1分でわかる忙しい人のための華覈(かかく)の紹介
華覈(かかく)、字は永先(えいせん)、出身は呉郡武進、 生没年(219~278年)
三国時代の呉に仕えた史官であり、文学に秀で、忠諫の臣として知られた人物である。
彼は上虞尉や典農都尉を経て中書丞となり、文才をもって名を馳せた。
建興元年(252年)、孫亮の即位にともない、韋昭・薛瑩らとともに《呉書》の編纂を命じられる。以後、彼は数多くの上疏を行い、国家の方針に意見を述べた。
永安六年(263年)、蜀が魏に滅亡した際には防衛強化を進言し、宝鼎二年(267年)には孫皓の新宮造営に反対して民生の疲弊を訴えた。
さらに建衡三年(271年)には孫皓の外出を諫止した忠臣として知られる。
天冊元年(275年)に免職となるが、死の直前まで上疏を続け、民を思う姿勢を崩さなかった。
その文章は華麗でありながら実務的で、陳寿は「忠臣たるべし」と評した。華覈は呉の文化を支えた知識人であり、混乱の時代において理想を貫いた人物である。
華覈を徹底解説!呉書の事業を復活させ、文才で孫皓を諫め続けた呉の史官の生涯
文才で抜擢された官僚の出発点
華覈の出世街道に、剣も槍も登場しない。
彼が手にしていたのは、ただ一本の筆で、最初に任じられたのは上虞尉、地方の治安と行政を預かる職で、地味ではあるが堅実なスタートだった。
その後、典農都尉として農政に携わり、田畑よりも訴状をよく耕し、民の声を拾い上げる姿が評判を呼んだ。
やがて「こいつ、文書が上手いぞ」と目をつけられ、今度は秘府郎に抜擢される。
そこは皇帝直属の書記官ポジションで、朝廷の中枢に手が届く要職だった。
さらに中書丞に昇進すると、ついに国家の極秘文書を扱う立場に。
気づけば、戦場の英雄たちとは別ルートで、確実に「できる官僚」として名を挙げていた。
華覈の武器は鋭い刃ではなく、鋭い指摘と理詰めの文章力。
一騎当千ではないが、一筆当百の男。呉の政治を内側から支える「言葉のプロ」であった。
「呉書」の編纂の再始動
そもそもの発端は、孫権の「そろそろ国の歴史でもまとめとくか」という軽い発言だったらしい。
こうして韋昭(韋曜)・薛瑩・周昭・梁廣・華覈ら、筆の立つ者たちがかき集められ、華々しく『呉書』編纂が始まった。 しかし、その孫権死後から筆は止まりがちであった。
建興元年(252年)、孫亮が即位し、呉の政権は若返った。
史通によると、ここで立ち上がったのが華覈で、 「未完の原稿を残したまま世を去るなど、文臣として最大の不名誉である」
と言ったかどうかは知らないが、彼は旧メンバーのが上奏して呼び戻し、事業を再始動させたとなっている。
※韋昭伝によると、諸葛恪が命じている。
しかし、梁廣は早々に故人となり、孫休時代に周昭が亡くなり、韋昭と薛瑩が継続したが、薛瑩は途中に左遷されている。
最終的に『呉書』は韋昭の手でまとめ上げられ、全五十五巻の大作となったが、未完のまま現存していない。
後に『三國志』の陳寿もこれを参照し、呉の歴史はようやく「記録として残る国」になったわけである。
華覈は主筆でもなければ編集長でもなかった。
だが、「書きかけで投げ出させない係」として、歴史に一ページ刻んだのである。
呉の危機を憂い、諫言する
永安六年(263年)、蜀が魏に滅ぼされた。
次は我が身かと、誰もがそう思いつつも黙っていたが、華覈だけは違った。
報せが届くや否や、彼は宮門に駆けつけ、皇帝・孫休に上表文を出している。
「蜀の滅亡は呉にとっても他人事ではない。私は無力でしたが、陛下にはこの事態を重く見て備えていただきたい。」
真剣なのに、特に具体的な提案はなかった。
それから四年後の宝鼎二年(267年)、孫皓がとんでもないことを思いついた。
「そうだ、『顕明宮』を新しく建て替えよう。キラキラでド派手なやつね」
季節は真夏、民は飢え、倉には米がない。それでも工事は始まった。
水も布も足りないが、玉座だけはピカピカになっていく。
これを見た華覈は黙っていられなかった。
「民が倒れ、国が痩せて、敵は強くなっていく。蜀が倒れた今、呉も「唇亡歯寒」の状況にあります。 これでどうやって戦うんですか? 宮殿で敵を接待でもするつもりですか?」
熱のこもった諫言に、さすがの廷臣も「よく言った」と感心したが、孫皓は聞く耳を持たず。
建築は進み、財政は沈んだ。それでも、工事は止まらなかった。
さらに建衡三年、孫皓は「晦日」にお出かけを計画する。
「晦日はなんか不吉らしいぞ」と言う者もいたが、誰も止めなかった。
そこへまたしても華覈が登場。
「この日に、わざわざ大勢引き連れて外出? それ、誰が得するんですか?」
諫言はもはや芸風に近かったが、孫皓は今回は思いとどまり、遠出は中止された。
