1分でわかる忙しい人のための歩騭の紹介
歩騭(ほしつ)、字は子山(しさん)、出身は臨淮郡淮陰県、生没年は(?~247年)。
呉の名将・名臣として、交州刺史・西陵督・丞相を歴任し、陸遜の後を継いで第4代丞相に就任した人物である。
性格は寛雅で沈着、喜怒を表に出さず、衣食住においても儒生のような質素さを貫いた。一方で学問と教養に優れ、多くの門生を指導し、民政と軍政両面に貢献した。
交州では反乱勢力を平定して南土の秩序を立て直し、西陵では20年にわたって蜀漢との国境防衛に尽力した。
また、太子孫登に宛てた人材評価の書簡は後世に語り継がれる名文であり、政治判断にも高い見識を示していた。
一方、呂壱事件では制度を批判するにとどまり、名指しの諫言を避けた点で批判もある。
二宮の変では孫覇派として動いたとされ、陸遜の死後に丞相に任命されたが、翌年に死去した。
呉後期の文官政治を支えた中心人物の一人である。
歩騭を徹底解説!西陵を支え、呂壱事件と二宮の変の渦中に没した呉の丞相
歩騭の出自と性格:春秋の末裔から東の重臣へ
歩騭(ほしつ)は、春秋時代の晋の大夫・楊食の末裔とされ、その采邑にちなんで「歩」姓を名乗るようになったという。秦漢の間には歩氏の中から将軍となり淮陰侯に封ぜられた者もおり、一族は江淮地方で大族としての地位を築いていた。
ただし、歩騭自身は恵まれた境遇に育ったわけではない。戦乱により江東へ避難した彼は、一族の名声とは裏腹に、衣食にも事欠くほどの貧しさに直面していた。
広陵出身の衛旌と交友を結び、二人で耕作に勤しみながら、夜は書を読んで学問に励む。知識に対する貪欲さは並外れており、文献・術数を問わず、手にした書物は片っ端から読み込んだ。
この時期に培われた慎重さと自律性が、後年、彼の政治姿勢と評価の土台となっていく。権力欲や虚栄から遠く、儒者的な節度を貫いた姿勢は、後の彼の政治姿勢の礎となっていたことは間違いない。
交州制圧と士燮降伏:南方経略での大功
建安十五年(210年)、歩騭は交州刺史として南方へ赴任。部下千人を率い、政も軍も任せよとばかりに、即日南行したこの判断の速さこそ、彼の胆力を物語っている。
翌年、典蒼梧太守・呉巨が前任の刺史・賴恭を追い出し、零陵・越城に逃れて歩騭のもとに救援を求めた。
そこで歩騭は、「忠誠を装った反逆者」の典型である呉巨を、礼を尽くした上で面会の場におびき出し、謀反の証拠を固めたうえで粛然と斬首。その処断は見事なものだった。
この一件を機に、地域の実力者である交趾太守・士燮とその一族がこぞって孫権に帰順。さらに益州の有力者・雍闓が蜀の太守・正昂を殺し、士燮と連携して呉への帰属を求める事態にまで発展した。
歩騭はこれらすべてを現地判断で収め、孫権の命令を待たずに恩詔を与えて安撫に努めた。その功により、彼は平戎将軍となり、広信侯に列せられる。
これは単なる一地方の鎮圧ではない。動乱の地に筋を通し、恩義で士人を従わせた一連の過程こそ、呉の南方支配の起点そのものであった。
劉備の侵攻と荊州防衛:益陽の守将としての活躍
延康元年(220年)、交州統治を果たした歩騭は、任を解かれ呂岱に刺史を譲ることとなった。しかし彼はただ退くことなく、1万人の交州義士を率いて帰還の途に就く。
その帰路、長沙に到達した歩騭を待っていたのは、まさに蜀の劉備による東征であった。加えて、武陵の蛮族たちは蜀の懐柔策に呼応し、反乱の気配を見せていた。
孫権はすぐに歩騭を益陽に駐屯させた。急転する情勢のなか、歩騭の立場は単なる守将にとどまらない。戦機を見据え、動揺する郡県の安定化を任された彼は、軍を指揮して荊州各地に威信を示していく。
その後、222年の夷陵の戦いで劉備が陸遜に敗れるも、零陵・桂陽などの郡は依然として不穏なままであった。歩騭はそのまま軍を率いて各地に出向き、揺らぐ地域の統治を再建していく。
翌223年、彼は右将軍・左護軍に昇進し、臨湘侯へと封じられた。戦場でも政務でも、彼が果たした役割は、名将という一言に収まりきらない地力に裏打ちされたものだった。
西陵統治と太子教育への助言
黄龍元年(229年)、孫権が帝を称すると、歩騭は西陵の都督に任じられる。かつて陸遜が守りを固めたこの要地で、以後二十年にわたり、軍政両面で秩序を維持し続けた。呉と蜀の国境に位置する西陵において、彼の存在は安定の象徴とされた。
その間、冀州牧の肩書も与えられたが、呉と蜀の分界交渉により冀州が蜀に譲られたため、任命は解かれた。ただしこの異動は、歩騭の政治的信頼とは無関係である。
孫権が建業に遷都し、太子孫登が武昌に残された際、太子は自ら筆を執って歩騭に教えを請うた。これに対し、歩騭は荊州の要職にある十一名(諸葛瑾、陸遜、朱然、呂岱、潘濬、裴玄、夏侯承、衛旌、李肅、周条、石幹)を挙げ、それぞれの能力と人柄を詳述して推薦した。
