1分でわかる忙しい人のための呉範の紹介
呉範(ごはん)、字は文則(ぶんそく)、出身は会稽上虞、将没年(?~226年)
呉の官僚で、東呉「八絶」の一人に数えられた人物である。暦法や風気に通じ、未来の吉凶を占う能力で名を知られた。若くしてその学識が評価され、陶謙に仕えて揚州従事となったのち、孫権の政権下で仕官した。
建安十二年(207年)には黄祖討伐に際して翌年の劉表の死を予見し、また劉備が益州を掌握することも正確に予言した。さらに関羽討伐においても捕縛の時刻を言い当てるなど、占断は驚異的な的中率を誇った。
孫権はたびたび呉範に意見を求め、騎都尉や太史令に任じたが、呉範は術数を秘匿したため不信を招き、論功行賞では侯に封じられなかった。黄武五年(226年)に病没し、長子に先立たれ、幼子は未熟であったため彼の術数は後世に伝わらなかった。
『三国志』は彼を剛直で自称を好む人物と記す一方、親しい者への情は厚く、魏滕を救うため命をかけて孫権を諫めるなど忠義心を示した。呉範は東呉の知略を象徴する一人であったといえる。
呉範を徹底解説!予言と術数で孫権を支えた呉の八絶の一人
孫権出仕までの道
呉範は若くして、暦法や風気に通じていた。
つまり、星の動きとか、風の流れとか、そういう自然のリズムに敏感だったのだ。
その才能は地元の会稽郡でも知られるようになり、やがて洛陽で仕官する話が持ち上がる。
だが、ちょうどその頃に天下が乱れ、予定は白紙になり、人生プランは瓦解している。
それでも呉範は埋もれなかった。
時を経て、徐州牧の陶謙と関わりを持つようになる。
『後漢書』には、陶謙が別駕従事という役職で趙昱を迎え入れようとしたが、「病気」として断る、まあ、気が進まなかったのだろう。
そこで陶謙は呉範に「ちょっと説得してきてくれ」と命じる。
当時、呉範は揚州従事という立場だったが、同郷のよしみと知性への信頼があったのか、任されたた。
だが趙昱は頑なで、口で言ってもまったく動かない。
結局、陶謙は刑罰をチラつかせるような威嚇で、ようやく承諾させたという。
たぶん呉範としては、「いや、そんなつもりじゃなかったんだけど…」と内心戸惑ったに違いない。
孫権政権での活躍
戦乱の濁流に揉まれていた呉範だったが、
江東を統一した孫権の政権下で、正式に仕官して、ようやく仕えるべき場所に腰を落ち着けることになる。呉範の仕事は、少し変わっていた。
朝廷に舞い込む、災異や瑞祥、つまり地震や星の動き、動物の異変といった時に彼が呼び出される。しかもそれが、やたらと当たった。
例えば「白い鳥が都に舞い降りた」とか「天に光の輪が現れた」といった出来事が起きるたび、
「これは豊穣の兆しです」「民に徳が行き渡った証です」
と呉範が一言述べると、それがもう神託のような効力を持った。
もちろん、後出しジャンケンのような占いではなかった。
彼は暦法と風気、つまり自然現象の観察と計算によって「意味」を導き出す。
その的中率があまりに高く、もはや「呉範がそう言ったからそうなんだ」という逆転現象が起きる始末。
時代が乱れているとき、人々は言葉にできない不安をどうにかして処理しようとする。
呉範はそれを言葉にして、秩序に変換した。
政策の裏付けに、戦の前触れに、祭祀の方角に、彼の言葉が使われた。
どこか神秘的でありながら、冷静な思考の持ち主。
そういうバランスが、呉範という人物の評価を決定づけていった。
そしてよく当たる占い師から政に必要な知の人へと、彼の立ち位置は確立されていく。
黄祖討伐と劉表の死を予言
建安十二年(207年)、甘寧の進言により、孫権が「黄祖を討伐しよう」と意気込んだ。
ところが、ここで呉範がひとこと。
「今年は動くべきではありません。利益が少ないです。来年の戊子(ぼし)には劉表が死に、その国も持ちません」
いわば「今年は見送り、来年一気に勝ち取りましょう」という助言だった。
だが、孫権は聞かず、軍を動かした結果、戦果は上がらず、予言は的中。
そして迎えた翌年。孫権が再び兵を挙げる。
尋陽(じんよう)に差し掛かったあたりで、呉範が風気を観察し、即断即決で言い放った。
「今、すぐ進むべきです」
その言葉に従って軍を進め、江夏で黄祖軍と激突する。
結果、大敗北した黄祖は逃げた。
孫権は当然焦り「ここで取り逃がしたら意味がない」
しかし呉範は涼しい顔で言う。「遠くには行けません。必ず生け捕りになります」まるでGPSでも持っているかのような確信である。そして五更(午前3時~5時)を過ぎたころ、ほんとうに黄祖は捕まった。
