1分でわかる忙しい人のための郤正(げきせい)の紹介
郤正(げきせい)、字は不明、出身は益州、生没年(?~278年)
郤正は蜀で学識を蓄え、秘書令として長く仕えた文人である。 若い頃に父を失い、母の再婚で親族の支えを欠いたが、貧困をものともせず読書に没頭し、益州の書物を読み尽くしたと伝わる。
その後、秘書吏から秘書令へと昇進し、名利に淡く政争から距離を置いた。
景耀六年(263年)には蜀の降伏文書を執筆し、翌年の混乱では劉禅に随行して洛陽へ移り、後主の振る舞いを支えた。 晋では安陽令や巴西太守を務め、忠節と治績を称された。文学にも秀で、数百篇の作品を残した人物として知られる。
郤正の生涯を徹底解説!黄皓の専権期にも厚遇も冷遇もされず出世は遅れたが、蜀の降伏文書を託された文臣
学問に励んだ青年期
郤正の父・郤揖は孟達に従って魏へ降伏し、その後すぐに亡くなった。母は再婚し、郤正だけが益州に取り残された。身寄りもなく、頼れる者もいない状況で、彼は黙って学問に打ち込んだ。寒さをしのぐ火鉢もなく、ただ書物だけが心の暖だった。
やがて秘書吏に採用されると、秘書令史、秘書郎、そして秘書令へと昇進していく。出世には関心を示さず、文章だけに心を注いだ。益州にある書や論文を片っ端から読み漁り、司馬遷・王粲・楊修・班固・傅毅・張衡・蔡邕といった文人たちの作品をほぼ網羅した。
黄皓との中立な関係
郤正は宦官・黄皓と三十年も同じ役所にいながら、あえて敵にも味方にもならずに通した。黄皓といえば、身分も学もない出自から、いつの間にか権力のど真ん中に座っていた人物である。そんな相手に取り入ることなく、かといって牙を剥かせることもなく、六百石という微妙なラインで役所に留まり続けた。
彼は表立った主張は避けながらも、先儒の規範に則り、文章をもって己の意を述べ「釈譏」と題されたその文は、崔駰の「達旨」の系譜を継ぐものであった。内容は長いので、ここでは割愛するが、要は「私が功名を求めないのは、あなたたちよりも高い道徳的基準と深い見識を持っているからだ」であった。
降伏文書の執筆と洛陽移転
景耀六年(263年)、鄧艾の侵攻によって蜀の命運は風前の灯となった。後主・劉禅は、光禄大夫・譙周の進言を受け、ついに降伏を決意する。記録には淡々と「降伏した」としか残っていないが、その舞台裏では、一通の文書が必要とされていた。国の命運を託す公式な降伏文書を任されたのが郤正である。
これまで地道に文書の整理をしてきた彼に、いきなり国家の幕引きを書く大役が回ってきたのである。人生で一度あるかないか、いや普通は一度も巡ってこない類の仕事だった。郤正はこれを粛々と書き上げ、使者に託して鄧艾の元へと届けさせた。これが蜀の正式な降伏となる。
翌年正月、今度は鍾会が成都で反乱を起こし、宮中は騒乱の渦に包まれる。後主・劉禅は洛陽への移送を命じられるが、このとき蜀は騒乱と混乱で重臣たちは付いて行かなかった。ただ、郤正と殿中督・張通だけが、家族を残して単身で随行する。
※実際は廖化・董厥・樊建・宗預等も移送されている。
このときの郤正の働きぶりは的確で、一切の動揺もなかったという。後主はその様子に舌を巻き、「もっと早く彼のことを知っていれば……」とため息をもらした。世間の評価もこれに倣い、郤正は関内侯の爵位を授けられた。
晋での登用と評価
蜀が滅び、政権が晋に移ってからも、郤正は見捨てられなかった。まずは安陽令に任じられ、やがて泰始八年(272年)には巴西太守へと昇進する。
この人事には、きちんと理由が添えられていた。詔には「成都にあった頃、艱難にあっても義を守り、忠節を屈しなかった」とあり、さらには「登用後は心を尽くして政務に励み、治績を挙げた」と賞されている。妻子を捨てて東へ向かった男がついに報われたのである。
咸寧四年(278年)、郤正はその生涯を終える。数百篇にも及ぶ文学作品を残した。
『三国志』の陳寿は、郤正の文章を「華やかで、張衡や蔡邕にも劣らぬ」と評した。そしてその人柄についても、ただの才子ではなく「行いも正しく、君子が学ぶべき範とすべき存在である」と述べている。
人生は地味だったかもしれないが、その筆と人格まで認められた数少ない存在だった。
「楽不思蜀」の宴席で見せた助言
蜀滅亡後、劉禅は洛陽で安楽県公の称号を与えられた。ある日、司馬昭の催した宴で蜀の音楽が演奏されると、旧臣たちは涙を流したが、劉禅だけは涼しい顔。その様子に司馬昭が「蜀が懐かしくはないのか」と尋ねると、劉禅は「この地も楽しくて、蜀のことなど思いません」と軽やかに答えた。
これを見た郤正は冷や汗をかきながら席を外し、こっそり劉禅に進言する。「次に同じ質問をされたら、まず宮殿の天井を見上げ、目を閉じてから静かにこう申すのです。『祖先の墓は蜀にございます。思わぬ日はございません』と」
宴も中盤、司馬昭は再び同じ問いを投げかけた。すると劉禅は、例の手順通りに振る舞い、先ほどとは打って変わってしみじみとした口調で答えた。これに司馬昭はニヤリ。「それ、郤正の入れ知恵だろう」と即座に見破る。
驚いた劉禅が「なぜ分かったのですか」と尋ねると、場は笑いに包まれた。この一件で、司馬昭は「劉禅は深謀遠慮など持ち合わせぬ人物」と確信し、それ以降、特に疑いを持たれることもなく、劉禅は洛陽でのんびりと余生を送ることができた。
そしてこの「蜀を思わぬ」発言が、後に「楽不思蜀」という成語の由来となった。
参考文献
- 三國志 : 蜀書十二 : 郤正傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 蜀書三 : 後主傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 三國志 : 蜀書十五 : 宗預傳 – 中國哲學書電子化計劃
- 参考URL:郤正 – Wikipedia
郤正のFAQ
郤正の字(あざな)は?
郤正の字は不詳です。
郤正はどんな人物?
貧しさの中でも学問を好み、忠節を重んじ、文章に長けた人物です。
郤正の最後はどうなった?
晋の咸寧四年(278年)に死去し、数百篇の作品を残しました。
郤正は誰に仕えた?
蜀の後主劉禅に仕え、蜀滅亡後は晋政権に登用されました。
郤正にまつわるエピソードは?
劉禅の洛陽移転に随行し、楽不思蜀の宴席で劉禅に助言した逸話が特に有名です。




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