【1分でわかる】胡烈:羅憲を救援した魏晋の勇将の最後【徹底解説】

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1分でわかる忙しい人のための胡烈の紹介

胡烈(これつ)、字は玄武(げんぶ)、出身は安定郡臨涇、生没年(?~270年)
曹魏から西晋にかけて活動した将軍で、父は胡遵、兄は胡奮、子に胡淵を持つ武門の家系に生まれた。
諸葛誕の乱では泰山太守として朱異を奇襲撃退し、蜀討伐では鐘会の先鋒を務めた。
鄧艾を謀反の罪で告発し、後には鐘会討伐にも加わるなど、戦場だけでなく政争の渦中に身を置いた。
晋建国後は荊州刺史として羅憲を救援し、さらに秦州刺史として西北の異民族統治を担ったが、泰始六年(270年)、鮮卑の禿髮樹機能の乱に遭い、万斛堆で戦死した。
その生涯は勇に偏し、謀に乏しいと評された一人の将軍の軌跡であった。

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胡烈を徹底解説!鍾会の乱を生き抜き、羅憲を救援した勇将の栄光と最期

荊州を揺るがせた武勇:諸葛誕の乱での活躍と朱異撃退

甘露二年(257年)、諸葛誕が寿春で反乱を起こしたとき、泰山太守だった胡烈は東呉の朱異を迎え撃った。朱異は一万余の兵を率いて進軍したが、胡烈はわずか五千で奇襲し、都陸の糧食を焼き払った。
朱異は敗走し、援軍に消極的だったことを理由に孫綝によって斬首された。
胡烈の一撃は戦術的勝利にとどまらず、呉の内部対立を誘発する要因ともなった。

詐降の闇:鄧由の偽投降と王基との軋轢

景元二年(261年)、呉将の鄧由らが「魏に帰順する」と偽って接触してきた。襄陽太守の胡烈はこれを信じ、王基に報告して出迎えを提案した。
しかし王基は「危険すぎる」と判断して兵を動かさず、最終的に鄧由らが降伏しないことが明らかになった。
胡烈の直情と王基の冷徹、その対比は魏の軍略における縮図のようでもある。

鐘会の先鋒となる:蜀討伐戦と蔣舒・傅僉の対立

景元四年(263年)、胡烈は南安太守兼護軍として鐘会の蜀征伐に従軍し、先鋒を任じられた。
蜀軍では、守将の傅僉と蔣舒が対応をめぐって対立した。傅僉は「命に従い城を守り抜くべきだ」と主張し、迎撃を拒んだ。 これに対し蔣舒は「出撃して敵を討つべきだ」と言い張り、そのまま胡烈に投降した。
傅僉は孤立無援となりながらも城を固守したが、胡烈の攻撃を受けて激戦の末に戦死した。
蜀軍の分裂と傅僉の壮絶な最期は、魏軍の侵攻を一層容易にする結果となった。

鄧艾を罠に:反逆の口実と鐘会討伐

蜀を平定した後、胡烈は鐘会・師纂と共に鄧艾を謀反の罪に陥れ、檻車で洛陽へ送るよう奏上した。
しかし翌年、鐘会自身が成都で謀反を起こした。胡烈は衛瓘に従って鐘会討伐に加わり、反乱の鎮圧に尽力した。
かつての主君を裏切る形となったが、それもまた政争に翻弄され続けた胡烈の宿命であった。

永安の守将・羅憲を救援せよ:荊州刺史時代の活躍

鐘会の乱後、胡烈は荊州刺史に任じられた。永安では羅憲が孤立して守備を続けており、胡烈は救援軍を派遣して呉軍を退けた。
さらに泰始四年(268年)、施績・萬彧が襄陽を攻めると、胡烈は迎撃して撃退した。荊州の防衛を維持し、その名を広めた。
当時の民衆は胡烈の施政を称賛し、歌を作ってその徳を讃えたと伝わる。

秦州刺史としての試練:鮮卑の脅威と西北防衛

泰始五年(269年)、胡烈は秦州刺史に任じられ、高平川に駐屯した。かつて鄧艾が降した鮮卑族数万人を統制する任務を担ったのである。
雍州・涼州に散居する異民族を懐柔しつつも監視するという難題は、戦場の勇よりも統治の才を試すものだった。
胡烈の名声を信じて朝廷が任じた任務だったが、情勢は険しく、安定は続かなかった。

万斛堆の悲劇:禿髮樹機能の反乱と胡烈の最期

泰始六年六月戊午(270年7月9日)、涼州で大旱が発生し、鮮卑族が反乱を起こした。
胡烈は万斛堆(現在の寧夏中衛と甘粛靖遠の境)で禿髮樹機能の軍勢に包囲され、戦死した。
「勇あるも謀なし」と評された胡烈の生涯は、戦場で始まり、異民族の矢に散るという結末を迎えた。

参考文献

FAQ

胡烈の字(あざな)は?

胡烈の字は玄武です。

胡烈はどんな人物?

曹魏から西晋にかけて活躍した将軍で、戦場では勇猛でしたが、謀略に疎く直情的な面を持っていた人物です。

胡烈の最後はどうなった?

泰始六年(270年)、鮮卑族の禿髮樹機能の乱に遭い、万斛堆にて戦死しました。

胡烈は誰に仕えた?

魏では鐘会や王基の下で軍務に従事し、晋建国後は荊州刺史・秦州刺史として西晋に仕えました。

胡烈にまつわるエピソードは?

諸葛誕の乱で朱異の糧道を焼いた武勇や、荊州で善政を行い民衆から歌で称えられた逸話が伝わります。

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