1分でわかる忙しい人のための顧譚の紹介
顧譚(こたん)、字は子默(しもく)、出身は呉郡、生没年(205年~246年)
顧譚は、顧邵の子・顧雍の孫として育った呉の文官である。少年期から太子孫登の賓客に列し、輔正都尉として起用された。 上書の才は孫権をして食事も忘れさせるほどと評され、徐詳を超えると称揚された。 赤烏年間には諸葛恪の後任として節度を掌り、書簿の誤りを暗算で看破する実務力を示し、奉車都尉・選曹尚書・太常へと進んだ。 一方で、嫡庶を明らかにすべしとの進言で魯王孫覇と不和となり、全氏とも軋轢を生む。 芍坡の戦後に讒言の渦中で公然と孫権を非難し、大不敬相当とされるも祖父顧雍の功により死罪は免れに交州へ流された。 流刑の地で『新言』二十巻を著し、四十二歳で没した。
顧譚を徹底解説!孫権に重用されたが、流罪に散った才子官僚の軌跡
顧譚とは?顧家の血統と太子四友
顧譚は建安十年(205年)に生まれた。
父は顧邵、祖父は後に丞相を務めた顧雍、さらにこちらも後に関羽、劉備を破る名将の陸遜の甥という、家系図を広げれば、どの枝にも名門の札がぶら下がっている。
黄龍元年(229年)、孫権が皇帝になると孫登が太子となり、顧譚は諸葛恪・張休・陳表らと共に、側近となり太子四友と呼ばれた。
与えられた官職は輔正都尉で、同世代の俊才と机を並べ、顧家の看板を背負って試される日々が始まった。
それでも彼が上書を出せば、孫権はしばしば箸を止めて読みふけったという。
「徐詳を超える」との評価まで飛び出し、皇帝の食事を中断させるほどの文章力を見せつけた。
というより、皇帝でもゆっくりご飯を食べられない状況の方が驚かされる。
その後、顧譚は単独で召し出され、褒賞を受けることもあった。
名門の血筋に胡坐をかかず、自らの実力で評価を得た希少な存在。
青春の顧譚は、家柄と才覚の両方で抜きん出たのである。
文官としての才覚と実務能力
赤烏年間、顧譚は諸葛恪の後任として節度を任された。
帳簿の誤りを指摘するとき、彼は筆を取る前に心算で計算を終えてしまう。
周囲の役人が必死にページをめくる横で、彼だけは目を細めて「ここが違う」と指先で示す。
属下たちは、まるで手品を見せられたように息を呑んだ。
事務能力が人を黙らせるというのは、なかなか痛快な場面である。
その後、薛綜が選曹尚書に任命されたとき「私より顧譚の方が人物を見抜きます」と推薦した。 結果、顧譚は人材登用の要となる選曹尚書の席についた。 これは「席を譲られた」ようなものだが、譲られる側に信頼がなければ成立しない。
顧譚の能力が確かに認められていた証拠である。
赤烏六年(243年)、祖父の顧雍が亡くなった。
数か月後、顧譚は太常に任じられ、祖父が担った尚書職を継ぐ。
家柄の力と実務の才覚、その両輪で彼は官界に居場所を築いたのである。
孫覇との対立と全氏との確執
魯王・孫覇は太子・孫和と並ぶように遇されていた。
兄弟に同じ椅子を並べて座らせれば、いずれ押し合いへし合いになるのは目に見えている。
顧譚はそこで口を開き、「嫡庶の別を明らかにすべきです」と諫めた。
正論だったが、その進言は魯王・孫覇の立場を否応なく脅かすものだった。
当然ながら、反発を招かぬはずもない。
さらに孫覇の側近には全琮の子・全寄がいた。
顧譚はこの全寄とも不和となり、敵を二人作ったも同然であった。
こうして顧譚の周囲には、じわじわと不信の網が編まれていった。
これより少し前の赤烏四年(241年)、顧譚の弟・顧承と張休は北征に参加し、寿春を攻めた。
一方で大都督の全琮は魏の王凌と芍陂で戦ったが、呉軍は劣勢に陥り、魏軍は秦晃の軍を撃破した。
ここで張休と顧承が奮戦し、魏軍の進撃を辛うじて止める。
その後、全琮の子である全緒・全端も加わり、敵の退勢を見て攻め立て、王凌軍を退却させた。
ところが戦後の論功行賞では、先に進撃を止めた張休・顧承の功が重く、全緒・全端は下位の偏裨に甘んじた。
これが全寄父子の心に火をつけ、顧譚への憎悪はさらに増幅する。
