郭循(郭脩)を解説!費禕を討った魏の烈士か、理を失った狂士か
費禕を刺した魏の降将・郭循
郭循(かくじゅん)/郭脩(かくしゅう)は字を孝先(こうせん)といい、西平の出身である。生没年(?~253年)
魏書では郭脩、蜀書費禕伝・後主伝では郭循と記載される。
延熙十六年(253年)正月、蜀の大将軍費禕は漢寿で新年の宴を催した。郭循は降将としてその場に列し、蜀の群臣とともに席に着いた。宴が進むにつれて酒がまわり、宰相でありながら警戒心ゼロで警護の緊張もゆるんだ。
その時、郭循は懐から短刀を取り出し費禕を刺した。費禕は深い傷を負い、数日後に没した。
郭循は捕らえられ、その場で処刑されたとも伝わる。
魏の朝廷はこの行為を「忠義の至り」として称賛した。
『斉王紀』に記された詔では、「郭循は節義を守り心を曲げぬ者で、勇は聶政を越え、功は介子推を超える、まさに『身を殺して仁を成し、生を捨てて義を取る』」と高く讃えた。
郭循を長楽郷侯に追封、諡を威侯と定めた。またその子には爵位を継がせて奉車都尉を授け、銀千鉼・絹千匹を賜った。魏はこの事件を忠臣の美談として伝え、郭循の名を烈士の列に加えた。
『魏氏春秋』によると若くして節義を重んじ、西州では名の知れた人物であった。
魏に仕えて中郎を務めたが、延熙年間に蜀の姜維が西平を攻めたとき捕らえられ蜀へ送られた。劉禅はその人柄を惜しみ、左将軍に任じたものの、郭循の心は魏にあり、蜀に降りながらも屈服しなかった。
幾度も劉禅に近づいて暗殺を試みたが、近臣の警戒によって果たせなかった。 その失敗の末に費禕を狙ったと伝えている。
裴松之の批評、忠義か狂気か?
裴松之はこの行為は忠義ではないとツッコミを入れている。
「魏と蜀が敵国だとはいえ、互いに父の仇を討つような生々しい血の因縁があったわけでもない。
趙襄子と智氏の確執もなければ、荊軻が命懸けで秦王を狙ったような『国家存亡を賭けた刺客劇』でもない。ただ、なんとなく戦って、なんとなく捕虜になって、なんとなく宴で刺された。
そんな曖昧模糊な背景の中で「忠義」と叫ばれても、はいそうですかとはいかない。」と断じている。
「しかも、郭循は魏で大恩を受けたわけでもなく、蜀でとんでもない屈辱を味わったわけでもない。左将軍として迎えられていたのだから、むしろ厚遇されていた部類に入る。それを裏切り、宴の中で暗殺を決行する。これのどこに義があるのか」と裴松之は疑問を呈し、結論として「これはただの狂気だ」と締めくくっている。
参考文献
- 三國志 : 魏書四 : 齊王紀 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 蜀書十四 : 費禕傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 蜀書三 : 後主傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:郭脩 – Wikipedia
郭循(かくじゅん/郭脩)のFAQ
郭循の字(あざな)は?
字は孝先(こうせん)です。
郭循はどんな人物?
魏の中郎で、節義を重んじた人物です。捕虜となっても忠義を忘れず、最後まで志を曲げませんでした。
郭循の最後はどうなった?
延熙十六年(253年)正月、蜀の大将軍費禕を刺殺したのち、その場で討たれたと伝えられています。
郭循は誰に仕えた?
魏の中郎として仕えましたが、姜維の侵攻で蜀に捕らえられ、降将として左将軍に任じられています。
郭循にまつわるエピソードは?
蜀の漢寿で行われた宴の席で、費禕を短刀で刺殺しました。




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