【1分でわかる】賈充:皇帝殺しと位人臣を極めた西晋の権臣【徹底解説】

賈充

1分でわかる忙しい人のための賈充の紹介

賈充(かじゅう)、字は公闾(こうりょ)、出身は平陽郡襄陵、生没年(217~282年)。
魏の賈逵の子として出仕し、法令整理から軍政まで幅広く携わった。毌丘儉・文欽の乱や諸葛誕の反乱鎮圧に関与し、寿春攻めでは深溝高塁策を献じた。甘露五年(260年)には南闕で曹髦を迎え撃ち、成濟に刺殺させたことで強烈な負の烙印を背負う。蜀滅亡後は関中都督に任ぜられ、西晋建国では《泰始律》の制定で評価を受け、魯郡公に封ぜられた。任愷・庾純らと鋭く対立し、娘の賈南風を太子司馬衷に嫁がせて洛陽での権勢を固めた。晋の呉征伐では慎重論を貫いたが、孫皓降伏の報に顔色を失い、最終的に武公の諡を得て没した。

👉 もっと知りたい方は続きをご覧ください

賈充とは何者か?曹髦弑逆と泰始律制定、西晋で位人臣を極めた権臣の実像を徹底解説

幼少期と家柄:賈逵の子としての出発

賈充は名門の家に生まれた。父は魏の重臣・賈逵であったが、太和二年(228年)に病没した時、充はまだ未成年であった。 しかし喪に服する姿が孝行として称えられ、陽里亭侯を嗣いだ。少年の賈充は早くから「法と実務」に関わる道を歩むことになる。 尚書郎として法令の整理に従事し、さらに度支考課を兼ねて財政・人事の雑務を担った。 黄門侍郎、汲郡典農中郎将へと昇進を重ねたが、華やかな武功とは縁遠く、条文を磨き、記録を整える堅実な仕事人として評価されていく。

司馬師・司馬昭への助力と出世の始まり

正元二年(255年)、毌丘倹と文欽が寿春で挙兵する。賈充は大将軍司馬師の幕下に参画し、討伐軍に加わった。 司馬師が病に倒れて許昌に退くと、賈充は督諸軍として前線を抑え続けた。 戦後、司馬師が没し、弟の司馬昭が傅嘏の手配で洛陽の実権を握ると、賈充はそのまま許昌で軍を監督し、加増を受けた。 やがて大将軍司馬、右長史となり、新政権の不安定さを和らげるため、諸方の将軍を慰撫する策を進言する。 冷静に政局の温度を測る、この手腕が彼の武器であった。

諸葛誕との対話と反乱の予見

正元二年(255年)、賈充は慰撫使として寿春に赴き、征東大将軍・諸葛誕と会見した。 その場で賈充は、わざと探りを入れるように問いかける。 「洛陽の賢人たちは皆、禅代を望んでおります。将軍はどうお考えか。」 晋への禅譲が公然と囁かれ始めた時代、これは試金石となる一言だった。

諸葛誕は烈火のごとく怒った。 「卿は賈豫州(賈逵)の子ではないのか! 世々魏恩を受けながら、どうして国を裏切るようなことを言うのか!」 魏の旧臣としての義を、真正面から叩きつけたのである。 賈充はそれ以上弁じず、静かに席を退いた。 しかし胸中では、すでに反の芽を確信していた。

やがて洛陽から詔が下り、諸葛誕は司空に任ぜられ中央へ召されることとなった。 だが彼は従わず、そのまま寿春に拠って挙兵する。 賈充の予見どおりであった。 賈充は「深溝高塁に拠り、敵の鋭兵を疲弊させるべし」と進言し、司馬昭はこの策を採用する。 戦は持久となり、やがて寿春は陥落した。 賈充はその功により宜陽郷侯に進み、廷尉に任じられる。 冷徹な洞察と用兵の才、これが賈充の真骨頂であった。

曹髦弑逆事件:南闕の一刹那

甘露五年(260年)、魏帝曹髦はついに決起した。 自ら甲冑をまとい兵を率いて南闕に突入、司馬昭の専横に抗議しようとしたのだ。 しかし兵たちは皆恐れ、誰一人として皇帝に刃を向けられず、場は凍りつく。

この膠着を破ったのが賈充である。 彼は太子舎人・成濟に命じ、曹髦を戈で刺殺させた。 皇帝が人臣の命で斃れるという未曽有の惨劇は、瞬きの間に終わった。

二十日後の廷議で、陳泰は「主謀たる賈充こそ誅すべし」と主張した。 だが司馬昭はこれを退け、代わりに成濟三族を誅して幕を引いた。 賈充の母は息子の関与を知らず、「逆賊が君主を殺した」と憤り罵った。 だがその逆賊が他ならぬ賈充であることを知る者は、思わず苦笑したという。 この日以降、賈充の名には権力の影と血の匂いがまとわりついた。

