1分でわかる忙しい人のための龐統の紹介
龐統(ほうとう)、字は士元(しげん)、出身は襄陽 生没年(179〜214年)
「臥龍・鳳雛、二者得一、可安天下」と称されたその一人「龐統」は、若くして評価されずとも、司馬徽の慧眼により才能を見出された知将である。
はじめ周瑜に仕え、南郡太守の功曹として従軍。周瑜の死後、その遺体を江東に届ける誠意を見せた。後に劉備に迎えられ、耒陽令、治中従事を歴任。益州攻略では劉備の参謀として雒城攻めを主導するが、戦中に流矢を受けて戦死。享年三十六。
その生涯は短いが、諸葛亮と並び称されるほどの知略と、誠実さ、そして他者を導こうとする哲学に満ちていた。死後、靖侯として追贈される。
龐統を徹底解説!「鳳雛」と称された短命の天才軍師
若き鳳雛と司馬徽の慧眼:無名時代の龐統
龐統は荊州襄陽の名門出身。だが若いころは質素で不器用、まるで羽毛の生えそろわない雛鳥のようだった。
言動にも冴えがなく、周囲からは「なんだか地味なやつ」で片付けられていた。才の片鱗は、土の中に深く埋もれていたのだ。
それを掘り当てたのが、名士司馬徽だった。ある日、龐統はまだ二十歳のころ、司馬徽を訪ねた。
当の司馬徽は木に登って桑の実を摘んでいたが、龐統が木の下に腰を下ろすと、二人はそのまま朝から晩まで語り合った。
語って、語って、語り倒した。
話し終えた司馬徽はこう言った。「これは荊南の才俊の筆頭である」。さらに「龐德公は人を見る目がある」と龐統の叔父をも称賛。
この出会いがきっかけで、龐統の名は世に知られるようになる。
世の目が届かぬところで、静かに育っていた“鳳雛”は、この日初めて鳴き声を上げたのだった。
周瑜との出会いと江東の名士評:功曹としての登場劇
南郡太守・周瑜が南郡争奪戦で曹仁を破り、その支配を確立した建安十四年(209年)、そこにひっそりと“配置”された一人の無名の龐統。
名門の出なのに冴えない、語ると長くなるような、そんな“盛れない若手”である。
でも、周瑜だけは見ていた。いや、見てしまった。
「あの顔の陰に、何かある」と。
龐統は南郡の功曹となり、のちに「何か」は実績という形で爆発する。
周瑜が巴丘で没すると、その遺体を江東まで丁重に送り届けるという”ミッション”を任された龐統。
これがもう、彼の初めての「社交界デビュー」となる。
江東にて、陸績・顧邵・全琮ら名士たちと相まみえると、龐統はなんの躊躇もなく、俺流人物批評をおっぱじめるのである。
「陸績? 馱馬みたいなやつ。せいぜい一人乗り。」
「顧邵? 馱牛だな。三百里を荷物つきで突っ走れる。」
しかも全琮には「あなた、施し好きで目立ちたがり。汝南の樊子昭っぽいよね」と痛烈な一言。
このナチュラルに地雷を踏み抜いていく様子、彼にしか出せない間合いである。
……が、名士たちは大ウケ。
「天下が太平になったら、また一緒に品評会しようぜ!」と意気投合し、友情まで芽生える始末。
顧邵は龐統を泊めてやり、「オレはどう?」と聞くと、龐統は「推薦人事とかの実務では君に敵わない。でも皇帝の腹芸読みと政略の核を握る件は、俺の方が数段上だな」と満面ドヤ顔で言ってのけた。
なんだその比べ方。就活か。
だがこの”俺が一番知っている”という鼻っ柱の強さ、それを誰もが嫌わず、むしろ心酔してしまうのが龐統という男だった。
時代が求めたのは、論理じゃなくて“器”だった。
このとき龐統は、ただの名門出の若手から、「語れる人」へと進化していく。
劉備陣営への転身
建安十四年(209年)以降、劉備が荊州を掌握した頃、龐統は耒陽(現在の湖南省耒阳市)の県令に任じられた。
だが、これが全く合っていなかった。行政職に求められるのは几帳面さと継続力。だが彼にあるのは、大局観と策謀と皮肉屋の舌だけ。
案の定、書類仕事が山のように積まれたまま片付かず、「県庁爆発寸前」となって免職処分。
傍から見れば”知名度だけのダメ職員”、しかし人を見る目がある人間には、別の未来が見えていた。
