1分でわかる忙しい人のための王渾(おうこん)の紹介
王渾(おうこん)、字は玄沖(げんちゅう)、出身は太原晋陽、生没年(223~297年)
王渾は魏末から西晋にかけて活動した将軍であり、父は魏の司空を務めた王昶であった。
若年期には曹爽の幕僚として仕官したが、高平陵の変で曹爽が誅殺されると連座して罷免された。
のちに復帰し、懷県県令や司馬昭の参安東将軍軍事などを歴任し、咸熙年間には越騎校尉となった。
晋建国後は徐州刺史として救済策を行い民心を得る一方、淮北や豫州で呉軍を撃破し、その後は呉の境界偵察を進めて侵攻方略を整えた。
呉征伐では横江から出撃し各地を攻略し、牛渚では張悌軍を討ち破った。
ただし王濬の建業先着を不満として功を争ったことでも知られる。
統一後は江東鎮撫で功があり、最終的に司徒まで昇進した。
政変期には司馬瑋の要請を拒み、のちに録尚書事を加えられた。
元康七年(297年)に死去し、元公と諡された。
王渾の生涯を徹底解説!高平陵の変で免官されるも晋の呉征伐に貢献し、司徒に就任した激動の人生
初期の任官と高平陵の変後の再起
王渾の父は魏で司空まで昇った王昶で、息子の王渾もまた物静かで品があり、どうにも周囲の期待を背負わされやすい空気をまとっていた。
大将軍曹爽の掾として仕官していたが、正始十年(249年)、司馬懿が高平陵の変を決行し曹爽が誅殺されると、その側近であった王渾も一緒くたに職を解かれることになった。突然の巻き添えで地面に転がされた形である。
しかし、ほどなく王渾は復帰し、懷県県令となって地方行政を担うようになった。
その後、司馬昭が安東将軍として軍を率いていた頃には参安東将軍・軍事に任じられ、幕僚として軍務を補佐した。また同じ時期に散騎黄門侍郎や散騎常侍を歴任した。
甘露四年(259年)に父の王昶が亡くなると、王渾はその爵位である京陵侯を継承した。さらに咸熙年間(264~265年)には越騎校尉へと改任された
西晋成立と徐州での善政
泰始元年十二月(266年)、魏の元帝・曹奐が司馬炎に帝位を譲ったことで、西晋が正式に成立した。
この新王朝のはじまりにあたり、王渾は揚烈将軍に任じられ、ほどなくして徐州刺史に転任される。
当時は徐州の地は飢饉に見舞われ、民は疲弊していた。
王渾はためらうことなく倉を開き、蓄えを放出して住民を救済した。これは単なる役人の仕事ではない。飢えに瀕した人々にとって、彼の決断はまさに「命の通達」だった。
民の信頼を一身に集めた王渾は、その功績を認められ、封邑を千八百戸も加増されている。
その後は東中郎将に昇進し、淮北の諸軍を監督する役を兼ねながら許昌に駐屯する。
政務においても黙々と提案を重ね、多くが採用された。
豫州刺史として呉軍を撃破
その後、王渾は征虜将軍となり、監豫州諸軍事を任され、假節も許されて豫州刺史を兼ねるようになった。
豫州は呉と国境を接する重要拠点で、王渾は晋の威を見せつけ、呉の政治に不満を抱く者たちが次々と投降してきた。
「相手のほうがマシ」と思わせた時点で、ある意味勝ちである。
一方で、呉も黙って見ているわけではなかった。武昌左部督の薛瑩と夏口督の魯淑が、十万と称する軍勢で新息・弋陽に侵攻してくる。
だがこのとき、州兵はまさに休暇の真っ最中で、残っていた兵力は千人程度と、お世辞にも戦える数ではない。
普通なら諦めるか籠城に徹する場面だが、王渾は密かに淮河を渡り、油断していた呉軍を急襲し見事に撃破した。
この戦功により、王渾の子・王尚は関内侯に封じられた。
その後、王渾は安東将軍に昇進し、都督揚州諸軍事として寿春に駐屯した。
呉の民が皖城で耕作を広げ、国境にじわじわと圧力をかけてくると、王渾は揚州刺史の応綽を派遣し、淮南の諸軍を統率させて反撃する。
砦を破壊し、穀物百八十万斛、稲苗四千頃、船六百艘余りを焼き払った。農業という名の静かな侵略に、火と鉄で応えるという、まさに古式ゆかしい応酬だった。
さらに王渾はそのまま兵を東境に布陣し、地形の高低や敵城の配置を観察した。攻撃・攻略の勢いを見極めるため、無言の偵察を続けた。
横江出撃と牛渚の戦いで呉の主力を討つ
