【1分でわかる】荀勗:晋の司馬炎の寵臣と文化人の実像【徹底解説】

荀勗

1分でわかる忙しい人のための荀勗の紹介

荀勗(じゅんきょく)、字は公曾(こうそう)、出身は潁川潁陰、生没年(?~289年)
魏から晋へと移り変わる激動の時代にあって、荀勗は政治家、音楽家、目録学者、画家と多彩な顔を持つ異色の官人だった。 若くして曹爽に仕えたが、主の最期に唯一人弔問した忠義の士。 その後は司馬昭・司馬炎親子に重用され、中書監・尚書令などを歴任する。 機密を掌握しながら、時に陰謀めいた手段で政局を操る姿勢は佞臣と評された。 一方で、音律制度を整備し、西晋の蔵書を整理、『汲塚書』の編集にも関わるなど文化人としての業績も大きい。 美化された賈南風を太子妃に推挙し、晋の混乱の温床を生んだ張本人としても後世の批判は絶えない。

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荀勗を徹底解説!魏晋の政争と音楽・書道に生きた多面性の男

若き日と曹爽への忠義:危険を承知での弔問

父の荀肸が早くに亡くなり、荀勗は舅の庇護の下で育つことになる。 幼い頃から頭が切れ、十代にして文章をスラスラ書き上げる才を持っていたという。 まさに「神童」的なスタートだが、現実の中国史で神童に生まれるのは、だいたい苦労とトラブルへの片道切符でもある。
最初に仕えたのは大将軍・曹爽だったが、正始十年(249年)、司馬懿の政変で曹爽は謀反の罪を着せられ誅殺される。 その時、曹爽の門人や旧部は皆、恐れをなして弔問に赴くことを避けた。
そんな中、荀勗はただ一人、堂々と弔問に赴いた。命の危険すらある行動だが彼は「恩義」を選んだのである。その姿を見た人々は慌てて後に続き、ようやく弔問の列ができあがった。 結果、荀勗は「最初に勇気を出した人間」として歴史に刻まれた。
のちに佞臣と揶揄されることも多い荀勗だが、この若き日の選択だけは、政治的人格の原点として外すことができない。 命を賭けて義理を通す、その矛盾こそが彼の人生を彩る伏線だったのである。

安陽県令としての施政と民からの信頼

後に安陽県令となり、着任地での善政により民から深く慕われた。 県を離れるときには住民が彼のために祠を建てたという。 これがどれほど異例のことか、現代でいえば市長退任時に銅像が勝手に建てられるようなものだ。 公務員冥利に尽きるというやつである。 その後、驃騎将軍の従事中郎や廷尉正などを経て、司馬昭の幕僚として関中平定戦に参画。 記録官としての能力を買われ、爵位・関内侯を賜った。

鍾会の謀反を見抜く:司馬昭への進言

景元四年(263年)、鍾会が蜀を攻めた後に謀反の意志を抱いているという風聞が流れる。 当初、司馬昭は鍾会を信じて取り合わなかったが、荀勗は鍾会の性格に警戒を示し、警備を進言。 結果として司馬昭は長安に駐屯し、賈充を漢中へ派遣する。 荀勗は鍾会の甥にあたり、かつては彼の家に養われた身でありながら、利害を見極めた冷徹さで事に臨んだ。 衛瓘を監軍に推したのも彼であり、これが鍾会の乱の収拾に繋がったことは、のちの評価にも大きく影響した。

鍾会の謀反を見抜く:司馬昭への進言

景元四年(263年)、蜀を平定したばかりの鍾会に謀反の噂が立った。 当初、司馬昭は厚く信頼していたため耳を貸さなかったが、荀勗は「鍾会の性格は恩を忘れ、裏切りかねない」と警戒を示し、早めの備えを進言した。
この忠告により司馬昭は長安へ出鎮し、賈充を漢中へ派遣することになる。 しかし当時、郭奕や王深らは「荀勗は鍾会の甥で、かつてその家で養われた身なのだから信用できない」と讒言した。 それでも司馬昭は荀勗を信じ続け、同車の礼を崩さなかった。
さらに荀勗は、蜀征伐の際に衛瓘を監軍に推挙していた。結果的に鍾会が叛乱を起こした際、この衛瓘が局地を安定させ、事態の収拾に大きく貢献したのである。 翌年、乱が平定されると荀勗は裴秀・羊祜らとともに機密を共掌する立場に昇進しする。

