1分でわかる忙しい人のための夏侯玄の紹介
夏侯玄(かこう・げん)、字は泰初(たいしょ)、出身は沛国譙郡、生没年(209~254年)
夏侯玄は、魏に仕えた名門出身の政治家であり、同時に魏晋玄学の初期を代表する思想家・文学者である。
父は重臣の夏侯尚で、母は徳陽郷主として曹真の妹にあたったため、曹爽とは従兄弟の関係にあった。
若くして名声を得て中央官界に登ったが、宮廷での振る舞いから左遷を受けるなど、順風満帆とは言えない官歴を歩んだ。
理想を突き詰めた政治改革論を展開し、司馬懿と書簡を交わすなど、思想家としても際立った存在であった。
正始五年(244年)の蜀討伐では曹爽とともに出陣するが、補給崩壊による敗戦で嘲笑を浴びる結果となる。
高平陵の変後は要職から外され、不満を抱く立場となり、やがて李豊らによる政変計画に連座した。
嘉平六年(254年)、司馬師暗殺計画が発覚すると、弁明を拒み、終始平然とした態度を貫いたまま東市で処刑された。
その最期まで動じない姿は、後世に名士としての強烈な印象を残している。
夏侯玄の生涯を徹底解説!魏政権下での改革思想を掲げたが、司馬師暗殺の政争に巻き込まれた最期
名門に生まれた夏侯玄の家系と人脈
夏侯玄の字は太初であり、史料によっては泰初とも記されている。表記が揺れるあたりから、すでに後世の学者泣かせだが、本人の評価が揺らいでいたわけではない。父は魏の重臣・夏侯尚で、その死後父の爵位を継承した。
母は徳陽郷主で、曹真の妹という出自を持つ。結果として、のちに魏政権の実権を握る曹爽とは従兄弟の関係となった。政治的立場や思想以前に、まず血縁が先に席を取る。そうした空気の中で、夏侯玄は魏の宗室および中枢権力と極めて近い場所に立たされていた。近すぎるというのは、ときに逃げ場がないという意味でもある。
夏侯玄の妻は李恵姑であり、のちに道教において女真仙として尊ばれた人物として記録されている。現実政治の最前線に立つ一方で、家の中では仙人の伝説が育っていく。この落差もまた、名門一族に生きる者の宿命だったのかもしれない。
若年期の名声と宮廷での失態
夏侯玄は若いころから将来を嘱望された存在だった。二十歳前後の弱冠で散騎黄門侍郎に任じられるというのは、さすが名門中の名門。家の格が格なら、周囲の期待もまた桁違いだった。本人にとっても、人生とは「始まる前から勝っているゲーム」くらいに思えたかもしれない。
だが、その余裕が仇となる。明帝・曹叡の時に宮中での進見の席で、夏侯玄は皇后毛氏の弟・毛曾と並ばされる。問題はこの毛曾、地位こそ外戚だが、血筋の格としてはやや物足りない。
夏侯玄はこの扱いを恥じ、堂々と顔に出してしまった。エリートの自尊心がむき出しになった瞬間だった。
当然、それを見ていた曹叡は不快感を覚える。「育ちが良すぎるのも考えものだ」と思ったかどうかは知らないが、夏侯玄は羽林監へ左遷される。
夏侯玄の出世街道は、まさにこの一件によって大きくつまずいた。期待は高かった分、落差もまた深かったのである。
曹爽政権下での昇進と人材登用
景初三年(239年)、魏の明帝が崩じると、実権は大将軍・曹爽の手に渡った。
そして当然のように、彼の従兄弟である夏侯玄も中央政界に呼び戻される。
まずは散騎常侍として復帰し、間もなく中護軍へと昇進。きれいに敷かれたレールをスムーズに辿った。
中護軍となった夏侯玄は、武官の選抜を担当した。
『世語』によれば、彼の選んだ人材はみな俊傑であり、戟を手にする牙門の兵に至るまで、後に州や郡の長官へと昇進していったという、理想的な人事と記録には残っている。
彼はその職において法を定め、教育を施し、未来の魏をつくる礎を整えた。
その制度は後世にも模範とされたというから、文句のつけようもない。
司馬懿との政治論争と改革思想:少し皮肉な書き直し
