【1分でわかる】虞翻:斬られかけても諫め続けた呉の危険な忠臣【徹底解説】

虞翻

1分でわかる忙しい人のための虞翻の紹介

虞翻(ぐほん)、字は仲翔(ちゅうしょう)、出身は会稽余姚、生没年(164年~233年)

三国時代の呉に仕えた経学者であり政治家である。書物の注解に加え、医術や占筮にも通じた人物で、官は騎都尉に至った。
若き日は王朗の功曹として仕え、孫策の侵攻時には父の喪中でありながら王朗に抗戦を避けるよう諫め、敗走の際には護送を務めた。その後、孫策の信任を得て功曹に復職した。
孫権の時代には騎都尉に任命されたが、幾度も直言を繰り返し、また同僚との不和から讒言を受けて流罪となった。
しかし呂蒙が荊州を奇襲する際には召し出され、南郡攻略で功を立てた。その後も孫権の前で于禁を罵倒するなど、歯に衣着せぬ言動でしばしば怒りを買った。

呉王即位の酒宴では孫権に斬られかけ、大司農劉基に救われる。 その後、交州に流され、そこで講学を続け数百人の門人を集め、『老子』『論語』『国語』などに注を施した。
嘉禾元年(232年)、遼東遠征の無益を見抜いて諫めるも容れられず、再び流罪となり、翌年に交州で没した。享年70。陳寿から「古之狂直」と評されたように、虞翻は頑なな直諫の士として記憶されている。

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虞翻を徹底解説!王朗、孫策、孫権に仕えた、経学者の生涯

王朗を諫めた忠臣の若き日々

虞翻は会稽太守の王朗により功曹に任じられた。
初平年間(190年頃)、孫策が江東へ進軍して会稽を攻撃したとき、虞翻は父虞歆の喪中にあった。しかし彼は白布の喪服をまとったまま王朗のもとに赴き、正面からの交戦は不利であるから避けるべきだと強く諫言した。
しかし王朗はこの進言を受け入れずに抗戦を選び、結局は孫策軍に大敗した。東治に敗走に従い、虞翻は王朗を護送して侯官県まで同行した。 ここで、王朗は「卿には老いた母がある。ここまでで帰るがよい」と告げ、虞翻は言葉をのみ込み、やむなく帰郷した。

その後、孫策は会稽を掌握すると虞翻の才を認め、再び功曹として任用した。さらに孫策は彼と交友を深め、信頼を寄せた。 孫策が軽騎で外出して狩猟に出るたびに、虞翻は「敵の矢は人を選ばない、君の身に危険が及ぶ」と諫めた。孫策は一度は承諾したものの結局狩猟をやめず、虞翻の忠告を実行することはなかった。それでも虞翻は臆することなく言を尽くし、忠臣としての姿を示したのである。

孫策を支えた知略と弁舌

孫策が山越征伐に赴いたある日、虞翻は山中で彼と出会った。孫策は「兵は四方に散って敵を追っている」と語ったが、虞翻は即座に「それは危険です」と警告し、馬を降りて徒歩で進むよう勧めた。彼は矛の使いに長け、みずから先導役を買って出て、藪をかき分けて道を拓いた。

やがて道は開け、孫策が「馬に乗れ」と促すと、虞翻は「私は日二百里を歩く足を持っております。これまで追いつけた者はおりません」と返し、そのまま孫策の馬に並んで歩き続けたという。やがて兵が集合し、三郡は平定される。

また、孫策が黄祖を破った帰途、今度は豫章を落とすと意気込み、守将は華歆に対し、「私の意を伝えてこい。もし城を明け渡さねば、攻めて血を見る」と命じた。虞翻は葛の頭巾と粗末な衣を纏い、堂々と華歆の前に立った。

「君の名声は、我が郡の王朗公と比べていかがか?」と切り出すと、華歆は「及びません」と答える。「兵力と兵糧は?」と重ねると、これにも「劣ります」と答えた。そこで虞翻は告げた。「討逆将軍(孫策)は智勇兼備の雄主。椒丘にはすでに大軍が到着している。今すぐ降れば、民も兵も救われる。明日正午を過ぎて使者が来なければ、君との縁は絶たれるだろう」