これはまずいと思った魯肅が「百里の町じゃ器が小さすぎる」と直筆で推薦状を送り、諸葛亮も「彼の才は俺が保証する」と旧知のよしみで後押しする。
劉備が龐統と面談すれば、すぐさま「こいつは使える」と感触を得る。
こうして龐統は幕僚ポストである治中従事に抜擢され、後に軍師中郎將へ昇格。待遇は諸葛亮に次ぐ“ナンバー2補佐官”となる。
ある日劉備が龐統と雑談していたとき、ふとこんなことを聞いた。
「そういや君は前に、周瑜の功曹だったな。私が京口に孫権を訪ねた時、周瑜と呂範が、孫権に私を拘束するよう進言したと聞いたが、本当か?」
龐統は一拍置き、「確かに、そういう話はありました」と淡々と答える。
劉備はしばし黙し、「……あのとき、信じたかったんだよ。義も、人も」とだけ漏らす。
その胸中に龐統は言葉を重ねなかった。信じたい者を、裏切る者の手に渡さぬために、彼は次なる一手を温めていた。
益州入りと治中従事として涪城での直諫
建安十六年(211年)、荊州に一通の招待状が届いた。差出人は法正。差し向けたのは益州牧・劉璋。
表の顔は「張魯が攻めてくる、助けて」。裏の本音は「今なら政権、奪えますよ?」という甘い囁きだった。
この誘惑に、劉備は悩む。「義を貫いて飢え死ぬか、勝って民を守るか」、そんな天秤の上に、龐統は足を踏み入れる。
「殿、荊州はもう干からびております。人も物も流出して空っぽ。
東の孫権は警戒中、北の曹操はいつ牙を剥くかわかりません。ですが益州は違う。
土地は肥え、民は富み、兵糧は溢れ、人材も眠っている。ここを取らずに、どこを取るのです?」
龐統は机を叩くでもなく、ただ論理と熱意で劉備の心を揺さぶる。
しかし劉備はためらう。「俺は曹操と違う。あいつが暴なら、俺は仁。あいつが急なら、俺は緩。
逆張りでここまで来た。今ここで義を捨てたら、全部台無しになりはしないか?」
龐統は静かに首を振る。「殿、これは乱世です。義を守って国が滅びれば、それは義ではなく幻想です。勝って、民を守る。それが真の義です」
この一言で、劉備の目が変わった。
こうして、劉備は関羽・張飛・諸葛亮らを荊州に残し、法正・龐統・黄忠らと数万の兵を率いて益州へ。
涪城にて、劉璋と初めての対面。
酒宴の席で、龐統はすっと囁く。「殿、ここで一気に殺してしまいましょう」
張松も法正も「それな」と頷くが、劉備は首を横に振る。
「まだ恩信がない。今、ここで刃を抜けば、義が瓦解する」
龐統は何も言わない。ただ盃を傾け、次の一手を胸にしまい込んだ。
歴史の歯車が、静かに回り始めていた。
雒城攻めと戦死の瞬間:軍師中郎將龐統の最期
建安十九年(214年)、舞台は益州の中枢、雒城(現在の四川省広漢市)。
ここは劉璋の牙城、まさに“蜀取り”の天王山。
龐統は軍師中郎將として最前線に立ち、連日連夜の攻城戦を指揮していた。
しかし、ここで一つ、致命的な“読み違え”が起きる。
この日、龐統は白馬に乗って移動中だった。
劉備の名馬を借り受け、前線を鼓舞するために視察に出たという。
が、ここで敵の伏兵に狙われる。無数の矢が放たれ、その中の一本が龐統を貫いた。
軍師、討死。享年三十六。
その死は衝撃だったが、さらに後味の悪い余波があった。
同僚の張存という男が、「あいつは無能だった。死んで当然」と、劉備の前で龐統を貶めた。
だが劉備は怒髪天。「口を慎め!」と即座に張存を罷免。
この一喝に、龐統への信頼と喪失の深さが現れていた。
龐統の死後、彼の戦略の多くは法正に引き継がれ、蜀の政略は新たな段階へと進む。
策を授け、進言し、諫め、挑み、そして討たれた男。
その名は「鳳雛」──だが、彼の羽ばたきはあまりにも短く、烈しかった。
参考文献
- 龐統 – Wikipedia
- 三國志·蜀書·龐統傳
- 三國志/卷37
- 漢晉春秋
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