鍾会の乱と機密参預、そして泰始律

景元五年(264年)、蜀が滅んで間もない成都で、征蜀の功臣・鍾会が突如として反旗を翻した。 司馬昭は動揺し、賈充を中護軍・假節、都督関中隴右諸軍事に任じ、漢中へ急派する。 だが賈充が到着する前に、鍾会は味方に裏切られ、自らの野望に押し潰されるように死んでいた。 歴史の大乱に駆けつけたものの、戦う前に勝負は終わっていたのである。

洛陽に戻った賈充には、今度は剣ではなく筆の仕事が待っていた。 裴秀・王沈・羊祜・荀勖らとともに機密に参預し、新王朝にふさわしい法律体系の整備を命じられる。 それが「泰始律」である。魏末以来の旧令は重複と矛盾に満ち、実務を混乱させていた。 これを整理し直す作業は、戦場における攻城戦に劣らぬ大事業であった。 賈充はここで最も才を発揮し、法家としての真価を示した。 彼にとって条文の整備もまた、一種の戦であった。

西晋建国と権力中枢での地位

咸熙二年(265年)、司馬昭は病の床にあり、臨終の際に司馬炎へ「賈充を輔とせよ」と遺言した。 この言葉が、後の賈充の立場を決定づける。 やがて司馬炎が晋王に即くと、賈充は衛将軍・儀同三司・給事中に任じられ、封邑は臨潁侯に改められた。

帝位に昇った司馬炎のもとで、賈充は車騎将軍・散騎常侍・尚書僕射を歴任し、さらに魯郡公に封ぜられる。 その時に頒布された「泰始律」は、実務に即した「便利な法」と称賛され、功績により子弟は関内侯を賜った。 法典の整備者としての面目躍如であった。

その後も尚書令、侍中を兼ね、名実ともに中枢に食い込む。 やがて母が没し、賈充はいったん職を辞して喪に服したが、国境の呉が騒がしくなると、朝廷は彼を休ませなかった。 黄門侍郎や典軍将軍が詔を伝え、すぐに復職を命じて洛陽へ呼び戻した。 政権にとって賈充は、もはや欠くことのできない存在になっていたのである。

任愷・庾純らとの対立と政争

賈充を最も嫌ったのが、侍中任愷と中書令庾純である。 二人は剛直で知られ、権謀に長けた賈充とは水と油の関係だった。 しかも賈充の娘は斉王司馬攸の妃となり、朝中には賈党が増える一方。 「このままでは奴の勢力は手がつけられなくなる」と、任・庾は警戒を強めていった。

賈充も手をこまねいてはいない。 任愷を皇帝の側から遠ざけようと、東宮の職に推挙して侍中を外そうとした。 だが司馬炎は逆に太子少傅を加えて任愷を留め、賈充の思惑は外れる。 両者の対立は深まるばかりであった。

泰始七年(271年)、鮮卑禿髮樹機能が秦・雍州に侵攻。 任愷と庾純は「威望ある重臣を派遣せよ」と上奏し、矛先を賈充に向けた。 司馬炎はこれを受け、賈充を都督秦涼二州・長安駐屯に任じる。 だが賈充にとって地方赴任は左遷同然であり、心底からこれを憎んだ。

ここで登場するのが荀勖の計である。 彼は「娘の賈南風を太子司馬衷に嫁がせれば、洛陽に留まれる」と進言した。 賈充はすぐに実行し、皇太子の舅という立場を得て、都の権力中枢に根を下ろす。 この婚姻が後に「八王の乱」の火種になるとは、当時誰も想像できなかった。

さらに賈充は策略を重ねる。 「任愷は有能だ」とわざと称賛し、吏部尚書に推して人事行政の泥沼に押し込んだのだ。 任愷は多忙のあまり皇帝に会う機会を失い、賈充とその党羽による讒言で度々免官され、ついに再起できなくなった。

一方の賈充は、司空・侍中・尚書令・車騎将軍を経て、ついには太尉・行太子太保・録尚書事へ。 彼の出世はとどまるところを知らず、任愷との政争は賈充の完全勝利に終わったのである。

呉征伐をめぐる消極と朝野の嘲り

咸寧五年(279年)、ついに晋は宿敵・呉への大征伐を決定した。 賈充は使持節・假黄鉞・大都督に任じられ、六軍を総帥する地位を与えられる。 だが彼は大役を喜ぶどころか、敗北の危険を恐れて強く反対した。 司馬炎はこれを退け、自ら親征すら示唆する強硬さを見せ、賈充は渋々ながら中軍を率いて襄陽へ進発した。

翌年、荊州の諸将は次々に晋へ降り、戦局は一気に傾いた。 賈充は軍を項県に移しながらも、「呉を一挙に滅ぼすことはできない」と上表し、なおも退軍を請う。 しかしその使者が轘轅に至った時、すでに孫皓は降を申し出ていた。 洛陽には、呉降伏の捷報と賈充の退軍論が同時に届くという、皮肉な光景が広がった。

朝野の評は冷たく突き刺さった。 「位は人の上にあり、智は人の下にあり」。 賈充の慎重さは、功を取り逃す直前に裏目へと転じてしまう。 この呉征伐は、そのことを如実に示した一幕であった。