その言葉に華歆は、翌朝、自ら城門を開き、無血開城を果たした。これぞ虞翻の弁舌、剣よりも鋭く、矛よりも強し。

東人の矜持と、蕭何の器たる者

孫策が豫章を平定したのち、呉に凱旋し、将士を労った。そしてある日、虞翻にこう語りかけた。「私はかつて寿春にて馬日磾と面会し、中原の士人たちとも語らった。だが彼らは東方の才を見下していた。君は博識で見識も深い。その君が許に行き、彼らの妄言を論破してくれれば、どれだけ痛快であったか。だが卿は動かず、子綱(張紘)を代わりに遣わせた。だが、彼では奴らの口を塞げまい」
ようは、張紘は優秀だけど礼儀を重んじるから、相手を論破はできないだろうってことである。

虞翻は臆せず、やや口元に笑みを浮かべながら答えた。「虞翻は明府の家宝でございます。家宝を他人に見せれば、奪われるやもしれません。ですから、あえて参りませんでした」

その一言に、孫策は豪快に笑い、「なるほど。だが私は征戦続きで、府に留まれぬ。君には功曹として、私の蕭何となり、会稽を守ってほしい」と頼んだという。
その三日後、虞翻は郡へと戻され、後方の政務を託された。孫策が前線に立ち、虞翻が後方を固める。その信任関係には、軍と政を二分して担う、智将と賢臣の理想のかたちが垣間見える。

孫策の死・江東の安定を守る

建安五年(200年)、孫策が許貢の門客に刺されて急逝したとき、江東はまさしく岐路にあった。多くの県の官吏が会稽へ赴き、喪に服しようとする中、富春県長の虞翻だけは、いま県を空にすれば、賊徒や変民が州県を荒らすだろうとその場を離れなかった。

こうして虞翻は富春に留まりつつ、官舎で孫策の喪を務めた。その姿が周囲に与える影響は小さくなかった。他の官吏たちも残留した。 孫策の従兄・孫暠(孫堅の弟の子)がが混乱に乗じて会稽を奪わんと軍を進めた。これに対し虞翻は城を守りつつ、「いまこそ、乱を避け、民を守るべきときです。ここで無理に動けば、取り返しがつかなくなる」 と毅然と語り、孫暠はこれを聞いて退いた。 虞翻の言葉と節義は、乱世の入り口でひとつの火種を消し去ったのである。

その後、虞翻の忠誠と見識は広く知られるようになり、やがて州より茂才に推挙された。さらに後漢朝廷からは侍御史としての召命が届くが断っている。曹操も司空として招いたが、虞翻はこれを聞いて笑い、「盗賊の金で、私を汚すのか?」と語り、きっぱりと辞退したという。

その言葉の端々には、権勢に屈せず、節を守る者の誇りと覚悟がにじんでいた。

孫権に仕えて直諫を繰り返す

孫権が兄の後を継いで江東を統治するようになると、虞翻は騎都尉に任じられた。
しかし虞翻はその直情的な性格から、容赦のない諫言を繰り返した。 孫権は彼を快く思わず、誹謗中傷を受けることも多かったため、丹陽郡の涇県に左遷された。

呂蒙の荊州奇襲と虞翻の進言

建安二十四年(219年)、呂蒙は「体調不良につき療養します。」と言い残し、堂々と建業へ帰還した。
もちろんこれは表向きの話で、内実は荊州奪還の準備である。
それだけでなく、呂蒙は、虞翻の復帰を図ろ、医術に詳しいと評判の虞翻を同行させるよう願い出た。孫権もこの筋書きに目をつぶり、虞翻は流刑から晴れて赦免となった。

やがて計略は動き出し、南郡へと進軍した呂蒙は、太守の麋芳があっさり降伏したにもかかわらず、なぜか城には入らず、河岸でのんびり雅楽を奏で始めた。
虞翻はこれを見て、「城の中を確かめるのが先です。麋芳は降っても、城内が全員同じとは限りません。伏兵が出てからでは遅い。今すぐ入城し、先手を打つべきです。」と進言した。
呂蒙は即座にその忠言を受け入れ、すぐに入城。果たして虞翻の読みは的中しており、反乱の芽を事前に刈り取ることができた。戦場の医者は、戦略の名医でもあった。

