1分でわかる忙しい人のための霍弋の紹介
霍弋(かくよく)、字は紹先(しょうせん)、出身は荊州南郡枝江、生没年(?~271年)
霍弋は蜀後期から魏、そして晋へと仕えた南中統治の中心人物である。
若くして劉禅の側近として宮廷に出仕し、諸葛亮から信任され記室を任された。
諸葛亮の死後も宮中で重用され、太子劉璿の教育役として節度を説き、礼を以て諫言した。
南中方面では永昌郡の平定に成功し、建寧太守・監軍として南方統治を主導した。
蜀が滅亡した景耀六年(263年)には強い忠節を見せ、成都陥落を聞くと三日間喪服で号泣している。
魏への降伏後は司馬昭から重用され、晋の時代には南中都督・交州刺史として呂興の乱後の交趾・日南・九真三郡を再統合し、列侯に封じられた。
南方経略における軍政両面の実務を一手に引き受けた実力者であり、後世にはその子孫が晋で地方官を務めるなど、一族の地位は継承された。
霍弋の生涯を徹底解説!蜀から魏・晋へ南中と交州をめぐる軍政の全貌
若年期と蜀宮廷での仕官
霍弋は霍峻の子で、章武三年(223年)に太子・劉禅の舎人に取り立てられた。
同年の建興元年(223年)に劉禅が即位すると、今度は謁者に昇進。宮廷内の庶務を任される役職である。
建興六年(228年)、丞相・諸葛亮が漢中に駐屯すると、霍弋は記室に抜擢される。公文書の作成や管理を行う文官職である。さらに、諸葛亮の養子・諸葛喬と行動を共にさせられ、次代の中枢を担う者同士、交流を深めるよう命じられた。
建興十二年(234年)、諸葛亮が死去すると、霍弋は黄門侍郎に任命され、引き続き宮中の実務に従事した。
派手な策も、勇ましい戦もないが、ただ粛々と職務を全うする。
延熙元年(238年)、劉禅が劉璿を太子に立てると、霍弋は太子中庶子に任じられた。
この劉璿、乗馬と弓に夢中で、宮廷の規律を守らず、狩猟や遊びに夢中で、勝手に外出していた。そんな相手に対し、霍弋は古典に拠って丁寧に諫め、難儀な役回りを、彼は冷静にこなした。
永昌の平定と南中統括
霍弋は参軍として登用され、のちに庲降屯の副貳都督に任命された。その後は護軍へと転じ、軍務を引き続き統率することになる。
ちょうどその頃、永昌郡が荒れていた。地理的には雲南南部、辺境も辺境である。
ここには夷獠と呼ばれる少数民族が暮らしており、険しい山岳地形を頼みに蜀の統治に反発していた。いざとなれば山へ逃げ、また下っては略奪する。
この事態に対応すべく、霍弋は永昌太守に任じられ、軍を率いて討伐に向かう。
霍弋は豪帥を斬り、従わぬ集落を焼き制圧した。永昌郡は一応の安定を見せ、蜀の南西辺境はようやく静まった。
以後、霍弋は監軍・翊軍将軍に昇進し、さらに建寧太守を兼ね、南中一帯の行政・軍事を任される。
蜀滅亡の決断
景耀六年(263年)、霍弋は安南将軍に進号された。南方の番人としては最高位である。
その年、魏が大軍を率いて蜀に攻め込んできたという報が届く。霍弋は成都へ向かおうとしたが、劉禅からの返事は「もう準備してあるから来なくてよい」であった。
姜維が剣閣で魏の鍾会軍を止める中、鄧艾が迂回し成都に到着する。ここで劉禅は降伏し蜀は滅亡する。
霍弋は遠くから何もできぬまま、喪服をまとって西を向き、三日三晩、涙を流し続けたという。
一部の将校が「もう降伏しよう」と言い出すと、霍弋は「主上(劉禅)の安否も不明な中で、どうして勝手に頭を下げられるか、もし主上に何かあれば、自分は潔く死ぬ」と拒んだ。
その後、劉禅が無事に魏へ送られたとの報が入る。
霍弋は、南中六郡の将守を率いて正式に上表し、「国が滅び主が魏に降った以上、二心を抱くことなく身を委ねる」と述べ、降伏を表明した。
蜀滅亡後の南中統治
蜀が滅亡したあとも、霍弋は即座に職を失うことはなかった。むしろ魏の司馬昭は、彼を南中都督に任じ、そのまま現地の統治を任せ続けた。
さらに、彼は交州刺史を兼任し、霍弋はここで官吏の任命権まで与えられ、軍事と行政の両方で独自に指揮を執ることを許された。
また、巴東太守であった羅憲とは協力関係を結び、巴地の守備をともに担う。蜀という国は滅んでも、その片隅では旧臣たちが魏の看板を掲げたまま、元の持ち場を守っていた。
