1分でわかる忙しい人のための孟宗(もうそう)の紹介
孟宗(もうそう)、字は恭武(きょうぶ)、出身は江夏郡鄳県、生没年(?~271年)
三国時代の呉の後期に仕えた重臣であり、司空にまで昇った人物である。
若いころ南陽の李粛に師事し、昼夜を問わず学問に励んだ結果、「宰相の才を備える」と高く評価された。
仕官後は朱拠(朱據)の配下で軍吏を務め、やがて呉県令・豫章太守・光祿勲などを歴任した。
母思いの性格で知られ、官職にありながらも母の死に奔喪して死罪に処されかけたが、陸遜の助命によって許された。
その後も民政に尽くし、清廉で誠実な姿勢を貫いたため人々の尊敬を集めた。
晩年には孫皓に仕え、司空に任じられたが、建衡三年(271年)に武昌で没した。
特に有名なのは、冬に母のため竹筍を求めて泣き、涙が落ちた地から筍が生えたという「哭竹生筍」の逸話である。この物語は『二十四孝』の一つとして中国史に残り、彼の名を冠した「孟宗竹」は、今なお孝行の象徴とされている。
孟宗を徹底解説!孝行の逸話と呉末を支えた重臣の生涯
後に改名して孟宗から孟仁になっているが、当記事では孟宗で統一する。
学問への志と若き日の修養
孟宗は若いころ、南陽の学者・李粛(董卓配下とは違う)の門を叩いた。
灯火の油が切れても学びを止めず、友人たちが寝静まるころ、一人だけ筆を握っていた。
「寝るのも才能だ」と周囲に呆れられつつも、孟宗はひたすら本と格闘していた。
そんな彼を見て、李粛は真顔で言った。「この青年には宰相の器がある」。
お世辞と気づかず本気にした孟宗は、それを生涯の目標にしてしまった。
やがて忠義と孝行をもって知られる人物となるが、その原点は目の下に隈をつくりながらも机に向かい続けた、あの夜更けの時間だった。
仕官と母への孝行
孟宗は呉に仕えて、まず驃騎将軍・朱拠(朱據)のもとで軍吏として働いた。
軍中には母を迎えて共に暮らしており、ある晩、自分が功を立てられぬまま母に苦労をかけていることに涙したという。
すると母は、「今は任務を果たすことが孝行というもの」と諭した。孟宗はその言葉を心に刻んだ。
やがて朱拠の信任を得て、孟宗は塩池司馬に任じられる。漁業監督という職務を得たが、ある日、自ら魚を鮓にして母に贈った。ところが母はその鮓を返してきた。
「お前は魚を扱う役職にある。嫌疑を招くことは避けなさい」
母の一言は、どんな鮓よりもしっかり締まっていた。
のちに孟宗は呉県令に昇進する。
役所暮らしで母と離れていても、四季の味が手に入れば欠かさず母に送った。
しかも自分は、それを味わうのは必ず母の後で、親孝行もここまで来れば一級品であった。
母の葬儀で死罪になりかける
嘉禾六年(237年)、丞相・顧雍の提案により「官にある者が無断で任地を離れ、喪に赴けば死罪」とする法が定められた。
その直後、孟宗は母の訃報を受けると涙ながらに無断で帰郷し、法を顧みず葬儀を執り行った。
式を終えた孟宗は自ら武昌へ出頭し、罪を受ける覚悟を示した。
これに陸遜が「孝行な者を殺すのは国家の損失です」と進言すると、孫権は「今回は特例として許す」として死罪を免じた。
ただし、以後は例外を認めないと宣言し、この件をもって規定を明確に打ち切った。
孟宗の行動は、法を超えて親を思う真心の証として人々の胸を打った。
民に慕われた善政と質素な生活の逸話
孟宗が豫章太守として赴任すると、誠実で公平な政治を行い。地域の安定に尽力して民から深く信頼された。
その徳を慕う人々の中には、自らの子に「孟」と名づけて敬意を示した者もいた。
のちに光禄勲となり、宗族(一族)を集めた宴が開かれた際のこと。
ふだん酒をほとんど口にしない孟宗だったが、ある者が強く勧めたため、無理に一杯だけ飲んだ。
するとすぐに吐いてしまい、その嘔吐物が調べられることとなる。
監察官が報告したところ、出てきたのは米ではなく麦飯だった。
当時、麦飯は庶民の食物であり、孫権は家の貧しさを心配して、「なぜ麦を食べていたのか」と問いただす。
孟宗は落ち着いて答えた。
「我が家には米も十分にあります。麦飯はただ愚かな臣が心安らかに感じる食事だから食べているのです。」
その答えに、孫権は深く感銘を受けたという。
高位にあっても私利を求めず、質素を貫いた孟宗の姿は、多くの人に「徳をもって仕える者」として記憶された。
この逸話は、彼がただ孝行なだけでなく、政治と日々の暮らしにも誠実であったことを物語っている。
孫綝政権下の動乱
太平三年(258年)、呉の実権は孫綝の手にあり、若き皇帝・孫亮はついに政変を決意した。
全公主(孫魯班)、太常の全尚、将軍の劉丞(劉承)らと共に、孫綝誅殺を画策したが、計画は漏れ、孫綝は即座に動いた。夜のうちに全尚邸を襲撃し、劉丞を蒼龍門外で殺害、皇宮を包囲した。
その後、孟宗は孫綝の命を受け、祖廟へ出向いて皇帝廃位を報告するという、非情な役目を担うこととなった。