走る体力も、逃げ切る算段も尽きたのだろう。
その後まもなく、予言通りに劉表が死去し、荊州は分裂する。
呉範の読みは、ここにきて占いの域を越え、戦局の気配を読む人としての重みを持ち始める。
劉備の益州奪取を予言
壬辰の年(211年)、呉範は「甲午の年(214年)には、劉備が益州を手にする」
まるで天気予報みたいに未来を指定して断言する。
その場にいた誰もが「そんな先のこと、どうやってわかるんだ」と心の中で突っ込んだに違いない。
やがて、呂岱が蜀からの帰路、白帝にて劉備の軍勢を観察した。
彼が報告した内容は、呉範の予言とは真逆で、「兵は疲弊しており、勝利の見込みはありません」
実践派の現場レポートを聞いた孫権は、さすがに呉範の言葉を疑う。
ここで呉範が静かに言い返す。「私が語るのは天の理、呂岱が見たのは人の事情」と言い切った。
そして建安十九年(214年)、劉璋がついに劉備に降伏し、益州はその手に落ちた。
荊州攻略と関羽の最期を的中
関羽といえば、名将・義将・三国志のスター。
その関羽を襲撃する計画を、孫権と呂蒙が練り始めたとき、まわりの近臣たちは揃って青ざめた。
「無理ですって」「うまくいくはずがありません」と反対する。
そこで、孫権は呉範に意見を求めた。
すると呉範は、ひとことだけ「成功します」と言った。
その後、関羽は麦城に追い込まれ、ついには降伏の意思を示した。
だが呉範は「逃げる気です。その言葉は偽りです」と関羽の本心を見抜いた。孫権は呉範の言葉を信じ、潘璋に命じて関羽の退路を塞ぐが、偵察が戻ってきて「もう関羽は去ったようです」というものだった。
そのとき、呉範はきっぱり「去ったとしても逃れられません、明日の正午に必ず捕らえます」と言い放つ。孫権は水時計を用意し、その時を待ったが、正午になっても、何も起きない。
「おい、呉範。ハズレか?」と内心で思ったそのとき、呉範は涼しい顔で言う。
「まだ真の正中ではありません」
何をもって「真の正中」とするのか不明だが、その瞬間を見逃さない。
しばらくして風が帷を揺らした瞬間、呉範は手を打ち「関羽が至った」と告げた。まもなく外で万歳の声があがり、関羽が捕縛されたとの報が届いたのである。
ここまでくると、呉範の占断は勘がいいや予測が当たるといったレベルではない。
天候、時間、動き、人心。すべてを織り交ぜて導き出す「読み」だった。
魏と蜀の動きを予見
夷陵の戦いの前、孫権は魏との和睦を試みた。魏は呉王に任命し、同盟という臣従を受け入れる。 だが、呉範はすぐにその皮を剥いでしまう。
「この和睦は見かけだけ。中身は罠です。警戒してください」
和睦を喜ぶ者が多い中、呉範だけが警告を発していた。
やがて劉備が動いた。兵を挙げ、蜀と呉の全面衝突に突入する。いわゆる夷陵の戦いが始まると、呉範はまた予言する。
「この争いの後、必ず再び和親となる」
要するに「今は争うけど、最終的には仲直り」との読みだが、それはあまりにも遠い未来のようにも聞こえた。
蜀は夷陵で大敗。劉備の野望は燃え尽き、魏はそれを見計らったように洞口へ侵攻してくる。
劉備が没し、蜀の立場が変わると、態度は一変し、鄧芝を使者として呉に送り、講和を求めてきた。あれだけ戦った蜀が、自ら歩み寄る。
「和睦は偽り」「でも最後には和親になる」
この両方を同時に語った男は、誰の味方でもなかった。
現実の裏と表を見抜き、それでも前を読もうとする姿勢だけが彼の持ち味だった。
晩年と死去
まだ孫権が将軍のころのこと。呉範は「江南には王者の気があります。亥子の間に、大きな福が訪れるでしょう」と口にした。
それを聞いた孫権は笑って答えた。
「もし本当にそうなったら、お前を侯にしてやる」
約束のような、軽口のような。未来はまだ冗談の中にあった。
だが数年後、孫権は本当に呉王として即位する。
宴の席で呉範はあの時のことを持ち出した。
「昔、呉にいた頃に申しました件を、大王は覚えておられますか」
孫権はすぐに「覚えている」と答え、側近に命じて印綬を取り寄せ、呉範に渡そうとした。
だが、呉範はそれを受け取らなかった。
「そのときの一言は、こういう形で帳消しにするためのものではない」
そう言いたげに、彼は静かに手で押し返した。
形式的なご褒美では、あのときの会話の意味が霞んでしまうと思ったのだろう。
その後、功績による正式な封爵の詔が出され、呉範は都亭侯に任じられるはずだった。
ところが、ここにきて孫権の気持ちが揺れる。
「こいつ、なんでもズバズバ言ってくるから、正直めんどくさいんだよな」
