傅嘏:名士と交わらぬ判断力と司馬氏を支えた実務官僚【すぐわかる要約付き】

傅嘏

1分でわかる忙しい人のための傅嘏の紹介

傅嘏(ふか)、字は蘭石(らんせき)、出身は北地郡泥陽、生没年(209~255年)

三国時代の魏に仕え、司馬師・司馬昭兄弟の政権を実務で支えた官僚である。
名門の家系に生まれ、若年期から名士として知られた。
何晏・鄧颺・夏侯玄といった当世の名流を厳しく批評し、迎合を拒んだ姿勢で知られる。
制度論に通じ、劉劭の考課法に対しては国家制度の未整備を理由に理論的反論を行った。
曹爽政権下では何晏を警戒して疎まれ、免官を受けるが、高平陵の政変後に復帰し、河南尹として治績を挙げた。
呉征伐や内乱への対応では慎重かつ現実的な戦略を示し、司馬氏から信任を得た。
晩年は侯に封じられ、四十七歳で没し、太常を追贈され元侯と諡された。

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傅嘏の生涯を徹底解説 正始政局と司馬氏政権を支えた理知派官僚の実像

傅嘏の家系と出自

傅嘏は北地郡泥陽県の出身である。
その家系をたどると、前漢の昭帝の時代に名を馳せた傅介子へと行き着く。
一族は代々官途を歩み、地方と中央を行き来する、いわば役所慣れした血筋であった。

伯父の傅巽は黄初年間に侍中・尚書を務め、朝廷の中枢に身を置いた人物である。
祖父の傅睿は代郡太守を歴任し、父の傅充もまた黄門侍郎として宮中に仕えた。
傅嘏はこのような官僚一族の中で育ち、政治と制度が日常会話の延長線上にある環境に身を置いていた。

若年期の名声と人物評価

傅嘏は二十歳前後のころから名が知られ、名士たちの噂話の端に顔を出すようになっていた。
当時の貴族社会では、何晏が弁舌の鋭さで人を集め、鄧颺は時流に乗って仲間を増やし、夏侯玄は家柄という巨大な看板を背負って若くして目立つ位置に立っていた。
才能、家柄、名声がそれぞれ音を立ててぶつかり合う、少し息苦しい空間である。

その輪の中に、傅嘏も当然のように誘われた。
同世代で名があり、話題性も十分、交わっておけば何かと便利そうに見えたからだ。
しかし傅嘏はこれを受け入れず、当時流行していた名声や交遊関係に自ら身を置くことを避けた。

これを不思議に思ったのが、友人の荀粲であった。
彼は首をかしげながら、「夏侯玄は一時代の傑物であり、虚心に人と交わる。気が合えば親しくなり、合わなければ怨みを抱くが、それもまた人の常だ。二人の賢者が距離を置くのは国のためにならない。藺相如が廉頗に身を低くした話を思い出すべきだ」と語っている。
要するに、仲良くしておけば丸く収まる話ではないか、という提案であった。

だが傅嘏は、彼らを最初から信用していなかった。
彼は淡々と、「夏侯玄は志だけが大きく、実の才がなく、虚名は集められても中身がない。何晏は言葉は立派だが感情が近く、弁舌は巧みでも誠実さがなく、口先で国を損なう者である。鄧颺は初めは勢いがあるが終わりがなく、外では名利を追い、内には歯止めがなく、同類には甘く異なる者を憎み、よく語っては先人を妬む」と並べた。

さらに傅嘏は、「多言は争いを生み、妬みは人を孤立させる。私から見れば、この三人はいずれも徳を削りながら生きている。距離を置いていても禍が及ぶのを恐れるほどであり、まして親しく交わる理由はない」と結論づけている。
名士たちが集まる場に馴染めなかったからではない。
傅嘏は、名声を軸に集まる人間関係そのものを危ういものと見なし、意識的に線を引いただけである。

劉劭の考課法への反論

その後、傅嘏は司空・陳羣に招かれ、掾として政務に携わるようになる。
景初年間(237~239年)、散騎常侍の劉劭が官吏評価のための新たな考課法を立案し、その草案が三府に下された。
制度で人を測るという、いかにも理屈の整った話に見えたが、傅嘏はそこに強い違和感を覚えた。

彼は劉劭に対し、まず大きな前提から話を始めている。
「帝王の制度は高度であり、実行できるかどうかは制度ではなく人にかかっている。 王道が廃れるのは理想が高すぎるからではなく、それを担う人材がいなくなるからである。」と述べた。
制度が立派でも、それを使う人間が伴わなければ空回りする、という冷静な確認である。