晋王政権の中枢へ:昇進と法令制定の貢献

司馬昭が晋王に進封された際、荀勗は侍中に任じられ、安陽子の爵を賜った。 さらに咸熙二年(265年)、魏元帝が司馬炎へ禅譲すると、荀勗は済北郡侯に改封され、中書監・侍中・著作領を兼ねる要職へと進む。
ここで彼は賈充とともに律令を整定し、新王朝の根幹を形作る作業に深く関わった。

賈充との共闘:太子妃擁立の策略

荀勗は馮紞・楊珧らと連れ立ち、宮中で権勢を振るう賈充に取り入った。 正直者の任愷や庾純、和嶠からすれば、彼らは権力に群がる寄生虫のように見えただろう。 泰始七年(271年)、鮮卑の禿髮樹機能が辺境を荒らすと、司馬炎は憂慮し「誰を派遣すべきか」と悩む。 任愷は賈充を推挙し、庾純も賛同したが、荀勗たちは顔を引きつらせた。

「賈充が長安に行ったら、俺たちの立場はどうなる」と慌てた荀勗は、馮紞に持ちかける。 「まだ太子(司馬衷)に妃はいない。ここで賈充の娘を太子妃にすれば、賈充は都に残れる。」 賈充本人にもこの妙案を吹き込み、二人は司馬炎に「賈南風は才色兼備で、まさに后妃の徳を備える」と美辞麗句を並べ立てた。 皇后・楊艷まで加勢すれば話は早い。 かくして賈南風は太子妃となり、賈充は出鎮を免れた。

ただし実際の賈南風は、嫉妬深く短気で、容姿も絶世の美女どころか真逆であった。 虚飾によって国の未来を売ったこの一件により、荀勗は清廉な官僚たちから「佞臣」の名札が貼られることになる。

書法教育と音楽制度の改革:文化政策への貢献

荀勗と聞くと「政治的な策謀家」というイメージが先行するが、実は文化政策にもやたら熱心だった。 秘書監としては、鐘繇・胡昭流の書法を教える博士制度を立ち上げ、弟子を育成する教育事業まで手がけている。 現代風に言えば「書道カルチャースクールを国営で開いた官僚」といったところか。

さらに彼は音楽にも精通していた。 古代の制度に倣い、銅製の律呂(音叉みたいなもの)を鋳造し、国家規格の音律を測定。 加えて「十二律」に基づく笛まで製作し、国家の音楽基準を統一してしまった。

ちなみにこの「十二律」、現代のドレミファソラシド+半音(ド♯やレ♯など)に相当する十二の音から成る体系だ。 発想は西洋のピタゴラス音律と同じく「完全五度(3:2)」を積み重ねて作る仕組みで、バッハが『平均律クラヴィーア曲集』で十二平均律を広めるより千年以上早い。 もちろん中国には「ドレミ」の呼び名はなく、「黄鐘・大呂・太簇・姑洗…」といった漢字名で呼ばれていた。

話はそれたが荀勗は、書の教師であると同時に「国家公式チューナー」を自作してしまった人物。 政治の裏工作だけでなく、文化の標準化にもがっつり関わった、稀有な存在だったのである。

呉討伐戦の反対と結果:予測外れの戦後評価

咸寧五年(279年)、益州刺史・王濬が呉討伐を提案すると、荀勗と賈充らは強く反対した。 「勝ち目はない」と見たからであるが、司馬炎は意見を退け、遠征を強行した。 結果は歴史が示すとおりで、呉は一挙に滅亡した。 荀勗にとっては見事に大外れの予測となった。

しかし、戦後の詔命起草に功があったとして、荀勗の子は亭侯に封じられ、絹千匹を下賜される。 さらに彼はしばしば政策論議に参与し、その多くを司馬炎に採用されたため、太康年間には光禄大夫・儀同三司・開府に進み、中書監・侍中を兼ねる重職へと昇った。

つまり荀勗は「戦争の勝敗予想では外したが、政権の中枢ではしっかり評価を掴んだ」人物である。 その背景には、司馬炎からの厚い寵愛があり、彼は失策すら出世の足場に変えてしまったのである。

