【1分でわかる】胡綜:孫権の柱として支え、朱桓に斬られかけた生涯【徹底解説】

胡綜

1分でわかる忙しい人のための胡綜の紹介

胡綜(こそう)、字は偉則(いそく)、出身は汝南固始、生没年(183年~243年)

胡綜は三国時代の呉に仕えた官僚であり、辞賦や文才に優れた人物である。 幼くして父を亡くし、母と共に江東へ避難した。若年期には孫策に私的な側近として仕え、孫権と学問を共にし、後に孫権政権を支える重要な文臣として活躍した。

黄祖討伐への従軍、晋宗の捕縛、彭綺討伐など軍事行動にも関与し、文官としてだけでなく戦功を挙げたことが特徴である。 孫権が呉王、さらに皇帝となる過程で常に側近として仕え、勅命文書や外交文の多くを執筆した。性格は酒を好み奔放であったが、その才を孫権に高く評価され、侍中や偏将軍、左執法などを歴任した。赤烏六年(243年)に61歳で死去し、子の胡沖が爵位を継いだ。 陳寿は彼を孫権時代の国家事業を支えた人材の一人として評価している。

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胡綜を徹底解説!孫権を支えた文才と外交手腕、功績と人物像

少年期と孫策・孫権との交流

胡綜は汝南固始に生まれたが、早くに父を亡くし、母と共に江東へ身を寄せる。
建安二年(197年)、孫策が会稽太守に任じられると、十四歳の胡綜はその「門下」に入った。門下といっても雑用係ではない。若者が政務を学び、才を示せば将来の出世に繋がる試練の場だった。
胡綜はここで孫策の目に留まり、側近として仕え、同じ場にいた孫権とも共に学ぶことになる。

やがて建安五年(200年)、孫策は暗殺される。政権の後継者となった孫権は、かつて学び合った胡綜を金曹従事に登用した。
かつて地方を歩いた従者が、いまや政権の一角を担うことになった。

孫権政権での初期活動

孫策が非業の死を遂げると、政権は孫権の肩にのしかかった。彼が最初に挑んだ大事業の一つが、江夏太守・黄祖の討伐で、胡綜もその軍に従った。
黄祖は討たれ、胡綜は鄂長(夏口の長官)という地方官に任じられる。避難民の出自であった彼にとって、この任官は異例の出世であった。

その後、孫権が車騎将軍となり京口に駐屯すると、胡綜は書部に任命されて、ここで是儀徐詳と共に、政権の機密を扱うことになる。 孫権にとって三人は梁や棟木、屋根を支える材木のような存在だった。胡綜もその一本であり、彼の名はこの時点ですでに政権の中枢に食い込んでいた。

呉王封立と対魏戦での功績

建安二十六年(221年)、魏の曹丕が孫権を呉王に冊封した。これで呉は正式に「王国」として認められた。この時胡綜・是儀・徐詳の三人もそろって亭侯に封じられる。

やがて劉備が白帝城に兵を進める。呉の兵力は不足、数を並べただけでは到底足りない。
孫権は打開を求め、胡綜に各県から兵を徴発させた。集まった数は六千。数字だけ見れば小さな軍勢かもしれないが、当時の呉にとっては命綱だ。
その兵を二部に分け、解煩兵と名づけられた。左部督を徐詳、右部督を胡綜に任せる。 徐詳は軍制の中で実際の指揮を執る立場を与えられ、孫権政権の軍事体制を支える重要な役割を担った。

建興元年(223年)、呉の将晋宗が魏へ降り、蘄春太守に任じられて長江沿いの城邑を侵攻した。孫権は胡綜と賀斉を派遣し、最終的に晋宗を生け捕りとした。この功績により胡綜は建武中郎将に昇進した。

黄武四年(225年)、鄱陽で彭綺が反乱を起こし数万の兵を集めた。孫権は周魴を太守に任じ、胡綜もこれに協力して討伐にあたった。反乱軍は鎮圧され、彭綺は生け捕られた。
胡綜は文官の性質のようで、軍事行動にも関与し、治安維持や政権安定に大きな役割を果たしたのである。

皇帝即位後の仕官と上奏活動

黄龍元年(229年)、孫権はついに皇帝の座に就き、都を建業に移した。胡綜は侍中に抜擢され、さらに都郷侯へ進封される。徐詳と並んで左右領軍を兼ね、のちには偏将軍・左執法をも任される。
剣で国を切り開いた孫権、その背後で紙と筆を振るい制度を整える胡綜。二人の関係は、表と裏のように噛み合っていた。

この頃、胡綜は《請立諸王表》を上奏する。彼の筆は遠慮なく核心を突いた。「皇后も立てず、公主も邑を持たず、これでは国制を疑われかねません」
その言葉には、周王朝では五十余の姫姓が国を持ち、後漢の光武帝も九人の子を封王とした歴史の重みが並べられていた。謙虚さを美徳とした孫権に対し、胡綜は「それでは逆に礼を欠く」と切り込んだのである。
上表文は、ただの儀礼的な進言ではなかった。国をどう見せるか、後世にどのような形で伝えるかを問う、鋭い問いかけでもあった。