続いて傅嘏は、劉劭の考課法そのものに切り込んだ。
「劉劭の考課論は前代の制度を探ろうとしているが、制度の骨格が欠けている。礼が最も整っていたのは周の制度であり、外には侯伯を置いて九服を守らせ、内には官司を立てて六職を分担させ、租税や官制に一定の規則があった。だからこそ考課と昇降が成り立った」と指摘する。
つまり、立派に見える評価法も、本体となる制度がなければ飾りに過ぎない、という話であった。

さらに話題は、当時の魏の現実へと移る。
傅嘏は、「しかし魏は秦・漢の末を継ぎ、制度は整えられなかった。建安以降、青龍年間に至るまで、乱を鎮め基業を築くことに追われ、制度を整える暇がなかった。軍事と政務を兼ね、臨機応変に処理するしかなかった。古い制度をそのまま今に当てはめるのは難しい」と述べている。
理想論を掲げる前に、まず現場を見よ、という現実的な物言いである。

最後に傅嘏は、考課制度の位置づけをはっきりさせた。
「官制を整え民を治めることが根本であり、考課は枝葉である。根本が立たぬまま考課を先に行えば、賢愚を正しく見分けることはできない。昔の王は、まず郷里で行いを見て、学校で道を学ばせ、徳ある者を賢とし、道を修めた者を能とした。今は選任を吏部だけに任せ、実力と徳が一致しない。これでは人材を尽くせない」と結論づけた。
制度をいじる前に、人を見る目を取り戻せ。傅嘏の反論は、終始その一点に収束している。

曹爽政権下での対立

正始初年(240年代初め)、傅嘏は尚書郎となり、のちに黄門侍郎へと進んだ。
このころ政権を掌握していたのが曹爽であり、人事の実権は吏部尚書の何晏が握っていた。
若さと名声が評価基準となりやすい時代で、中央は静かに騒がしかった。

傅嘏は、曹爽の弟である曹羲に対し、遠慮のない人物評を口にしている。
「何平叔は外見は静かだが内心は鋭く、利に走る。根本を顧みない。必ず兄弟を惑わし、仁ある者は遠ざかり、朝政は廃れる」と述べた。
穏やかな忠告ではなく、聞く側が困る種類の正論であった。

この発言が歓迎されるはずもなく、何晏らは傅嘏を疎むようになる。
やがて些細な事を理由に官を免じられ、傅嘏は中央政界から一時姿を消した。
表向きは人事上の処置だが、実際には、空気を読まない者が整理されたに過ぎなかった。

左遷後、司馬懿の下で復帰

その後、傅嘏は熒陽太守に任じられたが、これには赴任しなかった。
代わって太傅・司馬懿が傅嘏を請い、従事中郎として幕下に置いている。
中央から外された人物が、より警戒心の強い場所に引き取られた形である。

正始十年(249年)、司馬懿が高平陵の変で、曹爽を罷免して誅殺すると、何晏と鄧颺もこれに連座して失脚した。
かつて人事と名声を動かしていた名士たちは、一夜にして語られなくなった。
傅嘏が以前に述べた人物評は、この時になって思い出されることになる。

政変後、傅嘏は河南尹に任じられた。
河南尹は帝都周辺を管轄する重職であり、豪族・商人・胡貊が入り混じり、利も争いも集まる土地であった。
傅嘏は徳による教化を基本とし、法を用いながらも拷問に頼らず真相を明らかにした。
成果を誇らず、功を主張しなかったため目立ちはしなかったが、河南は次第に静まっていった。

呉征伐問題と戦略的見解

嘉平四年(252年)、呉の孫権が死去した。
これを好機と見た魏朝廷では、征南大将軍の王昶、征東将軍の胡遵、鎮南将軍の毌丘倹が、それぞれ競うように呉征伐を上奏した。
ただし三者の案は方向も時期も噛み合わず、勇ましさだけが先行していた。

そこで詔によって意見を求められたのが傅嘏である。
彼はまず、戦意を煽るような話を避け、少し古い例を持ち出した。
「夫差や斉の君主を見れば、始めが良くても終わりが伴わないことは珍しくない。孫権は死んだが、後事は諸葛恪に託されている。もし呉が虐政を改めれば、国はなお持ちこたえる」と述べ、相手が簡単に崩れるという前提そのものを疑った。

そのうえで傅嘏は、具体的な軍事案を並べている。
「舟で一気に渡る策、四道から攻める策、屯田して機会を待つ策がある。しかし最も確実なのは屯田策である」とした。
要するに、今すぐ勝てる戦ではなく、急げば失敗する戦だという判断であった。

だがこの慎重論は採用されなかった。
同年十一月、呉討伐が正式に命じられ、翌嘉平五年正月(253年)、諸葛恪は東興において魏軍を大破する。
机上で整っていた作戦は、現地ではあっさり崩れた。