結局、華覈の言葉が国を救ったかどうかは分からない。
だが、呉において「言うべきことを言った男」といえば、まず彼の名が挙がるだろう。
忠臣とは、時に空気を読まぬ者でもあるのだ。
陸胤と陸禕を推薦し、楼玄・韋昭・薛瑩を赦免する
孫皓の治世?が進むにつれ、君主の機嫌で人事が決まるようになった。
一夜にして出世し、一言で左遷される。まるで王宮が大型ガチャ機と化す中、そんな風向きにも負けず、華覈は今日も筆をとった。
「陸胤は忠義の人、陸禕は人徳の鏡です。こんな人材を冷遇するべきではないです。」
彼はそんな文言を並べて、ひたすら「この人は登用すべき!」と熱弁を重ねた。
やがて孫皓の疑り深さが悪化し、ついには楼玄・韋昭・薛瑩ら、真面目な文官たちまでターゲットになる。
このときも華覈は諦めなかった。 「彼らは本当に無実です!たぶん陛下の早とちりです!」と弁護したが、力は及ばなかった。
孫皓が認めた才能
孫皓はというと、贅沢と疑い深さは天下一で忠言は大嫌いであった。 それでも華覈は幾度も進言したが、しばしば退けられ、天冊元年(275年)に小さな過失であっさり免職となる。
その後、東観令という文書官のポストに再任されるが、華覈は「いやもう腰が…」と老齢を理由に辞退した。しかし孫皓、ここでなぜかテンションを変えてきた。返書にはこうある。
「お前は古典にも明るく、詩も書けて歴史も書けて、揚雄・班固・張衡・蔡邕に並ぶ才を持ちながら、なんで断る?もっとがんばって、先賢を超えよ。」
突然の褒め殺しであった。どうやら華覈の文才だけは、あの孫皓にも文句のつけようがなかったらしい。
華覈の最期と評価
晩年の華覈は、孫皓政権の暴風圏から、距離をとり穏やかな日々を過ごしていた。
そして天紀二年(278年)、ついに病に伏し、六十歳でその生涯を閉じた。
彼が遺した上疏の数は、ざっと百篇を超えるという。
内容はほぼ「贅沢すんな」「田んぼ大事」「国の金ヤバいぞ」といった、まっとう極まりないもので、
読めば読むほど「まともすぎて泣ける」と評される文官だった。
陳寿は『三國志』でこう評した
「「華覈の文(公文書)と賦の才(文学的才能)は韋昭を超えるが、典章(制度文書)の整理には及ばず」」
しかし続けて、「命を賭して忠を貫いた、まことに忠臣に近い」とも述べており、筆一本で呉の政を支えたその志を認めた評価である。
やはり、あの『呉書』編纂事業の再始動は、彼の名を不朽にした一大業績だった。
華覈の死は、ただの学者の死ではない。
乱れる国にあって「まともでいる」という勇気を貫いた、知識人の終章だった。
参考文献
- 三國志 : 呉書二十 : 華覈傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書三 : 孫皓傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書三三 : 孫亮傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書二十 : 樓玄傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書八 : 薛綜傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書二十 : 韋曜傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十六 : 陸凱傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 建康實錄 : 巻第三校勘記 – 中國哲學書電子化計劃
- 資治通鑑/巻078 – 维基文库,自由的图书馆
- 資治通鑑/巻079 – 维基文库,自由的图书馆
- 史通 : 巻十二 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:華覈 – Wikipedia
華覈のFAQ
華覈の字(あざな)は?
字は永先(えいせん)です。
華覈はどんな人物?
学問を好み、文才に優れた忠臣です。君主に対しても恐れず意見を述べ、民を思う姿勢を貫きました。
華覈の最後はどうなった?
天紀二年(278年)に病没しました。死の直前まで上疏を続け、国家を憂いました。
華覈は誰に仕えた?
孫権、孫亮・孫休・孫皓の三代の呉皇帝に仕えました。
華覈にまつわるエピソードは?
韋昭と薛瑩を呼び戻し、頓挫していた呉書の編纂事業を再始動させました。
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