太傅・司馬懿が時勢について意見を求めたとき、夏侯玄はただちに応じた。 まず彼は人材登用制度について論じ、「徳と官職は切り離すべきであり、人物評価は中央集権的に行うべきだ」と説いた。九品中正制に対する、明快な異議申し立てである。
さらに統治制度の根本にまで踏み込む。「郡守を廃して刺史に一本化せよ。監督関係が重なり合う複雑な官僚機構は、行政の効率を殺し、民の声を遠ざける。」という主張だった。これは制度の簡素化と、中央-地方の再設計を求める意見でもあった。
加えて、社会風潮にも苦言を呈する。「今の世は奢侈に溺れている。だから服装も暮らしも簡素にし、上が率先して模範を示せ」と、理念の旗は、天高く翻っていた。
だが司馬懿は、経験者らしい書をもって返答した。
「言うことはもっともだが、現実の制度は理想だけでは動かぬ。人と時を得てこそ実行されるのだ」
一見穏やかながら、実は「そんな理想は現場じゃ通じない」というマウントである。
夏侯玄は諦めずさらに書を送り、「変革は行動と制度によって初めて実を結ぶ。好機を待つなど、現状維持の口実にすぎぬ」と訴えた。理想論者の突撃は止まらない。
誰が正しかったのかはさておき、この論争は、理想家と現実主義者の差を見せつける一幕だった。問題は、理想家が大抵の場合、体制の中では煙たがられるということだ。
征西将軍就任と関中都督時代
やがて夏侯玄は征西将軍に任じられ、節を仮授された。
この人事により、彼は雍州・涼州の軍事を統括する都督となり、関中方面の防衛を担う要職に就く。魏の西方を背負う、まさに軍政上の重責である。
『魏略』によれば、夏侯玄がその任に移ったのち、代わって司馬師が護軍となった。
護軍とは、諸将を統率し、武官の人事を掌握する要のポストである。しかし、この職は長らく腐敗の温床だった。
誰が任についても、人事に賄賂が絡む構造を断ち切ることができずにいた。
とりわけ蔣済の時代には、童謡にまでその腐敗ぶりが歌われたという。
「牙門を求めるなら千匹、百人督なら五百匹」それは金額表ではなく賄賂の相場である。
夏侯玄もまた蔣済の後を継いだが、この風潮に抗うことはできなかった。
その後、司馬師が護軍に就いたとき、ようやく制度は整備され、賄賂も消えたと記録されている。
かつて公正な人事制度を声高に主張していた夏侯玄にとって、この事実は皮肉でもあった。
理想を掲げる者が、制度を浄化できず、実務家によって問題が解決された。夢と現実の距離が、ここにはっきりと露わになっていた。
興勢の戦いでの敗退
正始五年(244年)、曹爽が蜀征伐の軍を発した際、夏侯玄も従軍した。
進軍路として選ばれたのは駱谷で、険しい山道と補給の難しさで知られるこの地を通って、蜀に挑む形となった。この戦いは、後に「興勢の戦い」と呼ばれるようになる。
しかし、蜀軍の防衛は予想以上に手強く、魏軍は当初の目論見通りには進まなかった。
駱谷の長大な補給路はすぐにその脆さを露呈し、兵糧輸送に用いた家畜が次々と力尽きて倒れた。
補給が崩れれば、軍は動けなくなる。その当然の理を、魏軍は身をもって学ぶことになる。
大将軍・費禕が到着したことと、戦況の悪化を受け、夏侯玄は撤退を進言し、曹爽はそれを容れた。
だが、退却中に蜀軍の追撃を受け、魏軍は多くの死傷者を出した。
関中軍事を預かる立場にありながら、兵站の崩壊と撤退戦の混乱を許したこの敗戦は、世人の嘲笑を招き、夏侯玄にとって大きな汚点となった。
高平陵の変後の左遷と不満
正始十年(249年)、司馬懿が高平陵の変を起こし、曹爽とその一族が粛清された。
夏侯霸が蜀へ亡命しようとしたとき、夏侯玄を呼び共に行こうとした。 しかし「どうして私が、ただ生き延びるために敵国に身を寄せるようなことをしようか。」 と断っている。 夏侯玄はこの激動の中で命をつなぎ、直後には大鴻臚に任じられた。
その数年後には太常へと異動するが、どちらも中枢からはやや距離のある職であった。
形式上は礼遇されているようにも見えるが、実質的には要職からの排除だった。
