1分でわかる忙しい人のための蓋勳の紹介
蓋勳(がいくん)、字は元固(げんこ)、出身は敦煌郡廣至県、生没年(141~191年)
後漢末期において、正義と剛直を貫いた官僚、それが蓋勳である。漢陽長史としての初任地では、私怨のある人物を救うことで忠と仁を守り、政治に個人的感情を持ち込まぬ姿勢を明確にした。
涼州の乱では敵軍の包囲を打ち破り、三度の負傷を負いながらも退かずに抵抗し、その勇敢さは敵の首領すら感嘆させた。
飢饉の際には自らの家糧を放出して民を救い、漢霊帝の信任を得て討虜校尉、京兆尹と昇進していくが、宦官や権力者との癒着を拒み続けたため常に孤立していた。
董卓が政権を掌握すると、蓋勳は痛烈な上書を送り、皇甫嵩とともに反董卓の密謀を進めるも、計画は頓挫。最後まで屈せず、死の間際には「董卓の贈物は受け取るな」と遺言した。
その生涯は、義に厚く、理に殉じ、権力に迎合せぬ人物像を現代に伝える。
蓋勳を徹底解説!羌族・宦官・董卓に屈せず、正義と忠義に生きた不屈の官僚
仇を許して義を貫く、漢陽長史としての最初の試練
蓋勳が孝廉として推挙され、最初に任じられたのは漢陽長史であった。ちょうどその頃、武威太守が権勢を背景に横暴と収奪を繰り返しており、そんな中でこの男を調査したのが、武都の従事・蘇正和である。
涼州刺史の梁鵠は、この騒動を面倒に思い、「いっそ蘇正和を殺して終わりにしよう」と考えた。で、部下の蓋勳にお伺いを立てる。ちなみに蓋勳と蘇正和は犬猿の仲だった。知人レベルですらない、敵同士である。
「なあ、あいつ殺してもいい?」と。これに「どうぞどうぞ」と蓋勳が乗っかれば、仇を取る千載一遇のチャンスだった。
しかし蓋勳は言った。「賢者を害するのは忠ではないし、困っている人を蹴落とすのは仁ではない」と。誰に向かっての名言かはさておき、梁鵠を見事説得し、蘇正和は命拾いする。
この話には続きがある。助けられた蘇正和が感謝しようと訪れると、蓋勳は面会を拒絶。「私は梁鵠のために動いただけで、お前のためじゃない」と冷たく言い放った。
義は果たすが、私情は忘れない。嫌いなものは嫌い。そんな態度をさらりと貫くところに、この男の筋の通し方がある。
涼州の乱での戦功と左昌への諫言
中平元年(184年)、北地の羌胡が辺章・韓遂らと結託し、隴右地方を侵略した。 こんなときに限って刺史・左昌が防衛予算を横領し、軍糧数万石を丸ごとくすね隠した。
蓋勳はこれを真正面から咎めたが、左昌はブチ切れて「お前は阿陽に行って賊軍と戦ってこい」と、蓋勳・辛曾・孔常を前線に放り投げる。名目上は防衛分担であったが、実際には蓋勳に罪を着せる機会を伺うための処分であった。
しかし、蓋勳は強く次々と戦功を立て、左昌の思惑を裏切る。 その後、叛乱軍の北宮伯玉が金城を攻撃した際、蓋勳は左昌に対し救援を勧めたが、左昌は当然のように無視した。
結果、金城太守・陳懿が戦死し、辺章軍は勢いづいて冀県まで押し寄せ、なんと左昌のいる冀県が包囲されてしまう。 今度は困った左昌は、「助けて蓋勳」と泣きつく。
しかし、同行していた辛曾・孔常らは事態の深刻さに怯え、出兵を躊躇した。
このとき蓋勳は、「昔、司馬穰苴(春秋時代の斉の将軍)が莊賈を監軍に任じた際、莊賈が閲兵に遅れたために法をもって処刑した。 今の我々がそれに比して軍令を無視してよいのか」と軍律の重要性を強調し、辛曾らは観念して出兵を決意し、蓋勳は冀県へ向かった。
冀地に到着した蓋勳は、辺章ら叛乱軍に対し、朝廷に背いた罪を厳しく問い詰めた。 すると辺章らは、ちょっと意外な言葉を返してきた。
「左昌があなたの言うことを聞いて、早くに俺たちを討伐していたら、俺たちにもまだ改心の余地があった。だが今は罪が重すぎて、もう降伏なんてできない」
要するに「手遅れなんだよ」と開き直っているが、何にせよ、その場で包囲を解いて去っていった。
宋梟の愚策への直諫と民心を見抜く洞察
涼州刺史が左昌から宋梟に代わった。彼は統治の気合は入っていたが問題はその方向である。
「この州の連中がいつも反乱を起こすのは、学問が足りんからだ。だから全戸に『孝経』を配って学ばせれば、きっと礼儀正しくなるはずだ」と、暴動多発地域に道徳教材を配ろうとする。
