 親兵百人、官馬十頭の支給。
- 司馬の任命を許可。
さらに王濬は襄陽侯に封じられ、一万戸を与えられた。
その子・王彝も楊郷亭侯に封じられ、千五百戸に加え、絹一万匹、衣一着、金三十万、そして食料まで下賜された。
これでもまだ、口を挟もうとする官僚がいたなら、それはもう怨念の域である。
晩年の態度改善と最終昇進
王濬は朝廷に入るたび、呉を滅ぼした自分の功績をこれでもかと語り、ついでに王渾たちから受けた仕打ちを根に持ったまま告発していた。
あまりの剣幕に、話の途中で感情が爆発し、皇帝に礼も言わずにふらっと帰ってしまうこともあった。
だが司馬炎は寛容な人だったので、そんな王濬の態度にも「まあ彼なりの訴え方だ」と大目に見ていた。
あるとき、益州護軍ので親戚の范通が王濬に諫めた。
「あなたの功績は確かに立派です。ですが、見せ方が残念すぎます」
王濬は問い返した。
「……どういう意味だ?」
范通は答えた。「もしあなたが凱旋のとき、粗末な布の頭巾でも被って、静かに家に帰ればよかったんです。 呉平定の話など一切せず、誰かが尋ねられたらこう言えばいいのです。
『あれは聖上の威徳と諸将の力によるもの。私は何もしていません』
それが顔回のような謙虚さ、龔遂のような慎みというものでしょう。
そうすれば、廉頗に譲った藺相如のように、王渾も自らを恥じたはずです」
王濬は苦笑しながら言った。
「私は最初、鄧艾のように功績ゆえに罪を着せられるのを恐れて、黙っていられなかったのだ。
胸にあるものを吐き出さずにいられなかった。それが私の偏りなのだ」
このころ人々は皆、王濬の功に比べて待遇が不当だと感じていた。
博士の秦秀、太子洗馬の孟康、前温県令の李密らが相次いで上奏し、王濬の処遇を改善すべきだと訴えた。
その結果、司馬炎は王濬を鎮軍大将軍に昇進させ、さらに散騎常侍を加官し、後軍将軍を兼任させた。
その後、王渾が王濬のもとを訪れたが、王濬は兵を配置して門を固め、衛兵を立てた状態でなければ会おうとしなかった。
両者の間にあった不信と警戒の深さは、最後まで解けることはなかった。
王濬の晩年と最期
呉を平定し、多くの恩賞を受けた王濬は、もはや若き日のような質素とは無縁になった。
玉の器に酒を注ぎ、錦の衣を身にまとい、彼の昔日の面影を完全に失っていた。贅沢と言えばそれまでだが、功労者の当然とも感じられる。
そして王濬は、かつての蜀の同郷や旧友を積極的に採用した。
これは単なる引き立てではない。故郷を捨てず、かつての盟友を見捨てぬ。彼なりの義理の示し方だった。
太康六年(285年)、王濬は撫軍大将軍に転じ、さらに開府儀同三司の号を加えられた。
特進の位を授かり、なおも散騎常侍、後軍将軍の称号を兼ね続けた。
太康六年(286年)十二月十八日、王濬は死去し、享年は八十であった。 葬地は柏谷山で墓所は広大で、墓域は四十五里にもおよび、周囲には門が設けられ、松と柏が茂る荘厳なものだった。
生前の功績を讃えられ、王濬には武侯の諡号が贈られた。
王濬の一族の後日談
王濬の後を継いだのは長男の王矩であった。その弟・王暢は散騎郎となり、王家の名はなおも朝廷に続いた。
さらに王暢の子・王粹は、太康十年(289年)、皇帝の命で潁川公主を娶り、魏郡太守にまで昇進した。
王濬にはもう二人、孫がいた。しかし彼らは江南へと渡ったきり、族譜からも記録が消え、行方知れずとなった。
時は流れ、安西将軍・桓温が江陵に駐屯した際、その二人の消息を知り、上奏文を奉った。
「徳ある者を尊び、功ある者に報いるのは、国政の基本であります。
今、かつて晋を九州に広めた王濬の家は絶え、その名誉は後に伝えられていません。
その孫たちは六十を過ぎて江辺に暮らし、祭祀すらできぬ有様です。
どうか過去の功を思い起こし、再び王家に俸禄を与えてください。」
しかし、この訴えは、ついに採用されることはなかった。
王濬の評価
蜀の史家・何攀は、王濬の人物について「忠義に厚く、命令が下れば必ずやり遂げる男だ。これほどの者に重い任を与えずして誰に託すのか」と称賛した。
王濬の名は後世にも刻まれ、唐代には「武廟六十四将」の一人として祀られている。功績と評価がともに重んじられた将であった。
唐の宰相・房玄齢は、王濬と王渾の功績についてこう評した。二人はともに軍を指揮し、淮海を平定するという大功を立てたが、王渾は他人の功を妨げ、王濬は自分の功を誇った。その働きは称えるべきものの、いずれも潔白とは言いがたいとしている。
唐代の将軍・侯君集は、戦功の価値をこう論じた。「将軍にとって最も重要なのは勝利である。勝つのであれば、多少の欲深さは大目に見られるが、負ければどれだけ清廉でも処罰は免れない。漢の李広利や陳湯、晋の王濬、隋の韓擒虎といった者たちは、罪に問われながらも勝利を収めたことで爵位を与えられた。」
王濬は誰よりも戦で勝ち、誰よりも周囲に煙たがられた。栄光と反感、その両方を一身に集めたまま歴史に名を残すことになったのである。
参考文献
- 晉書 : 列傳第十二 王渾 王濬 唐彬 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 列傳第四 羊祜 杜預 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷080 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷081 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷195 – 维基文库,自由的图书馆
- 華陽國志/卷十一 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:王濬 – Wikipedia
王濬のFAQ
王濬の字(あざな)は?
字は士治(しち)です。
王濬はどんな人物?
若年期は素行が悪かったですが後に大志を抱き、益州統治や滅呉戦で大きな功績を残した将です。
王濬の最後はどうなった?
太康六年(286年)の十二月に亡くなり、武侯と諡されました。
王濬は誰に仕えた?
王濬は曹魏に仕官し、その後晋の司馬炎に仕えました。
王濬にまつわるエピソードは?
巴郡で人々の負担を軽くし、多くの子どもが捨てられずに育てられるようにしたことが知られています。





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