かつて中央で人材登用や制度改革に奔走した夏侯玄にとって、これは明らかな後退を意味していた。
名望と才覚に恵まれながらも、政権の中枢には二度と戻れなかった。
その失意は、後の彼の行動に深い影を落とすこととなる。理想を抱いて登った階段が、気づけば行き止まりだったというわけである。
李豊らによる政変計画への関与
嘉平六年(254年)、中書令の李豊は、光禄大夫・張緝らとともに、司馬師を排除する政変を企てた。
その舞台として選ばれたのは、皇帝が貴人に礼を授けるという公式儀礼の日である。
この日、諸営の兵が一斉に宮門に集結する手筈となっており、政変には申し分ない舞台装置が揃っていた。
李豊らは、この儀式の混乱を利用して兵と群臣を動かし、司馬師を誅殺する計画を立てた。
その後の青写真まで用意されていた。
政変が成功した暁には、夏侯玄を大将軍に据え、新たな政権の中心に据えるという構想が描かれていた。
計画は夏侯玄にも密かに伝えられていた。
自ら首謀したわけでもなく、剣を振るう立場でもなかったが、知らされながらも沈黙を選んだ。
告発もせず、手を引くこともなく、ただ知っていた。
そのため、政変が露見したとき、夏侯玄は李豊らとともに処分の対象となった。
権力の頂きに近づこうとする者には、ただ知っていたというだけでも、代償が求められるのである。
陰謀発覚と廷尉での取り調べ
嘉平六年(254年)、静かに進められていた政変の動きは、ついに司馬師に察知される。
その反応は迅速だった。中書令・李豊を「話がある」と呼び出した。
李豊は、呼び出しの理由を知らないまま出向いた。だが、宮中に入ったその場で追及され、逃れる間もなく、その命を絶たれる。
李豊の死とともに、共謀者とされた者たちが一斉に捕らえられた。
張緝、蘇鑠、楽敦、劉賢、そして夏侯玄。
政変の首謀者ではなかった彼も、廷尉に送られて取り調べを受けることになる。
廷尉・鍾毓が自ら取り調べに臨んだが、夏侯玄は、口を開くことすら拒んだ。
「私に何を言わせるというのか。卿が私を責める立場なら、私の辞も卿が書けばよい」と述べ、終始抗弁しなかった。
鍾毓は、その節操を知っていた。
強引に語らせることはできないと悟り、自ら筆を執る。夜になって書いた辞は、飾り気のない事実だけを記したもので、涙をこぼしながら夏侯玄に差し出された。
夏侯玄はそれを静かに読み、ただうなずいた。
抗弁の機会を投げ捨て、誇りとともに沈黙に身を預ける。
語らないことが最後の意思表示だった。
その一瞬だけ、名士という肩書が、皮肉にも本物の重みを持っていた。
処刑までの態度
獄中の夏侯玄に近づいたのは、鍾毓の弟・鍾会だった。
親しげに言葉をかけ、縁を結ぼうとするその態度に、夏侯玄は一切応じなかった。
その後、司馬師の下で公卿や朝臣たちが廷尉に集まり、評議が行われる。
結果として、すでに処刑されていた李豊を含め、夏侯玄、張緝、蘇鑠、楽敦、劉賢らは、君主を迫脅して政権を覆そうとした大逆の罪に問われた。
判決は三族誅殺で、反論の余地は与えられなかった。
夏侯玄は東市に引かれ、処刑された。
享年四十六、その場に臨んでも顔色は変わらず、挙動にも乱れはなかったという。
文学的才能と魏晋玄学での位置付け
夏侯玄はその容姿の端正さでも名を馳せ、嵇康や潘岳と並び、魏晋時代を代表する美男子と称された。
外見だけでなく、文学的才能にも優れており、自身の著した『楽毅論』は後に王羲之が書写したことで広く世に伝わった。
また当時の俊才たちとともに「四聡」に名を連ね、さらに諸葛誕らとの「八達」、劉熙らとの「三豫」も含め、十五人の名が並び称された。
だが、あまりに派手だったせいか、明帝に目をつけられ、みんなまとめて表舞台から追い払われた。
思想の面では、何晏や王弼とともに「士派」に属し、魏晋玄学の初期を代表する思想家として位置づけられている。
薬散の服用とともに、彼らの名は時代の象徴として語られるようになった。
夏侯玄には『夏侯玄集』という著作もあったとされるが、今では散逸し、その中身を知る術はない。
