虞忠:虞翻の子として晋の攻勢に抵抗した忠節の最期【すぐわかる要約付き】

一般武将4

1分でわかる忙しい人のための虞忠(ぐちゅう)の紹介

虞忠(ぐちゅう)、字は世方(せいほう)、出身は会稽余姚、生没年(?~280年)
三国時代末期の呉に仕えた政治・軍事人物で、学者虞翻の第五子として生まれた。名門・会稽虞氏の出身であり、兄弟に虞汜らがいた。
誠実で信念が強く、職務に堅実に取り組み、人を見る目に優れていた。若き陸機や上虞の魏遷を早くから評価したことで知られ、彼らはいずれも後に著名な人物となった。
仕官の後、王岐の後任として宜都太守に任命される。太康元年(280年)、晋の王濬が呉を攻めた際、陸晏・景兄弟らとともに宜都城を守り、降伏を拒んで戦死した。

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虞忠の生涯を徹底解説!宜都太守として王濬に抵抗した忠義の最期と虞氏の継承

虞忠とは?出自と兄弟

虞忠の父は呉の学者であり政治家の虞翻で、その第五子として生まれた。
虞翻には十一人の子があり、兄弟には虞汜、虞聳、虞昺などがいた。
家の中だけでひとつのサッカーチームを作れそうな規模である。

虞忠は誠実で信念が強く、職務に堅実に取り組み、人を見る目に優れていた。
嘉禾二年(233年)、父・虞翻が交州で病没した後は、虞忠は虞汜についていき会稽郡余姚へ帰還する。

陸機と魏遷を見抜く

虞忠は若いころから、人材を見抜く眼力を持っていた。
陸機がまだ少年だった頃、その学問の深さと文章の整い方を見て「この者はいずれ世に知られるだろう」と評したという。

同郡の魏遷についても、名が知られる前からその才能を高く買い、人々に「この男を忘れるな」と勧めていた。
後に陸機も魏遷もそろって名を成したことで、誰の目にも虞忠の先見が確かだったことが分かる。
世の中には後から口を出す評論家が多いが、虞忠は「始まる前に」見抜いていた。

また、同郡の王岐とは若いころから親しく、王岐が地方官として仕えていた時代には互いに支え合う関係だった。
のちに王岐の後任で、虞忠が宜都太守に就いている。
人物を見抜く力が、自身のキャリアにまで繋がったという点で興味深い。

晋の呉征伐での最後

天紀四年(280年)正月、晋が呉を滅ぼすべく大規模な攻撃を開始した。
王濬は成都を発し、巴東監軍の唐彬らを率いて丹陽を攻め、丹陽監の盛紀を捕らえる。
二月にはさらに西陵を落とし、鎮南将軍の留憲、征南将軍の成據らを破った。
その波のような侵攻の前に、呉の防衛線は一枚ずつ剥がされていった。

その中で宜都を守ったのが虞忠である。荊門・夷道には陸晏、楽郷には陸景が布陣し、それぞれの城で抵抗を続けた。
だが、彼らの奮戦も、巨大な時代の流れの前では小舟が荒海に揺られるようなものだった。
虞忠は最後まで城と運命を共にし、炎と煙の中にその生涯を閉じた。

彼の死後、呉は滅び、孫氏の国は長い年月を経て幕を下ろした。
だが、すべてが消えたわけではない。虞忠の子・虞潭(字は思奧)は晋に仕え、衛将軍・侍中左光禄大夫にまで昇進した。
没後には開府儀同三司を追贈され、父の節義を新しい時代の形で受け継いでいる。
時代は変わっても、虞氏の名は士族の系譜の中で続いたのである。

参考文献

虞忠のFAQ

虞忠の字(あざな)は?

字は世方(せいほう)です。

虞忠はどんな人物?

誠実で信念が強く、職務に堅実に取り組み、人を見る目に優れていました。

虞忠の最後はどうなった?

太康元年(280年)、西晋の王濬が呉を攻撃した際に宜都を守り、降伏せずに戦死しました。

虞忠は誰に仕えた?

呉の孫皓に仕えています。

虞忠にまつわるエピソードは?

陸機を少年のころから訪ねて才能を認めた逸話があり、魏遷も早くから評価しています。

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