樊建:黄皓と距離を保ち諸葛瞻と蜀末政権を支えた重臣【すぐわかる要約付き】

一般文官2

1分でわかる忙しい人のための樊建(はんけん)の紹介

樊建(はんけん)、字は長元(ちょうげん)、出身は荊州義陽、生没年(?~?)
樊建は蜀末期において政務を担った重臣でる。
延熙十四年(251年)に校尉として呉へ派遣された際、孫権は病が重く直接会うことができなかったものの、諸葛恪から風雅で落ち着いた性質と評価されている。
その後は侍中、中書令、さらに董厥の後を受けて尚書令に任じられ、諸葛瞻、董厥と共に政務を統括した。
晋に降った後は相国参軍、散騎常侍などを務め、諸葛亮の治国を論じ、また鄧艾の冤を正すよう諫言するなど、晋朝でも直言を惜しまなかった。

樊建の生涯を徹底解説!呉外交での高い評価を得て蜀末政権を支えた重臣で司馬炎の直言で見せた志

呉派遣と孫権による人物評価

樊建(はんけん)、字は長元(ちょうげん)。義陽の出身で、その生没年は不詳。
延熙十四年(251年)、校尉として呉へ派遣されたが、ちょうどその頃、孫権は重い病に伏しており、直接の謁見は叶わなかった。

この状況の中で、孫権は代理として応対にあたった諸葛恪に問いかける。「樊建という者は、宗預と比べてどうか」
呉との外交で名を馳せ、孫権のお気に入りの宗預との比較であった。

さすがの諸葛恪は慎重に言葉を選び、「才識では宗預に及びませんが、風雅で落ち着いた性質では樊建のほうが勝っています」
このやり取りは、樊建が人物としてしっかりと評価され、比較の対象として扱われるだけの力量があったことを物語っている。

蜀末政権で重職を担う

蜀に戻ったのち、樊建は侍中、中書令を歴任した。 景耀四年(261年)、董厥が輔国大将軍・平尚書事に昇進した後を受けて尚書令に任じられた。諸葛瞻は都護、衛将軍に任じられている。

名目上は、諸葛瞻・董厥・樊建の三名が末期政権の中枢を担っていた。だが実際には、姜維は戦場に出たまま、都では宦官の黄皓が権勢を振るい、内と外で政権の骨がばらばらになっていた。
三名が協力しても、黄皓の専横を抑えることは叶わなかった。ただし樊建はそのような腐敗に与することなく、黄皓とは距離を置いていたと伝えられている。

孫盛の『異同記』によれば、諸葛瞻・董厥らは「姜維は戦ばかりして成果なく、国を疲弊させている」として、後主に上奏し、益州刺史として召還し兵権を奪うよう訴えたという。名前は明記されていないが、樊建も国の疲弊を憂いて参加したと思われる。
『華陽国志』にも、諸葛瞻が姜維の代わりに閻宇を立てようとしたという記録が残る。

戦場で軍権を握る将軍と、都に残された文官たち。樊建らがいかに政務を支えても、肝心の国の舵は、別の手にあった。

蜀滅亡後の司馬炎への直言

咸熙元年(264年)、蜀が滅びた翌年、劉禅は洛陽への移送を命じられた。
このとき樊建は廖化、董厥、宗預らとともに従い、洛陽へ赴いた。晋では相国参軍、散騎常侍に任じられ、元・蜀臣たちを慰撫する役割を担うこととなった。

『漢晋春秋』によれば、樊建が給事中として仕えていた頃、晋武帝・司馬炎が諸葛亮の政治について尋ねた。
そのとき樊建は「過ちがあれば必ず改め、非を誇らず、賞罰の信義は神明さえも動かすほどだった」と答えた。
これを聞いた司馬炎は深く感銘を受け、「もし私が諸葛亮を得ていたら、今日のような苦労はなかっただろう」と嘆じたという。

さらに樊建は、処刑された鄧艾の件についても黙っていなかった。
「鄧艾が冤罪に遭っているのに、陛下がこれを正さないのは、馮唐が言った『廉頗・李牧(戦国時代の趙の名将)を得ても用いられず』という話と同じです」
司馬炎はこれを笑って受け流すどころか、「卿の言で私の意が動いた」と返し、事の再調査を命じている。

敵国に滅ぼされ、その政権に仕えながらも、樊建はおべっか一つ使わず、目上に対しても言うべきことは言った。
その姿は、国は滅んでも志は折れぬという、一つの矜持のようでもあった。

参考文献

樊建のFAQ

樊建の字(あざな)は?

樊建の字は長元(ちょうげん)です。

樊建はどんな人物?

諸葛恪に風雅で落ち着いた性質と評価されています。

樊建の最後はどうなった?

蜀滅亡後に洛陽へ赴き、晋の官職に任じられています。詳細な没年は不明です。

樊建は誰に仕えた?

蜀の劉禅に仕え、蜀滅亡後は晋に仕えました。

樊建にまつわるエピソードは?

諸葛亮の治国について晋武帝に語り、さらに鄧艾の冤罪について直言し、武帝の判断を改めさせたという逸話があります。

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