逸話に見る精神性と名士像
『裴子語林』によれば、夏侯玄はかつて廃帝・曹芳に随行して帝陵を参拝した際、松柏の下に立っていた。
そのとき激しい雷雨が発生し、雷が落ちて木が燃え、夏侯玄の冠までも焦げた。
周囲の者が地に伏して恐れる中、彼だけは顔色を変えず立ち続けていたという。
また、処刑の是非に揺れていた司馬師が叔父・司馬孚に意見を求めた際、こんな話が出た。
趙儼の葬礼で、司馬師が弔問に訪れたとき、故人は半身だけ起こして迎えた。
だが夏侯玄が訪れると、全身を起こして迎えたという。
この違いを見れば、夏侯玄の影響力は無視できず、いずれ手に余る存在になると忠告したのである。
さらに『魏略』では、夏侯玄が捕らえられた際、司馬昭が涙を流して助命を願ったが、司馬師はこれを退けたと伝えられる。
「趙司空の葬礼でのことを忘れたのか」という言葉が、それに対する答えだった。
かつて、趙儼の葬儀で夏侯玄が遅れて到着した際、百余名の賓客が席を越えて立ち上がり、彼を迎えた。
その光景は、名士としての絶頂を象徴するものだったが、同時に司馬師の負の記憶に深く刻まれることにもなった。
史書における評価と賛否両論
『世語』には、彼の定めた法と教えは、時を経ても模範とされ、制度面での功績も一定の評価を受けていた。「朗々として、日月が胸中に入るようだ」
光のように明るく、透徹した才を称えた比喩だが、同じ時代に「玉山が崩れる」と評された李安国(李豊)とは、まるで対照的に語られていた。
何晏は「夏侯泰初(夏侯玄)は深く通じており、天下の志を知る者だ」と高く評価し、その学識と洞察力を讃えた。
一方で、荀粲は、夏侯泰初は一時の傑物であり、謙虚な心で人と交わる。合えば良き友となり、合わなければ怨みに至る人物であると評した。 さらに二人の賢者が距離を置くのは国のためにならない。藺相如が廉頗に身を低くした話を思い出すべきだと語っている。
これに対し、傅嘏は厳しい批判を加えた。
傅嘏は、夏侯玄は志は大きいが実才が伴わないとし、何晏は言葉は遠大だが誠がなく、鄧玄茂は志はあるが成し遂げられないと述べた。
そして、この三人はいずれも徳を損ねており、近づくこと自体が災いであると断じている。
評価は多く、まさに賛否両論。
称賛も批判も過剰になるのが、名士という存在の宿命なのかもしれない。
参考文献
- 三國志 : 魏書九 : 夏侯尚傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書四 : 齊王紀 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 魏書二十一 : 傅嘏傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 世說新語 : 容止 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/卷076 – 维基文库,自由的图书馆
- 裴子語林 : 裴子語林 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:夏侯玄 – Wikipedia
夏侯玄のFAQ
夏侯玄の字(あざな)は?
字は太初(たいしょ)、もしくは泰初(たいしょ)です。
夏侯玄はどんな人物?
名門出身で理想を重んじる政治思想家であり、妥協を嫌う名士でした。
夏侯玄の最後はどうなった?
嘉平六年(254年)、司馬師暗殺計画への連座により東市で処刑されました。
夏侯玄は誰に仕えた?
魏の明帝、曹爽政権下、そして司馬氏政権初期に仕えました。
夏侯玄にまつわるエピソードは?
雷雨の中でも動じなかった逸話や、獄中で鍾会の接近を拒んだ話が知られています。




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