孫亮が退位し、孫休が即位すると、孫綝は依然として権勢を保ち、孟宗を通じて武昌への駐屯を申し出た。
孫休はこれを許し、精鋭一万余と武庫の兵器までも与えるという寛大すぎる処置を取る。
しかし将軍の魏邈は「外に軍を置けば必ず災いとなる」と忠告し、武衛士の施朔も「反意あり」と告発。ついに孫休は決断を下し、張布・丁奉らと協議のうえ、孫綝を誅した。
政変後、孟宗は責任を問われることなくそのまま職に留まった。
権力に深入りせず、常に節度をもって動いていたことが、このとき命を救ったと言われている。
司空への昇進
永安五年(262年)冬十月、孫休は丁固を左御史大夫に、孟宗を右御史大夫に任じた。
以後、両者はそれぞれ朝政の監察と助言を担い、節度ある文臣として並び称されるようになる。
元興元年(264年)、孫皓が即位すると、孟宗は皇帝の字「元宗」を避けて孟仁と改名した。
宝鼎二年(267年)、孫皓は孟宗と太常の姚信を明陵へ遣わし、孫皓の父・孫和の霊を祀らせた。
出立の際には、孫皓みずから孟宗を見送ったという。
翌宝鼎三年(268年)春二月、孟宗は司空に、丁固が司徒に昇進した。
清廉と忠義をもって呉末の政を支える「両輪」となった。司空は三公のひとつに数えられる重職であり、かつて師の李粛が「宰相の器」と評したとおりの出世であった。
建衡三年(271年)、孟宗は武昌にてその生涯を終えた。
政争の渦中にあっても節を曲げず、誠実と清廉を貫いたその姿は、呉末期を支えた老臣のひとりとして記憶されている。
孝行伝説「哭竹生筍」
孟宗の名をもっとも世に知らしめたのは、何といっても「哭竹生筍(こくちくしょうじゅん)」である。
ある冬の日のこと。病床の母がぽつりと「竹の子が食べたい」とこぼした。
もちろん季節は真冬。筍は地中深く、普通なら手に入るわけもない。
しかし孟宗は、手に入らぬことを嘆き、竹林に入って号泣した。
あまりの悲しみに空も驚いたのか、孟宗の涙が地面に落ちたその場所から、奇跡のように筍が芽を出したという。
彼はすぐにそれを掘り取って母に供え、母はそれを口にして元気を取り戻したという、ちょっと信じがたいほど美しい話である。
この話は「哭竹生筍」として語り継がれ、孟宗の孝行が天地をも動かした奇跡とされている。
伝説に登場するこの竹は「孟宗竹」と呼ばれ、現在でも冬の筍の代表として知られている。
ちなみにこの逸話、『二十四孝』にも収録されており、「泣けば筍が生える男」として孟宗は後世に名を残した。
後世の評価
陸機は孟宗を評して、「孟宗や丁固のような人物が三公となり、楼玄・賀邵らが政務を担うなら、たとえ皇帝が少し頼りなくとも、しっかり国は回る」と述べている。
つまり、「上がダメでも下が優秀ならなんとかなる」という、わりと本音に近い評価である。
なお、孟宗の曾孫には孟嘉と孟陋という人物がいる。
孟嘉は風流と機知に富んだ人物で、「帽子が風に飛ばされると笑いで場を和ませた」など、なかなかの逸話を残している。
孟陋はより真面目路線で、学問においては儒家の宗師とまで称された。
こうして見ると、孟宗の孝行は伝説となり、子孫の代まで品格と風格を伝えていたことがうかがえる。
参考文献
- 三國志 : 吳書二 : 吳主傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 吳書三三 : 孫皓傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 吳書十九 : 孫綝傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 晋書 : 列傳第六十四 隱逸 孟陋 – 中國哲學書電子化計劃
- 晋書 : 列傳第六十八 王敦 桓温・孟嘉 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志補注 : 巻六 – 中國哲學書電子化計劃
- 太平御覽 : 巻二十四至巻二十八 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:孟宗 – Wikipedia
孟宗のFAQ
孟宗の字(あざな)は?
孟宗の字は恭武(きょうぶ)です。
孟宗はどんな人物?
孟宗は学問と孝行に優れた人物で、清廉で誠実な性格の持ち主でした。
孟宗の最後はどうなった?
建衡三年(271年)に武昌で没し、司空として呉の重職を務めたのちに世を去りました。
孟宗は誰に仕えた?
孟宗は呉の孫権、孫亮、孫休、孫皓の四代に仕えました。
孟宗にまつわるエピソードは?
冬に母のため竹筍を求めて泣いたところ、筍が生えた「哭竹生筍」の逸話が有名です。





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