尹礼とは?泰山寇から曹操配下の太守、そして徐陵での最期まで
尹礼(いんれい)、字不明、出身地不明、生没年(?—222年)、盧児(ろじ)。
後漢末、泰山の山々には官軍すら手を焼く群盗が跋扈していた。臧覇を頭とする「泰山寇」はその代表格であり、尹礼はその骨幹を担っていた。
建安三年(198年)、呂布が下邳で曹操に敗れ滅亡すると、尹礼も進退を迫られる。翌年、臧覇と共に曹操へ帰順し、そのまま東莞郡太守に任命された。
刀を振るう日々から、民を治める日々へ。これは単なる転職ではなく、乱世の空気を読む力と、曹操の現実主義的な人材登用がもたらした転機だった。
徐陵の戦いで迎えた最期
魏の黄初三年(222年)、孫権が魏と決裂。征南将軍・曹仁は臧覇に軽船五百艘と敢死兵一万を預け、呉領の徐陵を急襲させた。尹礼はその先鋒に立ち、火と血の匂い漂う戦場へと漕ぎ出した。
魏軍は城を焼き、数千を討ったが、呉軍の反撃は容赦なかった。全琮と徐盛が逆襲に転じ、乱戦のさなか全琮の刃が尹礼を斬り伏せる。
泰山での豪放な日々も、太守としての誇りも、この一戦で終わりを告げた。彼の首は戦場に掲げられ、呉軍の士気は一層高まったという。
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