咸寧五年(279年)十一月、ついに司馬炎が呉討伐を決断する。賈充を総司令官に、杜預、王濬らが出陣を命じられ、王渾は横江から軍を進めることになった。
ここで彼は参軍の陳慎、都尉の張喬を先に送り出し、尋陽の瀬郷を急襲する。続いて呉の牙門将・孔忠を撃破、将の周興ら五人を捕らえるなど、開戦早々に成果を挙げる。
さらに殄呉護軍・李純を高望城へと進ませ、呉の俞恭を破って占拠し、戦利品は山ほど、敵の首級も積み上がる。
これにビビった呉の歴武将軍・陳代と平虜将軍・硃明は、あっさり降伏した。
しかし呉もそのままやられてばかりではいられない。孫皓は丞相の張悌、大将軍の孫震、沈瑩、諸葛靚に三万の兵を預け、城陽へ進軍する。
王渾が派遣していた都尉・張喬を包囲し、あっという間に孤立させた。援軍として司馬の孫疇、揚州刺史の周浚が派遣されるが、その前に張喬は早々に降伏を申し出てしまう。
その後、呉軍は版橋で晋軍と対峙。張翰・周浚らと構え合う中、沈瑩が率いる「青巾兵」なる精鋭部隊が三度突撃を試みるも、晋軍の陣形は崩れず。
無理攻めの末に疲れが出て退こうとしたところ、逆に陣形が乱れ、そこを晋の薛勝・蔣班が見逃さず突撃し、呉軍はたちまち混乱、瓦解していく。
そこに先に降伏していた張喬が、ここで裏切って呉軍の背後を襲い、呉軍は完全に包囲され、なす術なく潰された。
張悌、沈瑩、孫震が斬られ、首級七千八百を挙げるという大戦果に。呉の人々はまさに言葉通り、震え上がった。
呉滅亡と王濬との功争い
呉の都・秣陵が目前に迫ったとき、王渾は王濬に使者を送り、「一度立ち寄って方針を協議しよう」と持ちかけた。
だが王濬は、帆を上げたまま川を下りながら「風が追い風でだから止まれない」と返したという。
どう見ても「協議」の誘いに乗る気はなかった。
実のところ、王渾はすでに孫皓の中軍を撃破し、張悌ら主力を討ち取っていた。ただし、それ以上の進軍には慎重になり、兵をとどめていた。
慎重と臆病は紙一重、そんな見方もできる。だが、このときの躊躇が、後の「功争い」の火種となった。
呉の側でも策は練られていた。薛瑩の進言によって、孫皓は王濬・司馬伷・王渾の三者それぞれに降伏文書を送る。
狙いは、晋軍の足並みを内側から乱すことであった。
王渾のもとには司徒・何植と建威将軍・孫晏が、印と節を携えて降っているが、勝敗の趨勢はすでに決まりかけていた。
最終的に石頭城を破り、孫皓を直接降伏させたのは王濬だった。その威名は一気に高まり、翌日になってようやく王渾は江を渡り、建業宮に登る。
その場で酒宴が開かれ、将たちは杯を交わしたが、王渾の顔には笑みよりも不満の色が濃かったという。
「自分が進軍を控えたから後れを取った」と悔やむ気持ちは理解できる。だが、しきりに王濬の過失を奏上していた様子には、むしろ周囲の失笑が集まった。
この功争いを収めるべく、帝からは詔が下された。
「王渾よ、汝は軍を統率し、秣陵を圧迫して孫皓を自衛させ、兵を分断し、西軍に救援させず、大敵を討ち破り張悌を捕らえ、勢いを削ぎ、ついに孫皓を面縛降伏させた。よって功績は顕著である」として、封邑八千戸の加増、公への進爵、子の王澄を亭侯に、弟の王湛を関内侯に封じ、絹八千匹を賜与した。
中華統一後の鎮撫と三公昇進
呉の滅亡によって中華が統一されると、王渾は征東大将軍に任じられ、再び寿春を拠点とした。
統一後の江東は、かつての敵を受け入れざるを得ないという複雑な空気に包まれていたが、王渾はいたずらに罰を与えず、素早い判断で政務をこなしていった。
その対応により次第に呉の遺民たちは安堵し、帰順していった。
太康六年(285年)、王渾は尚書左僕射となり、さらに散騎常侍を加官される。
ちょうどその頃、司馬炎は斎王・司馬攸を封国へ戻そうと考えていた。
王渾はこれに反対し、「賢明な親族を遠ざけるのは国家の損失になる。むしろ太子を補佐させるべきだ」と諫言した。
この忠告は却下されたが、少なくとも彼には、政の綻びを感じ取る目があった。
太熙元年(290年)、王渾はついに三公の一つである司徒に昇進し、中央の要職に就く。
