胡奮:諸葛誕討伐、呉征伐で武名をあげた晋の名将【すぐわかる要約付き】

胡奮

1分でわかる忙しい人のための胡奮の紹介

胡奮(こふん)、字は玄威(げんい)、出身は安定郡臨涇県、生没年(?~288年)

晋の武将として知られ、若年期から武事を好み、のちに司馬懿の遼東遠征に白衣で随従したことを契機に厚遇され、帰還後に校尉となった人物である。
徐州刺史や陽夏子に封じられるなど昇進を重ね、正元二年(255年)には陳泰や鄧艾らと共に狄道で包囲された王経の救援に向かい、姜維を退却させた。
甘露二年(257年)に起きた諸葛誕の反乱では、寿春陥落時に諸葛誕を迎撃して斬り名を高めた。

のち匈奴劉猛討伐で監軍となり硜北で軍を整えて勝利し、李恪が劉猛を斬って降伏する結果を導き、征南将軍・都督荊州諸軍事・護軍・散騎常侍へと進んだ。
晩年は学問にも励み、辺地で威惠を示したとされる。 泰始九年(273年)には娘の胡芳が貴人に選ばれた。
その後は尚書右僕射、鎮軍大将軍、開府儀同三司、陽夏県侯として重んじられ、太康九年(288年)に没し、車騎将軍を贈られ、諡は壯とされた。

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胡奮の生涯を徹底解説!狄道救援、諸葛誕討伐、匈奴劉猛鎮圧、呉征伐の華麗なる軍功

若き日の胡奮と司馬懿の遼東遠征随行

胡奮は魏の車騎将軍・胡遵の子として生まれ、明るくおおらか、頭も切れるうえに武芸好きという、絵に描いたような好青年だった。その素質はすぐに見抜かれ、司馬懿が遼東で公孫淵を討伐する際、まだ官位もない白衣のまま側近として抜擢される。

白衣ながら司馬懿の側近として待遇も厚く、遠征が終わって都へ戻ればそのまま校尉に任命され、昇進を重ねてついには徐州刺史、陽夏子に封じられ、異例の昇進となった。

コネではなく、胡奮は自ら選ばれたタイプの男だった。

狄道救援戦

正元二年(255年)、蜀の姜維が夏侯覇、張翼らとともに数万の軍を率い、狄道に進軍してきた。魏は鎮西将軍の陳泰が全体の指揮を執り、雍州刺史の王経には現地で布陣させ、自らは陳倉へ向かって後詰めを担う手筈だった。

だが王経は策を待たずに突撃し、故関で蜀軍に敗北する。残兵一万余を率いて狄道城に逃げ込み、城内はたちまち籠城戦の様相を呈した。ここで姜維側でも冷静な声が上がる。張翼が「これ以上は無理が出る。今ここで止めるのが得策だ」と進言していたのである。だが、その言葉は流され、蜀軍は包囲を継続する。

魏は急ぎ救援軍を編成し、胡奮もこの一軍に加えられた。征西将軍の陳泰、行安西将軍の鄧艾、将軍・王秘らとともに夜を徹して進軍し、奇襲を仕掛けた。突然の出現に驚いた姜維軍は混乱の中で応戦するも、ついに持ちこたえられず撤退した。

こうして王経の命は助かり、狄道も救われた。胡奮の個別の功績こそ詳らかではないが、勝者の側にいたことは確かである。振り返れば、この戦は王経の進軍が「負けフラグ」となり、張翼の諫言を無視した姜維に「退却フラグ」が立った構図であった。

寿春反乱鎮圧で諸葛誕を斬る

甘露二年(257年)、征東大将軍・諸葛誕が突如として寿春で蜂起した。理由は政治的不満と、もはや自身もいつ粛清対象になるかという危機感だった。司馬昭は即座に大軍を発し、寿春をぐるりと包囲した。

この包囲戦は長期にわたり、翌年の甘露三年には、城内の米が尽き、ネズミさえ高値で取引されるほどだった。城を出て降る者が万単位に及び、もはや諸葛誕・唐咨の知略も尽きていた。

ついに司馬昭が包囲線に立ち、合図を送ると四方の軍が一斉に鬨の声を上げて攻め登った。城は総崩れとなり、諸葛誕は最後の賭けに出た。愛馬にまたがり、小門から突破を試みるが、その先に胡奮の部隊がいた。逃走を阻まれた諸葛誕は、胡奮の部隊によって斬られ討ち取られた。

叛将の首が挙がったことで、長期にわたった寿春の戦はここに終止符が打たれた。大将を斬った功績は絶大であり、胡奮の名はこの一戦で決定的なものとなった。

匈奴劉猛の討伐

匈奴中部の豪帥・劉猛が反乱を起こすと、魏は討伐軍を組織し、驍騎将軍の路蕃を派遣した。胡奮はその監軍に任じられ、節も預かっていた。表向きは補佐役だが、実際には軍全体の背骨である。