太子擁護と政争の影:司馬衷評価の二面性

司馬炎は太子・司馬衷の暗愚さを見抜いており、「このままでは晋が乱れる」と恐れていた。 そこで荀勗と和嶠に様子を探らせる。 戻ってきた荀勗は「太子には徳がある」とへつらうように報告したが、和嶠は「相変わらず愚鈍」と正反対の評価を下した。 同じ対象を見ても、保身と正直の差はこれほどまでに明確だった。

やがて賈南風が、妊娠していた側室たちを戟で突いて流産させるという凶行に及ぶ。 激怒した司馬炎は廃妃を決意するが、ここでも荀勗と馮紞が必死に庇い立てし、賈南風は処罰を免れた。

荀勗の行動は、忠誠心と見ることもできるが、実際には人間関係のしがらみと寵愛への迎合が色濃い。 彼の政治判断の根拠は、制度や秩序よりも、誰に取り入るかという「人間関係の天秤」にあったのである。

尚書令への異動と冷遇感:機密から実務へ

長年にわたり中書監として機密を掌握してきた荀勗だったが、やがて尚書令に転任される。 表向きは昇進のように見えたが、実際には権力中枢から外された格好であり、荀勗は強い不満を抱いた。

彼は苛立ちを人事査定にぶつけ、令史以下の官吏を厳しく審査。 文法上の不備や判断力の欠如があれば即座に罷免し、その徹底ぶりは小規模ながらも「粛清」に近いものだった。 ところが司馬炎はこれを大いに評価し、「荀彧と荀攸、二人の長所を兼ね備えている」とまで称賛したのである。

荀勗は在職わずか一か月ほどで母の死を理由に辞職を願い出たが、司馬炎はこれを許さず、むしろ詔命を奉じて職務を続けるよう命じた。 失意の異動であっても、彼の存在感と寵愛は依然として揺るがなかった。

最期と諡号:寵臣の退場

太康十年(289年)十一月、荀勗はこの世を去った。 追贈は司徒、さらに棺代や葬儀の費用まで下賜され、御史が節を帯びて葬送に臨む厚遇であった。 諡号は「成侯」。

彼には政敵も多く、清廉とは言いがたい側面もあったが、晋王朝の中枢にあって一時代を築いた重臣であったことは疑いない。 司馬炎がその最期に礼を尽くしたのは、寵愛を受け続けた荀勗の歩んだ政治的人生を象徴している。

音楽・書画・目録整理における異才:芸術家としての荀勗

音楽では阮咸としばしば論争を交わすほどの識見を持ち、書物では『汲塚書』の整理を主導した。 絵画では『大列女図』などを描き、画論家の謝赫からも高く評価されている。 また、鍾会が母親を欺こうと偽の手紙を送った際、荀勗は彼の祖父像を壁に描き、罪悪感を呼び起こして計画を挫いた。 筆一本で人の心を揺さぶる才覚こそ、荀勗のもう一つの顔であった。

食辨勞薪の逸話と人物評価:慎密さと佞臣の二面性

あるとき、司馬炎と食事を共にした荀勗は、「この飯は古い木で炊いたものだ」と即座に言い当てた。 実際に薪には古びた車の車軸が使われており、その見抜く力に一同は驚嘆した。 こうした慎密さにより、彼は詔命の背後にあっても自らの関与を決して表に出さない老練さを備えていた。

しかしその一方で、時の権力に寄り添い続ける姿勢は「佞臣」として批判を浴びた。 謀略と文化、忠義と欺瞞が同居する、その相反する要素の混成こそ荀勗という人物の本質であった。

参考文献

FAQ

荀勗の字(あざな)は?

荀勗の字は公曾(こうそう)です。

荀勗はどんな人物?

魏末から晋初にかけて活躍した官僚で、機密を握りながらも慎密な行動を貫いた一方、政敵との駆け引きにも長けた人物です。

荀勗の最後はどうなった?

太康十年(289年)に亡くなり、司徒として追贈され、諡は「成侯」となりました。

荀勗は誰に仕えた?

初めは曹爽に仕え、後に司馬昭・司馬炎のもとで重用されました。

荀勗にまつわるエピソードは?

「食辨勞薪」の逸話が有名で、薪の種類を味覚だけで見抜いたと言われています。

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