体制が変わっても、仕事は変わらない。結局のところ、時代がどうあれ、地方の仕事は中央の気まぐれより、現地の現実によって回っていた。
交州三郡の平定
景元四年(263年)、交州の混乱は燻り続けていた。もともとは呉の支配下であったが、郡吏の呂興らが蜂起し、孫諝と鄧荀を殺害する。 自立して魏に使者を送り、支配下に入る意思を示した。 表面上は魏に帰したとはいえ、現地の支配体制は脆弱そのもので、霍弋を救援のため兵を派遣した。ところが、救援が届く前に呂興は部下の功曹に殺され、統治は一気に瓦解する。
辺境ではありがちな話で、自身の裏切りが戻ってきたわけだ。
霍弋はこの混乱を収めるため、建寧出身の爨谷を交趾太守として推挙した。だが、この爨谷も任地であっけなく死去し、続いて派遣された馬融も病に倒れ、二代続けて太守が死亡するという不吉なリレーが続く。
さすがにこれでは治まるものも治まらない。交州は相変わらず、疫病と反乱と死の3コンボである。
もはや場当たり的な人選ではどうにもならず、霍弋は犍為出身の楊稷を指揮官として送り出す。さらに将軍の毛炅、九真太守の董元、牙門の孟幹・孟通・李松・王業・爨能ら従軍させた。
彼らは蜀から交阯へ進軍し、古城で呉軍と激突する。これはもはや地方の小競り合いではない。敗れれば南中が呉に呑み込まれかねない。
激戦の末、蜀軍は呉の大都督・脩則と交州刺史・劉俊を討ち取り、交阯は魏の支配下に転がり込んだ。
その勢いのまま軍は交趾、日南、九真へ転戦し、いずれも制圧した。
霍弋は兵を出しただけで戦場にはいなかったが、最終的な政治責任を担う立場として、その功績を高く評価された。結果、列侯に封じられ、さらに賞典を加えられた。
辺境の混乱に頭を抱えつつも、手際よく処理して、霍弋は南方の地を静めていったのである。
南中都督の死と百日の誓い
泰始七年(271年)、呉は巻き返しを図り、薛珝と陶璜を派遣して交州を奪回に動いた。
霍弋は生前、こう断言していた。 「もし敵に囲まれ、百日未満で降伏したら、家族を処刑する。 百日を超えても救援が来なければ、その責は私が負う」 ところが、陶璜に包囲された楊稷たちは、百日も待てずに食料が尽き、「もう無理です、降伏したいです」と懇願してきた。 陶璜はこれを突っぱね、食糧だけ与えて再び城を守らせた。 当然、周囲の将たちは驚いて止めに入るが、陶璜は平然とこう言った。 「霍弋はもうこの世におらん。期日まで待って降伏を受け入れれば、彼らは罪を逃れ、こちらは道理を得る。百姓には徳を示し、周辺国にも顔が立つ。それでいいじゃないか」 こうして楊稷らは百日後に降伏し、南方は呉に帰した。
霍弋の死後もその家系は断たれず、孫の霍彪は晋に仕えて越巂太守に任じられた。
国家は滅び、人は死んでも血筋は生き延び、霍氏は、辺境という忘れられがちな舞台で存在感を残し続けたのである。
参考文献
- 三國志 : 蜀書十一 : 霍峻傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 志第五 地理下 – 中國哲學書電子化計劃
- 晉書 : 列傳第二十七 羅憲 滕脩 馬隆 胡奮 陶璜 吾彥 張光 趙誘 – 中國哲學書電子化計劃
- 華陽國志/卷七 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷074 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/卷079 – 维基文库,自由的图书馆
- 参考URL:霍弋 – Wikipedia
霍弋のFAQ
霍弋の字(あざな)は?
霍弋の字は紹先(しょうせん)です。
霍弋はどんな人物?
霍弋は南中統治をおこなった将軍で、忠節と礼を重んじる姿勢が記録されています。
霍弋の最後はどうなった?
明確な没年は不詳ですが、271年以前に亡くなっています。
霍弋は誰に仕えた?
蜀の劉禅に仕え、その後魏・晋に帰属し南中都督として軍政を担いました。
霍弋にまつわるエピソードは?
成都失陥の際に喪服で三日間号泣したことが知られています。






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