【1分でわかる】夏侯楙:武より帳簿に強かった魏の将軍、その波乱と評価【徹底解説】

一般武官

1分でわかる忙しい人のための夏侯楙の紹介

夏侯楙(かこうぼう)、字は子林(しりん)、出身は不明、生没年(?~?)
夏侯惇の子として生まれ、若くして列侯に封ぜられる。曹操の娘・清河公主を妻とし、曹丕と深い交情を築いた。曹丕即位後は安西将軍・持節として長安を守備し、夏侯淵の後を継ぎ関中都督となった。太和二年(228年)、諸葛亮の北伐時には魏延に「怯而無謀」と評され、街亭の戦い後に召還され尚書となる。以後、鎮東将軍を歴任しつつも、武略よりも経済や家政に長けた人物として知られた。妻や弟との不和による讒言事件では死刑寸前まで追い込まれたが、段默の諫言で命を救われた。

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夏侯楙を徹底解説!武より帳簿が似合う将軍の真実

夏侯楙の出自と若き日

夏侯楙は夏侯惇の息子で、父がまだ元気に戦場を駆けていたころ、すでに列侯に封ぜられていたあたり、生まれながらに政治的チートモード。
しかも妻は曹操の娘・清河公主。義父は魏のトップ、義兄は未来の皇帝、義理尽くしの人生である。
さらに曹丕とは「親友」という言葉が生ぬるいレベルの仲。現代で言えば、就活前にすでに大企業の社長とバーで差し飲みしている大学生みたいなもので、キャリアレールは最初から特注品だった。

長安防衛と諸葛亮の北伐

曹丕が即位すると、夏侯楙は安西将軍・持節に任命され、関中都督として長安の守備を担当する。
諸葛亮が北伐を始めると、蜀の魏延から「怯えていて策もない」と、武将としては致命的なダメ出しをされる。
現代で言えば「会議では黙ってるくせに休憩室では愚痴だけ言う上司」みたいな評価だ。


魏延は子午谷から奇襲を提案したが、諸葛亮には却下される。
結果、曹真を総大将として蜀軍を迎え撃ち、街亭で蜀軍を撃破する。魏明帝もわざわざ西まで出て士気を鼓舞する中、夏侯楙は中央に呼び戻され尚書へ転任。
途中読んでいて気付いたと思うが、彼は何もしていないということである。
前線の空気に合わなかったのか、それとも前線の空気に合わされなかったのかは、歴史だけが知っている。

政務と人物評

その後、鎮東将軍として再び大役を任されるが、武略よりも経済管理の腕を買われてのことだったらしい。辺境に長く駐屯しても兵糧や経費で困った形跡がないのは、彼の「帳簿力」の高さゆえだろう。
ただし、私生活では伎妾を大量に囲ったことで、妻の清河公主の逆鱗に触れる。さらに弟の子臧・子江が礼法を無視して好き勝手やらかし、夏侯楙が叱ると逆恨み。なんと弟たちは清河公主と手を組み、魏明帝に讒言をぶち込んだ。
「夏侯楙、不届き者につき死刑にすべし」となりかけたところで登場したのが長水校尉・段默。「これは夫婦喧嘩を利用した弟たちの陰謀です」と冷静に助言し、さらに「父・夏侯惇の功績を考えれば軽々しく処刑はまずいでしょ」と念押しする。調べてみれば案の定、奏文は弟たちの代筆。危うく“親族コンボ”で命を落とすところだった。

晩年と歴史的評価

史料『魏略』では「性無武略而好治生」とバッサリ。武の才はなくとも、内政や経済で光るタイプだったことがうかがえる。魏延の「怯而無謀」という毒舌評価は確かに痛いが、辺境統治の安定は事実。
結局のところ、夏侯楙は「最前線で槍を振るうタイプ」ではなく、「前線が燃えてても後方で在庫管理をしているタイプ」だったのだろう。派手な武勲はなくとも、組織はこういう人がいないと回らない。もっとも、家族会議はどうあっても荒れていたようだが。

参考文献

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