『呉録』によれば、全琮父子は芍陂の戦いで典軍・陳恂が功績を偽り、張休・顧承を持ち上げたと訴え、両者を陥れようとした。
張休は獄につながれ、顧譚も巻き込まれる。
孫権は顧譚の才能を惜しみ、謝罪すれば釈放するつもりで宴席に問いただした。
だが顧譚は頭を垂れるどころか、「陛下、讒言が起こっております」と真顔で言い放った。
救済の綱を自ら断ち切るような一言である。
『江表伝』によれば、役人たちは「大不敬にあたり死罪」と奏上した。
常ならば命はなかったが、祖父・顧雍の功績を慮った孫権は法を曲げ、顧譚を死罪にはせず、流罪にとどめた。
流罪と著述『新言』と死
赤烏八年(245年)、顧譚はついに交州へと追われる身となった。
名門の才子が、わずか数年のうちに栄達から流刑囚へと転落する。
それは呉の政治の縮図であり、忠直な言葉がいかに危ういかを示す教科書でもあった。
だが彼は沈黙を選ばなかった。
怨懣の中で筆を執り、『新言』二十巻を書き残す。
そのうちの一編「知難篇」には、自らの悲哀と苦悩が刻まれている。
体制に打ち砕かれた者が、なお理を尽くして言葉を残そうとする姿は、逆説的に強靭な抵抗であった。
しかし運命は残酷である。
翌赤烏九年(246年)、流罪二年目にして四十二歳で没した。
栄華を誇ることもなく、名誉を回復することもなく、ただ異郷で力尽きたのである。
同時代の評価と史家の評
顧譚の名をめぐる最初の証言者は、やはり祖父・顧雍である。
ある酒宴で、顧譚が舞をやめずに興じ続けたことがあった。
その姿に顧雍は眉をひそめ、こう告げた。
「君主は寛容をもって徳とし、臣下は慎みをもって節度とする。酒の席といえど、恩に甘えて礼を失えば、家を損なうのはお前だ」
真面目を売りにした青年にしては、ずいぶん愛嬌のある失態である。
一方で、太子孫登は「腹心として委ねるべし」と推し、胡綜は「時機を察する明敏さに長ける」と褒めた。
ただし羊衜は「確かに鋭い。だがその鋭さは人を傷つける」と手厳しい。
褒め言葉と苦言が交錯するあたり、顧譚の個性はまっすぐすぎたのだろう。
後世、『三国志』の陳寿は「献納在公、有忠貞之節」と記す。
公のために献言し、節を貫いたと評しながらも、その評価は簡潔だ。
長文で飾り立てるより、短い言葉の方が彼には似合っている。
顧譚は「忠直ゆえに疎まれた人物」として記録に残った。
権力の風に抗った者は、時に流され、時に切り捨てられる。
しかし、彼が遺した『新言』は、権力に背を向けられた知識人の矜持を今日に伝えている。
参考文献
- 三國志 : 呉書七 : 顧譚伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書七 : 顧雍伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書八 : 薛綜伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書七 : 顧邵伝 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:顧譚 – Wikipedia
顧譚のFAQ
顧譚の字(あざな)は?
字は子默(しもく)です。
顧譚はどんな人物?
上書・実務に長じた才子官僚で、暗算で書簿の誤りを看破するなど実務能力に優れました。一方で進諫が過激で、権力者と衝突しやすい面もありました。
顧譚の最後はどうなった?
交州へ流罪となり、赤烏八年(246年)に同地で亡くなりました。
顧譚は誰に仕えた?
呉の孫権に仕え、太子孫登の側近としても活動しました。
顧譚にまつわるエピソードは?
上書を孫権が食事も忘れるほど読み耽り、徐詳を超えると評した逸話があります。また、流罪中に『新言』二十巻を著しました。
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