孫権政権での政治調整と軍務参与

黄龍二年(230年)、はるばる青州から呉に降ってきたのは、ただの亡命者ではなかった。「隠蕃」その名は不穏で、その言動はもっと不穏だった。
孫権は「どう思う?」と胡綜に尋ねた。
胡綜は一言、「東方朔のように話は大きく、禰衡のように舌は達者。だが、才はどちらにも及びません」
そして付け加える。「民を治める器ではありません。まずは都の端役で様子を見るべきです」

孫権はうなずき、隠蕃を廷尉監に任命。だがその直後、朱拠や郝普らが「この男は国を支える器だ」と推挙する。
空気が一変しそうな中、胡綜は動じなかった。
そして数年後、隠蕃は謀反を起こし、誅殺される。
後に残ったのは、「最初に冷静だった人間が、だいたい正しい」という、地味だが重い教訓であった。

嘉禾元年(232年)、遼東の公孫淵が呉に降伏を申し出た。孫権は受け入れる気満々だったが、だが張昭は猛反対する。
議論はすぐに激化し、孫権の怒りが天井を突き抜ける。ここでまた胡綜が立ち上がる。
怒れる皇帝と、譲らぬ老臣の間に割って入り、言葉でなだめ、空気をなだめ、なんとか両者を軟着陸させた。
二人の調停というのは、戦争よりよほど骨の折れる仕事だった。

嘉禾六年(237年)、魏の廬江主簿・呂習が内応を約し、「城門を開けて迎え入れる」という計画を持ち込んだ。 孫権は色めき立ち、全琮を大将に大軍を派遣し、朱桓と胡綜が同行した。 だが、この計画は露見し、呉軍は城を得るどころか撤退を余儀なくされた。

撤退中、全琮は戦果を得ようと各将に兵を割り当てて周辺を襲撃させようとした。 全琮の指揮下に置かれることに苛立っていた朱桓は、この計画を耳にして怒りを抑えきれなくなる。

やばいと思った全琮は「これは胡綜の提案だ」と言い訳したが、それが逆効果となった。朱桓は胡綜を呼びつけたが、部下が軍営の前で彼を止めてしまう。 胡綜が現れなかったことで、朱桓はその部下が通報したと決めつけ、怒りに任せて殺してしまった。 さらに補佐官が諫めると、その者までも斬り捨ててしまう。

この事件は、文官が軍靴を履くことの危うさを、これ以上ない形で突きつけたのである。

晩年と最期

胡綜は孫権が政権を掌握して以来、勅命の文章や任命の策文、さらに隣国との外交文書の多くを執筆した。彼の筆は国家の制度や対外関係を支える重要な役割を担った。

赤烏六年(243年)、胡綜は六十一歳で世を去った。酒を愛し、酔えば大声で叫び、時には取っ組み合いまでした。文官というより、酔いどれの豪傑のような姿だ。
だが孫権は咎めなかった。むしろ「この男には、それを補って余りある才がある」と黙認した。胡綜の奇癖すら、政権の一部として許されていたのである。

胡綜の死後、子の胡沖が爵位を継ぎ、天紀年間には中書令に任じられた。その後は西晋に仕え、尚書郎や呉郡太守を務めた。こうして胡綜の家は、呉から晋へと仕官の道を継いでいった。

人物評価

『三国志』の陳寿は、是儀・徐詳・胡綜を「孫権の事業を支えた者たち」と評した。是儀は清廉で誠実、胡綜は文才に秀で、徐詳はしばしば使命を果たし、三者それぞれが孫権から厚い信任を得ていたと記されている。

さらに陳寿は「広夏の榱椽」、すなわち大きな屋根を支える梁や棟木にたとえた。控えめな比喩に見えて、実は最大級の賛辞である。屋根は梁がなければ崩れる。政権もまた、彼らなしには傾いたであろう。

参考文献

胡綜のFAQ

胡綜の字(あざな)は?

胡綜の字は偉則(いそく)です。

胡綜はどんな人物?

胡綜は文才に優れ、外交文書や詔勅の作成を担った人物です。酒好きで奔放な一面もありましたが、孫権に重用されました。

胡綜の最後はどうなった?

赤烏六年(243年)に死去し、享年61歳でした。子の胡沖が爵位を継ぎ、後に西晋にも仕えました。

胡綜は誰に仕えた?

胡綜は呉の孫策・孫権に仕えました。特に孫権の側近として活躍しました。

胡綜にまつわるエピソードは?

嘉禾六年(237年)、朱桓に疑われ殺されかけたが、部下の機転で助かったという事件があります。

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