硜北に着陣した胡奮は、兵を整え、後詰めの形で万全の体制を築いた。やがて戦端が開かれると、胡奮はただ後方にとどまらず、劉猛軍に大打撃を加える。最終的には、配下の将李恪が主を斬って降伏したことで、反乱はあえなく潰えた。

戦局を陰から支え、最後は一刀両断で仕上げる。これぞ、胡奮という男の仕事ぶりである。

荊州都督・護軍としての実績

咸寧三年(277年)の秋、胡奮はこれまでの軍功を評価され、征南将軍に昇進し節も預かり、都督荊州諸軍事を任される。加えて散騎常侍、そして護軍への転任と、肩書は着々と増えていった。武名の上に、朝廷での地歩まで固めていたことになる。

生まれは名門、育ちは武門である胡奮はその晩年、意外にも書物と筆に親しみ、文才を見せるようになった。だが本領はあくまで実務にあり、赴任先では着実な統治を行い、特に辺境では威と徳を備えた支配を見せたという。

武で起こし、文で締める。胡奮という人物、終わり方まできっちりしていた。

娘の後宮入り

泰始九年(273年)、晋武帝・司馬炎は政務を怠り、公卿の娘を多数後宮に入れるようになった。その中に胡奮の娘・胡芳も含まれており、貴人に選ばれて宮中に入ることとなった。

胡奮にはかつて一人の息子がいたが、南陽王・司馬模の王友を務めていたものの早世していた。娘が後宮に入ったという報を聞いた胡奮は、深いため息をついて嘆いた。老いた自分だけが生き残り、息子は土に還り、娘は天上に昇る。そうこぼしながら涙を流した。

とはいえ、胡芳の入宮は胡奮の地位にも影響を与えた。元より旧臣としての地盤があったが、後宮とのつながりによって宮中での信任はさらに強まり、尚書右僕射となり、鎮軍大将軍の号を加えられた。さらに開府儀同三司に昇り、陽夏県侯にも封ぜられた。

これらの昇進は、彼が政務と軍務の双方で信頼された結果でもあったが、時の権力における「縁」の力も、また否応なくその背景にあった。

呉征伐戦の胡奮

太康元年(280年)、晋は呉征伐の大軍を興した。平南将軍・胡奮は江安を攻略し、さらに夏口へ進軍して呉の守備線を突き崩した。
杜預は江陵を、王戎は武昌をそれぞれ制圧し、王濬唐彬の水軍は長江を下って各地を破ったが、胡奮はその背後を固め、長江中流の要衝・夏口をしっかりと押さえた。

荊州の南境は胡奮によって完全に安定し、王濬が西陵・荊門・夷道を陥とす頃には、胡奮も夏口の守備を確保したまま、王戎らと連携しつつ秣陵への進軍路を押さえていた。
前へ出ては制圧し、後ろでは揺るがせず、速さと堅さを兼ね備えた胡奮の戦は、呉の援軍を寄せつけず、晋の進軍を滑らかにする潤滑油のような働きを見せた。

楊駿への諫言と胡奮の最期

楊駿は皇后の父というだけで天上人のような顔をしていたが、胡奮はそんな空威張りを見逃さなかった。「卿は娘の後ろ盾を頼みにして、得意げに振る舞っているが、思い出すがいい。これまで天子の家と縁を結んで無事だった者などいない。早いか遅いか、それだけの違いだ。今のお前の態度は、むしろ終わりを早めている」とズバリ言い放った。

楊駿が「お前の娘だって後宮にいるじゃないか」と言い返すと、胡奮は鼻で笑ってこう返した。 「あんなものはお前の娘に仕える小間使いにすぎん。どうして一家を傾けるほどの力があるものか」 周囲は肝を冷やしたが、楊駿は恨みを抱きながらも手出しできなかった。

太康九年(288年)、胡奮はそのまま官職にありながら世を去った。死後、車騎将軍の位を贈られ、諡は壯とされた。筋を通す男の、当然の送り名だった。

胡奮の家は兄弟六人で。兄の胡廣は散騎常侍・少府にまで昇り、その子の胡喜もまた才略をもって名を挙げ、涼州刺史・護羌校尉まで進んだ。弟の胡烈も秦州を治めて名を残した。

参考文献

胡奮のFAQ

胡奮の字(あざな)は?

胡奮の字は玄威(げんい)です。

胡奮はどんな人物?

胡奮は武事を好み、若い頃から行動力があり、晩年には学問にも熱心で、統治地では威惠を示した人物です。

胡奮の最後はどうなった?

太康九年(288年)に死去し、車騎将軍を追贈され、諡は壯とされました。

胡奮は誰に仕えた?

魏から晋にかけて司馬昭、司馬炎といった司馬政権に仕えました。

胡奮にまつわるエピソードは?

娘の胡芳が貴人に選ばれた際、一子を失っていた胡奮が深い嘆きを示したこと、また楊駿に対して外戚の驕りを戒めた発言が特に知られています。

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