敗戦後、諸葛恪がさらに青州・徐州へ進むという噂が流れ、朝廷には再び動揺が広がった。
しかし傅嘏は、「大軍が河を越えて深入りすることはない、合肥防衛に集中させるべきだ」と主張している。
実際、諸葛恪は合肥新城を攻めて失敗し、そのまま軍を引いて帰還した。

この一連の判断は、戦いたくない者の慎重論ではなく、相手を過大評価も過小評価もしない計算の結果であった。
声の大きな主戦論が前に出る中で、彼の見解は採用されず、そして後から正しさだけが残った。

毌丘倹・文欽の乱と親征進言

正元二年(255年)春、毌丘倹と文欽が挙兵し、淮南は一気に不穏な空気に包まれた。
このとき司馬師は眼の腫瘍を切除した直後で、傷は深く、床を離れるのも難しい状態であった。
朝廷では、多くの朝臣が「将軍を派遣すれば足りる」として、司馬師自らの出陣には否定的であった。 重鎮が病人である以上、なおさらその意見はもっともらしく聞こえた。

だが傅嘏・王粛・鍾会の三人だけは、この空気に同調しなかった。
彼らはそろって司馬師の親征を勧め、事態を局地戦として処理すべきではないと主張した。
司馬師が即答を避けると、傅嘏はさらに踏み込み、次のように述べている。

「淮・楚の兵は精強であり、毌丘倹らはその兵力を頼みに遠方で戦っている。
その鋭さは、並の将では受け止めきれない。
もし諸将の戦いに有利不利が生じ、大勢を失えば、公の事業はそこで終わる。」

勝てなかった場合、誰が責任を取るのか、という話を真正面から突きつけた言葉である。
傅嘏は戦況より先に、失敗したときの後始末を見ていた。

司馬師は、まだ治りきらない眼を押さえながらこの進言を聞いた。
しばらく沈黙したのち、突然勢いよく身を起こし、「私は病身のまま輿に乗って東へ向かう」
と述べたという。

こうして傅嘏は尚書僕射を代行する役を命じられ、司馬師に随行して東へ向かった。
戦いの結果、毌丘倹と文欽は敗北し、反乱は鎮圧される。
史書には、この戦局の背後に傅嘏の計略があったと記されているが、そこに英雄的な逸話は添えられていない。ただ、誰が出なければ事が収まらないかを見誤らなかった。

司馬昭を輔政の地位に就ける

司馬師は病が重くなり、いよいよ朝政を誰に託すかという段階に入った。
そこで白羽の矢が立ったのが傅嘏であったが、本人はきれいにこれを断っている。

やがて司馬師が死去すると、傅嘏はその事実をすぐには公表せず、喪を秘した。
混乱が広がる前に、やるべき段取りがあったからである。
傅嘏は司馬師の命令であるかのように装い、司馬昭を許昌に呼び寄せ、軍を率いさせた。

その後、傅嘏は司馬昭とともに洛陽へ戻り、司馬昭は朝廷で輔政の地位に就いた。
表に出るのは司馬昭、裏で段取りを整えていたのは傅嘏である。

鍾会への警告と最期

この一連の動きを目の前で見ていた鍾会は、自分もまた政局を動かせるのではないかという手応えを得た。
その様子を見た傅嘏は「志は大きく、度量もある。しかし功業を成し遂げるのは容易ではない。慎むべきではないか」と釘を刺している。

才能を否定したわけではない。
傅嘏の忠告は、期待と警告が同時に含まれた、実に彼らしい言葉であった。

その功績により、傅嘏は陽鄕侯に進み、食邑を六百戸増やされた。
もとの一千二百戸と合わせ、相応の待遇を受けることとなる。
だがその年、傅嘏は死去し、享年は四十七であった。

太常を追贈され、諡は元侯と定められた。

子の傅祗が爵位を継ぎ、咸熙年間(264~265年)に五等爵制が設けられた際、傅嘏が前朝において立てた功績が改めて評価され、傅祗は涇原子に改めて封ぜられた。

参考文献

傅嘏のFAQ

傅嘏の字(あざな)は?

字は蘭石(らんせき)です。

傅嘏はどんな人物?

制度論に通じ、名声や流行に迎合しない理知的な官僚です。

傅嘏の最後はどうなった?

正元二年(255年)に死去し、太常を追贈されました。

傅嘏は誰に仕えた?

曹魏に仕え、司馬懿・司馬師・司馬昭の政権を補佐しました。

傅嘏にまつわるエピソードは?

何晏・鄧颺・夏侯玄を徳を欠くとして厳しく批評し、交わることを拒みました。

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