さらにその後、関羽が敗走すると、孫権は占筮にも通じていた虞翻に未来を占わせた。
「二日と経たず、首が飛ぶでしょう。」と彼の予言は的中し、関羽は命を落とした。
孫権は「君は伏羲には届かぬが、東方朔には並ぶな。」といった。

于禁を侮辱し孫権の怒りを買う

建安二十四年(219年)、関羽の敗死後、捕虜となっていた魏の将・于禁が孫権のもとに送られた。孫権は彼を厚遇し、自ら馬を並べて乗るという特別な待遇を与えた。しかしこの様子を目にした虞翻は、黙っていなかった。「降将ごときが君主と馬首を並べるとは、何様のつもりだ」と激怒し、手にしていた馬鞭で打とうとしたのを、孫権が慌てて制止したという。

この一件で空気が冷えたのも束の間、後日、孫権が楼船で催した宴席ではさらに冷や汗ものの場面があった。音楽が流れると、于禁は感極まって涙を流した。これに場の空気はしんみりしたのだが、虞翻はそこでも容赦なく、「芝居がかった泣き真似で許しを乞うつもりですか」と、ピシャリ。さすがに孫権も顔をしかめた。

黄初二年(221年)、魏との和睦により、于禁を北へ帰還させる案が出たときも、虞翻はまた異を唱えた。「あれは数万の兵を率いて降った者です。死も選ばず、誇りも持たず。斬って三軍の戒めとすれば、後に続く者たちの教訓になりますぞ」とかなり手厳しい。

孫権は虞翻の進言を退け、于禁の帰国を許した。見送るその日、虞翻は于禁にこう一言だけ告げた。「呉には才人がおらぬと思うなよ。私の策が使われなかっただけのことだ。」 于禁は憎しみを抱かれていたが、この言葉には内心で敬意を払い称賛し、魏の文帝・曹丕は、その人物を評価して空席を設けておいたとも伝わる。

酒宴での放言と命懸けの弁明

黄初二年(221年)、孫権が呉王に即位し、盛大な宴を開いて群臣を労った。酒がまわる中、孫権自ら杯を携え、列席する臣たちに酌をして歩いたが、虞翻は酔ったふりをしてごろりと床に寝転がった。ところが孫権が通り過ぎた瞬間、ひょいと起き上がる。あまりにあからさまな態度に、孫権はさすがに堪忍袋の緒が切れた。

「虞翻、貴様ぁ!」と怒号とともに剣が抜かれ、その場は凍りつく。だがそこで立ちはだかったのが、大司農・劉基だった。彼は孫権にすがりつきながら訴える。「大王、今ここで善士を斬ってしまえば、誰が心から仕えましょう。徳をもって人を集めたからこそ、呉はここまで来たのではありませんか」

孫権は剣を握りしめたまま答えた。「曹操ですら孔融を斬った。私が虞翻を斬って何が悪い?」 しかし劉基は一歩も引かない。「だから曹操は恐れられても、敬われはしなかったのです。大王は堯や舜に比される器を持つ方。なぜ自らを曹操の座に並べるのですか」

その言葉に、孫権はしばし沈黙し、やがて剣を収めた。虞翻の首は落ちずに済んだが、孫権の心中にわだかまりが残ったのも事実である。彼の放言はもはや笑って済ませられる域を超えており、その忠直さは、呉における彼自身の立場を危うくする刃にもなりつつあった。

孫権の怒りを買った虞翻の率直さ

虞翻は孫権の怒りを買ったにもかかわらず、言動を改めるつもりはなかった。
ある日、船で移動中に麋芳の船と行き違いになった際、麋芳側の先導役が「将軍(こちらの)の船を避けよ!」と叫んだのを聞き、虞翻は怒りを露わにして言った。「忠義と信義を失って、どうして君主に仕えることができるのか? 二つの城を裏切っておいて、将軍と名乗るとは何事か!」 麋芳は返答せず、扉を閉じて急いで道を譲った。
また別の日、虞翻が車で通行中、麋芳の陣営の門が閉じて車が通れなかったことに再び憤慨し、「開けるべきときに閉じて、閉じるべきときに開く(関羽を裏切り、敵に城を開けて降伏し、今度は味方なのに閉じている)。道理に反しているではないか!」と声を上げた。麋芳は恥じ入る様子を見せたという。