そう思ったのかどうかは定かでないが、公布の直前、呉範の名は削除された。
黄武五年(226年)、呉範は病に倒れ、そのまま世を去った。
長子はすでに亡く、残された子はまだ幼い。
呉範が命を懸けてきた「術数」は、そこでぷつりと絶えた。
孫権は深く惜しみ、三州に詔を出した。
「呉範や趙達のような者がいれば、見つけ次第、千戸侯にする」
だが、そのような者は、ついに見つからなかった。
歴史において「再現されない才能」は、ときに人の心を縛る。
『呉録』によれば、呉範は死の間際に、自らの終わりを悟っていた。
そして孫権にこう告げた。
「陛下はこの日に軍師を失うことになります」
孫権は不思議そうに答える。
「私は軍師を置いていないのに、どうして失うことがあろうか」
すると呉範は言った。
「陛下が軍を出すとき、必ず私の言葉を待ってから行動されます。ゆえに私は軍師なのです」
そして、その日。呉範は言葉通りに亡くなった。
ただし裴松之は「その時点で孫権はまだ皇帝を名乗っていない。『陛下』というのは誤りだ」と冷静に注記している。
だがその指摘もまた、彼が言葉の重さを信じていた証拠なのかもしれない。
性格と人柄
呉範という男は、一言でいえば剛直だった。
占い師や風水師と聞けば、どこか胡散臭さや柔和さを思い浮かべるかもしれない。だがこの人は違う。自分の言葉に責任を持ち、友への情に命を懸けた、筋金入りの剛骨だった。
特に知られているのが、魏滕との友情である。
同郷の魏滕が過ちを犯し、孫権の怒りを買ったとき、宮中では「諫める者は即死」というお触れまで出ていた。
誰もが見て見ぬふりを決め込む中、呉範は「共に死のう」と語りかけた。
魏滕が「死んでも無意味だ」と言っても、「見過ごせるものか」と言い、自ら髪を剃って縄で体を縛り、罪人の姿で宮門へ向かった。
門番の役人にも命を懸けるよう迫った話は有名だ。
「子どもはいるか? ならば、お前が呉範のために死んでくれたなら、その子は私が養う」
無茶にも思える話に、役人は押し切られる。そして呉範は孫権の前に立った。言葉を発する前から怒声が飛び、戟で殺されかける。一度退いたあと、なおも突入して叩頭し、血を流して涙ながらに魏滕の命を訴えた。その熱意に、ついに孫権の怒りは解け、魏滕は赦された。
後日、魏滕はこう言ったという。
「父母は私を産み育てたが、死からは救えなかった。だが君は、友情で私を救ってくれた」
それは、血縁以上の絆を感じさせる言葉だった。
呉範はただの占術家ではない。
学識でも知られ、風気や天文、占断の知においては一流であり、呉の「八絶」の一人に数えられた。
この「八絶」とは、劉惇・趙達・厳武・曹不興・皇象・宋寿・鄭嫗、そして呉範のことである。
それぞれが医術、術数、軍略、絵画、書道、彫刻、占術、風気などで傑出し、その名は時代を超えて残る。
その強さは、正しさを曲げず、命を賭しても義を貫く姿にあらわれていた。
信じるもののために、危険の中に足を踏み入れる、その覚悟にこそ、彼の本当の価値があった。
参考文献
- 三國志 : 呉書十八 : 呉範傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書十八 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 呉書五 : 孫破虜呉夫人傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 後漢書 : 列傳 : 劉虞公孫瓚陶謙列傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:呉範 – Wikipedia
呉範のFAQ
呉範の字(あざな)は?
字は文則(ぶんそく)です。
呉範はどんな人物?
呉範は剛直で自称を好む一方、親しい者には尽くす人物でした。魏滕を救うため命を懸けて孫権を諫めた逸話があります。
呉範の最後はどうなった?
黄武五年(226年)に病没しました。長子は早世し、幼子も未熟であったため、彼の術数は断絶しました。
呉範は誰に仕えた?
最初は陶謙に仕え、その後孫権に仕えました。
呉範にまつわるエピソードは?
建安十二年(207年)に黄祖討伐を予言し、翌年にはその通りに劉表の死と荊州の混乱が起こりました。また、関羽捕縛の正確な時刻を言い当てたことでも知られています。
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