賈充の晩年、諡号と手厚い葬

太康三年(282年)、賈充はついに病を得て印綬を返上した。 その病床には、帝や皇太子、さらには宗室の人々までが見舞いに訪れ、晋朝の重鎮にふさわしい厚遇が示された。 だが人の力で命を引きとめることはできず、四月庚午(5月19日)、六十六歳で静かに息を引き取った。

諡号をめぐる廷議では、博士秦秀が「礼を乱し、情に溺れた」と断じ、荒公を提案した。 けれども司馬炎はこれを退け、段暢の議を容れて「武公」と諡した。 さらに太宰を追贈し、葬は霍光や司馬孚に準じる格式で営まれ、一頃の墓地が賜られた。 功と罪が幾度も揺れ動いた生涯であったが、最後は「武」の一字によって総括され、歴史に刻まれた。

賈充の性格と家族事情:推挙と逡巡、そして郭槐

賈充は士をよく推挙し、推した人物を後々まで顧みたことで知られる。 その姿勢は一見すると度量に見えたが、実際には迎合と妥協によって人心を繋ぎとめた面が強い。 王恂に誹られてもなお推挙し続けたのは、その典型といえよう。

家庭においてもまた、賈充は強く出ることができなかった。 妻の郭槐を畏れた逸話は有名である。 晋の建国後、流徙から赦された李婉を左右夫人として並び立たせよとの詔が下った際、郭槐が烈しく反対すると、賈充はこれを退けて辞退を奏した。 家庭すらも政治の舞台であり、賈充はその風向きに逆らわず従うことで安寧を選んだ。 外では権謀を操り、内では妻の影に従う姿が目立った。 その二面性もまた、彼を形づくったのである。

家庭の逸話もまた彼を物語る。 西晋建国後、かつて流罪となった李婉が赦されると、司馬炎は賈充に「郭槐と平列させよ」と命じた。 しかし郭槐は激怒し、賈充はあっさり辞退を奏した。 政治の世界では剛腕でも、家庭内では妻に逆らえなかったのである。

逸話と人物評:賛頌と弾劾の往復運動

賈充の誕生に際して、父の賈逵は「この子には門閭を満たす慶びがある」と占い、名を「充」と改めたという。 その言葉どおり名は歴史に刻まれたが、そこに満ちたのは吉兆だけではなかった。

呉主孫皓が降伏して洛陽に送られてきた時、賈充は宴席で問いかけた。 「南方で人の目を抉り、皮を剥ぐような刑を行ったのはなぜか」。 孫皓は静かに答えた。「それは弑逆や不忠の臣に課す刑だ」。 矢のような言葉は、返す刀で賈充自身を射抜くものであった。

賈充をめぐる批判は枚挙に暇がない。 諸葛誕は「魏の恩を忘れるな」と叱責し、庾純は「天下の凶禍は汝一人から生じる」と断じた。 唐代の房玄齢は「諂佞陋質」と酷評し、李世民は「凶竪」とまで呼んだ。 宋の王応麟や元の郝経は、晋の簒奪と乱の根を賈充に求め、清の王夫之は「呉平定の功を奪われ、弑逆の既成によって晋の乱を早めた」と論じている。

しかし一方で、評価は決して一色ではない。 司馬炎は賈充を「雅量弘高」と称え、文士潘岳は「貴にして食貧」とその暮らしぶりを詠んだ。 賛美と弾劾が絶えず交錯し、賈充の名は時に功臣、時に逆賊として歴史の風が吹くたびに、その名は震えた。

参考文献

  • 参考URL:賈充 – Wikipedia
  • 《晋書·賈充傳》
  • 《資治通鑑》巻七十七、巻七十九至八十
  • 《三國志·魏書·諸葛誕傳》
  • 《晋書·任愷傳》
  • 《三國志·魏書·陳泰傳》裴注干寶《晉記》及《魏氏春秋》
  • 《世說新語》
  • 《三國志·諸葛誕伝》裴注《世語》

FAQ

賈充の字(あざな)は?

賈充の字は公闾です。出生の際、門閭を充たす慶ありと父が改名したという逸話があります。

賈充はどんな人物?

魏と西晋に仕え、法令制定と軍政運営に長けた大臣です。寿春攻めの深溝高塁策や《泰始律》の編纂で評価される一方、曹髦弑逆の指揮で強い非難も受けました。

賈充の最後はどうなった?

太康三年四月庚午(282年5月19日)に病没しました。諡議では荒公案も出ましたが、最終的に武公と諡され、太宰を追贈されています。

賈充は誰に仕えた?

主に司馬師・司馬昭・司馬炎らに仕えました。魏で出世し、西晋建国後は魯郡公として中枢を担いました。

賈充にまつわるエピソードは?

諸葛誕への禅代試問、南闕での曹髦弑逆指揮、関中都督任命と賈南風の下嫁、呉征伐での慎重論などが知られます。孫皓との宴席での応酬も有名です。

関連記事

コメント

タイトルとURLをコピーしました