虞翻はその率直さゆえに酒席で失言も多かった。孫権と張昭が神仙(仙人)の話をしていたとき、虞翻は張昭を指して、「死んだ者を神と呼び崇めるとは。仙人などこの世にはあるものか!」と断言した。これが決定打となり、孫権は虞翻を交州へ左遷した。だが流されても、彼の学問への情熱は衰えず、遠地でも講義を続け、門人は常に数百人に及んだ。

また、『翻別伝』によれば、孫権が皇帝を称した際に虞翻は上奏文を送って、自分の罪を認めつつも命を保ってきたことへの感謝と、老いと衰えの胸中を述べ、祝宴に参じられない悲しみも告げた、と記されている。そして『老子』『論語』『国語』の訓注を著し、これらはいずれも後世に伝えられた。

遠地からの憂国と最期の時

交州に左遷されても、虞翻の憂国の念は少しも衰えなかった。黄武七年(228年)、遼東の公孫淵が孫権と通交を試みると、遠く離れた地からその動きを注視し、嘉禾元年(232年)、孫権が周賀と裴潜を遣わして遼東へ馬を求めさせたときも、「遼東は遠すぎる。馬を得たところで得るものは少なく、費やすものの方が大きい」と即座に見抜いた。

だが中央に進言できる立場にはなく、彼は刺史呂岱に諫言を託した。ところが呂岱は耳を貸さず、逆に孫権に虞翻を中傷し、彼をさらに奥地の蒼梧へ流すよう仕向けてしまう。
その後、周賀らの遼東遠征は暴風に遭って難破し、魏将田豫の攻撃も受けて壊滅的な失敗に終わった。孫権は悔い、「虞翻がそばにいれば、この過ちは避けられた」と嘆いたという。

そこで彼は虞翻を捜索させ、生きていれば建業に迎え、すでに没していれば遺骸を郷里の会稽に送り返し、子を仕官させるよう命じた。 しかしそのときすでに虞翻は没しており、時に嘉禾二年(233年)、享年七十であった。

虞翻の評価

虞翻は、生涯を通じて直言を貫いた人物だった。主君であろうと、相手が誰であろうと、誤りがあれば容赦なく諫めた。于禁の降伏を非難し、孫権に対しても幾度となく刃のような言葉を投げかけたのは、その代表例である。

このためにたびたび孫権の怒りを買い、流罪にも処されたが、虞翻は沈黙せず、正論を曲げることもなかった。遠地にあっても政情を憂い、上奏を続けた姿は、単なる頑固者ではなく、国家を思う真摯な忠臣であったことを示している。

彼の評価は敵国にまで及び、魏の文帝・曹丕は虞翻を高く称賛し、彼のために空席を設けたという。諫言が不興を買っても、正道を曲げなかったその姿勢は、後世にも「狂直の士」として語り継がれた。

虞翻の生涯は、直言がいかに重く、そして時に危ういものであるかを教えてくれる。だが同時に、それが真に国を支える力となることも、彼は身をもって証明したのである。

参考文献

虞翻のFAQ

虞翻の字(あざな)は?

虞翻の字は仲翔(ちゅうしょう)です。

虞翻はどんな人物?

虞翻は直言を好み、しばしば孫権を怒らせましたが、学問に秀で忠義を尽くす人物でした。

虞翻の最後はどうなった?

嘉禾二年(233年)、遼東遠征を諫めるも容れられず蒼梧へ流され、翌233年に70歳で亡くなりました。

虞翻は誰に仕えた?

虞翻は孫策と孫権に仕えました。後漢や曹操からの招聘もありましたが、すべて辞退しました。

虞翻にまつわるエピソードは?

呂蒙が南郡を攻めた際、降伏直後の城中に伏兵があると見抜き、早急な入城を勧めて危機を救いました。

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