単なる列挙にとどまらず、各人の資質を分析したうえで「いかに任じ、いかに信じるべきか」を明言したこの上疏は、太子の人材登用に大きな指針を与えるものだった。歩騭の言葉は、人を見抜き、政を支える根幹に通じていた。
呂壱事件への対応:慎重な忠臣、責任を問われる
呂壱が中書校事として登用されると、彼は百官の公文を逐一検査し、些細な瑕疵も見逃さず、重罪として糾弾する体制を築いた。これにより、左将軍・朱據や丞相・顧雍までもが罪に問われ、拘束される異常事態となった。
この混乱のさなか、歩騭は制度全体に対する問題意識から上奏を重ねたが、呂壱の名をあえて挙げず、制度批判にとどめた慎重な内容であった。そのため、上書は直接的な糾弾とはならず、呂壱の専横を抑えるまでには至らなかった。
後に典軍吏・劉助が呂壱の冤罪を暴露し、朱據の無実が証明されたことで、孫権は呂壱を誅殺。続いて詔を下し、自らの用人の誤りを認めたものの、歩騭・諸葛瑾・呂岱・朱然ら重臣たちが何も行動を起こさなかったことを咎めた。
歩騭は誠実で慎重な人物であり、個人攻撃を避ける姿勢が常であった。しかしこの時は、その慎重さが「沈黙」と受け取られ、結果として非難を免れなかった。
丞相就任と晩年、一族の悲劇
赤烏九年(246年)、陸遜が孫権の不興を買って死去すると、その後任として歩騭が丞相に任じられた。
正式に第四代丞相となったこのとき、彼は儒者のような生活を続けながらも、国政の中枢を支え続けた。任地・西陵にあっては、すでに20年近くの統治を経ており、その威信は呉・蜀・魏のいずれからも一目置かれるものだった。
赤烏十年(247年)五月、歩騭は没した。享年不詳。ただ、その死に際して語られる逸話は少ない。功績の多さとは裏腹に、彼の最期は静かに過ぎ去ったようだった。
子・歩協が爵位を継いだが、時代はすでに動乱の渦中にあり、弟・歩闡は西陵督を継いだのち呉に叛き、晋に降った末に誅殺。結果として、歩氏一族はほぼ壊滅し、ただ一人、洛陽に人質として送られていた歩璿だけが生き延びた―誠実と節義を貫いた名門が、驚くべき皮肉の結末を迎えたのである。
さらに忘れてはならないのは、歩騭の家族に関する政治的複雑さである。歩騭の一族からは、孫権の寵姫・歩練師が出ており、生前は皇后と称され、没後に追尊された。彼女の長女・孫魯班もまた、その政治的影響力の一端を担った。三宮(太子・孫和と魯王・孫霸)の対立では、歩騭と歩練師が共に魯王支持に立ったため、裴松之は「歩騭の政績を見落として差し引くべきだ」と厳しく評している。こうした複雑な家庭的・政治的関係は、歩騭の評価を容易に揺るがせる側面だったはずだ。
歩騭は誠実さを信条とし、感情に左右されずに国を支えようとした。ただ、その誠実さは時に諸刃の剣となった。政治の渦中では曇りなき正しさよりも、調整の巧みさが求められる――その現実を、彼は最後まで痛感したのではないだろうか。
丞相就任と晩年、一族の悲劇
赤烏九年(246年)、孫和と孫霸の後継争い、いわゆる「二宮の変」が激化する中、太子派を支えていた陸遜が、孫権からの度重なる叱責に耐えかねて憂死。その後任として歩騭が第四代丞相に就任した。
彼は儒者の風格を保ちつつ、二十年にわたり西陵の安定を担った統治経験と、慎重な政治姿勢をもって政務に臨んだ。翌年の赤烏十年(247年)五月に死去。享年不詳ながら、その影響力と人格は呉・蜀・魏にまで及ぶと評された。
死後、息子の歩協が爵位を継ぐが、次男の歩闡が西陵で晋に寝返り、呉軍の陸抗に鎮圧されると、歩氏一族は壊滅的な打撃を受けた。唯一、洛陽に人質としていた歩璿だけが命をつなぐ。
また、歩騭は孫権の寵妃・歩練師の同族であり、彼女の娘・孫魯班と共に魯王・孫霸を支持していたことから、史家・裴松之に「彼の政績すら否定すべき」と厳しく非難されている。家族関係と政治的立場が絡み合う中での選択は、慎重な歩騭にとっても大きなリスクを孕んでいたと言えよう。
参考文献
- 参考URL:步騭 – Wikipedia
- 《三国志·呉書·歩隲伝》
- 《三國志‧薛綜伝傳》
- 維基文庫:《三國志·卷52》陳寿著
FAQ
歩騭の字(あざな)は?
歩騭の字は子山です。
歩騭はどんな人物?
東呉の将軍・重臣として活躍した人物で、寛雅沈着で簡素な生活を好む儒者のような人格者でした。
歩騭の最後はどうなった?
赤烏十年(247年)に第四代丞相として政務に従事したまま死去しました。
歩騭は誰に仕えた?
主に東呉の君主・孫権に仕えました。
歩騭にまつわるエピソードは?
南方交州の反乱を平定して地盤を固めたり、呂壱事件で制度批判を行うなど、政務能力と誠実さが光る逸話が残っています。
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