だがその矢先、司馬炎が崩御し、暗愚と評される司馬衷が即位する。王渾は侍中を加えられた上で、司徒として尚書事の監督を命じられ、政務の中枢へと深く関わっていくことになる。
統一の功臣が、やがて混迷の幕開けを見届ける立場になる。
政変への対応
永平元年(291年)、賈南風と司馬瑋よにって楊駿が誅殺された。
これにより、冷遇されていた旧臣たちが再び重用され、王渾にも兵権が与えられることとなった。
だが、王渾の本務はあくまで司徒、つまり文官である。主簿すらも武装しない役職であり、本来なら軍を率いるのは武官、つまり赤衣の将軍吏属の仕事だ。
「これは本来の制度とは違う。今の自分は、たまたま時勢に引き上げられているだけだ」
そう考えた王渾は、私兵たちの衣をすべて黒衣に替えさせた。見た者はその姿に、謙虚さと節度を感じ取ったという。
やがて、司馬瑋が汝南王・司馬亮の粛清を企てる。部下の公孫宏は「王渾のような旧臣の支持を得なければ、人心はついてこない」と進言したが、王渾は動かなかった。
病と称して官を退き、自邸に籠もる。
その府邸には家兵千人余が詰め、門を固く閉ざし、司馬瑋の接近すら許さなかった。
無理に突入すれば、それは内戦の火ぶたとなる。司馬瑋も、さすがに躊躇せざるを得なかった。
その後、賈南風が司馬瑋を誅し、政権を掌握する。
嵐はひとまず過ぎ去り、王渾はふたたび司徒として尚書事の統括を任され、中央政治に関わり続けることとなった。
退くときは退き、出るときは出る。出過ぎず、引きすぎず。
王渾の生き残り方は、まるで綱渡りのように見えて、実のところ地に足がついていた。
晩年と最期
晩年、恵帝・司馬衷が王渾に問うたのは、大朝賀の儀における計吏の報告制度についてだった。
王渾は、「儀式を形式のままに流しては意味がない。地方の実情を直接聞く制度に改めるべきだ」と率直に上奏し、司馬衷はこの意見を採用した。
さらに詔が下り、王渾は尚書の政務を総覧する任を受け、中央政治の要として動き続けた。
王渾の経歴は華やかである。呉征伐で活躍し、征東大将軍として呉の残党を平定し、司徒として朝政に携わり、まさに出世街道の一本道を歩んだ。
だが一方で、高位に長くとどまるほどに名声は摩耗していく。
とりわけ、呉を滅ぼす大功を王濬と競い合ったあたりから、その評価には陰りが差すようになった。
『晋書』は評してこう述べている。
「王渾と王濬は、ともに呉を滅ぼす大功を立てた。しかし功を争い、朝廷を乱したのは惜しいことである。」
功名は人を輝かせるが、同時に足元を掬うこともある。王渾もまた、その例に漏れなかった。
元康七年(297年)九月四日、王渾は七十五歳で没し、元公の諡号を贈られた。
長男・王尚は関内侯に封じられながらも早逝し、次男の王濟が家督を継いで侍中となった。
父王渾の狭量な心を受け継ぎ、子としての正しい義に背いたと言われるが、王家の名前はその後も晋の政権内に生き続けた。
参考文献
- 晋書 : 列傳第十二 王渾 王濬 唐彬 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻080 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/巻081 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/巻082 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:王渾 – Wikipedia
王渾のFAQ
王渾の字(あざな)は?
王渾の字は玄沖(げんちゅう)です。
王渾はどんな人物?
争功心の強さがあった一方で、普段の政務では沈着で器量があり、呉の遺民の安撫にも適していました。
王渾の最後はどうなった?
元康七年(297年)に死去じ、元公と諡されました。
王渾は誰に仕えた?
魏の曹爽、司馬懿・司馬昭らを経て、西晋の司馬炎に仕えました。
王渾にまつわるエピソードは?
呉討伐で王濬と功を争い、弾劾を2度にわたり行ったことが知られています。






コメント