これを聞いた蓋勳はすぐさま諫言。「太公が斉に封じられた国でも内乱は起きたし、伯禽が治めた魯でも王を殺すような事件は起きている。そんな学者が多い土地ですら反乱があるのに、今さら本を配ってどうするんですか。先にやるべきは、混乱を静めるための実務じゃありませんか?現実無視の空理空論で人民の恨みを買い、朝廷に笑われるようなことをして、誰が得するんですか」と。
言っていることは至極まっとう、というよりもほぼ正解である。だが宋梟は聞く耳を持たず、「学べば人は変わる」と信じて疑わなかった。
結果、中央から「お前、何してんの?」というお叱りの詔が届き、宋梟は「実効性のない行為で虚勢を張った」として罪に問われて召還された。
ちなみに、この件で蓋勳は褒められてもおかしくなかったが、特に何もなかった。
夏育救援戦の奮戦と羌族への義勇の印象
漢陽郡にて、護羌校尉の夏育が羌族の叛乱軍に包囲され、絶体絶命の状況に陥った。
蓋勳は州郡の軍をまとめ、夏育の救援に向かう。
敵の勢いに押され、蓋勳の部隊は見るも無残に壊滅。彼の周囲には百人足らずの兵しか残っていなかった。しかも彼自身、三カ所に深い傷を負い、血を流しながらも「動かない」。いや、動けないのではなく、動かないのである。
「ここで俺を埋めてくれ」と木札を指さし、もう腹をくくっていた。敗北を悟って逃げるどころか、「俺が死んだ場所を記しておけ」という無駄にかっこいい最期の準備である。
だがここで、事態は思わぬ方向に転がる。羌族の首領・滇吾が「この人は賢者だ、殺したら天が怒る」と叫んだのである。
それでも蓋勳は屈せず、仰天しながら天を仰いで「貴様ら叛徒ごときが、天意を語るな。さっさと殺せ」と罵倒する。これにはさすがの羌軍も黙るしかなく、滇吾は馬を降りて自分の馬を差し出したが、蓋勳は頑として乗らない。
結果、羌軍は彼を殺すことなく漢陽に送り返した。捕虜としての帰還ではなく、「立派な奴だったから帰してやろう」という異例中の異例である。
蓋勳の義勇は、敵の尊敬すら勝ち取った。これを後日談として美談に仕立てるのは簡単だが、現場でやってることは「負けてるのに仁王立ちして敵に説教」という、もはや狂気と紙一重である。
漢陽太守就任と飢饉救済による民衆救護
夏育救援戦での義勇が評価され、涼州刺史・楊雍の推挙により、蓋勳は正式に漢陽太守へと就任する。
そんな漢陽で、まさかの天災が彼を待ち受けていた。大飢饉である。
人々は飢えに苦しみ、生存本能だけで動く獣のように、ついには「共食い」さえ始まったという。道徳が飢餓に負けた瞬間、人間はかくも残酷になれる。
だが、蓋勳はその光景をただ嘆くことはなかった。
彼は公的な穀物を調達し、自らの私財も惜しげなく差し出した。しかも、それを誰にも強制されず、見返りも求めず、ただ生き延びさせるためだけに行った。
このとき彼が救った命は、記録に残っているだけでも千人以上。
大金を寄付するのは簡単だが、自分の米櫃を空にする決断は、どれほどの政治家ができるだろうか。ましてや、自分の手柄を喧伝することなく、黙って施した点において、蓋勳の行動は時代を超えて語り継がれるべきものである。
耿鄙の敗北を予見し辞官、再登用までの経緯
中平四年(187年)、涼州の動乱はますます深刻化し、朝廷は刺史・耿鄙に六郡の兵をまとめ、韓遂討伐を始める。先鋒には程球が任命され、蓋勳もこの討伐戦に参加する立場にあったが、耿鄙の指揮能力に疑念を抱いていた。
蓋勳にとって、この軍事作戦は旗を掲げる前から敗北の臭いしかしないと、その「終わりの始まり」が最初から見えていた。
命じられても動かず、自ら官を辞して、帰郷したのである。
耿鄙の軍略のなさを知り尽くしていた蓋勳にとって、それに巻き込まれることは無益であり、むしろ後方に控えておくことが、己の戦略だったのだ。
その後、蓋勳の見立て通り耿鄙は敗北し、蓋勳は先見の明を認められ、今度は武都太守に任命される。大将軍の何進と、上軍校尉の蹇碩が、わざわざ宴席まで開いて送別してくれるという、かつてない「丁重な歓送」であった。
しかし武都には着任する前に、またもや任命変更で今度は討虜校尉という軍職で都に留められた。
どれほど蓋勳の評価が高かったかを物語っている。
漢霊帝への直言と、反宦官計画の未遂
中平年間、漢霊帝は蓋勳を召見し、「なぜ天下に反乱が頻発するのか」と問いかけた。
蓋勳の答えは、ためらいもなく「宦官の子弟が寵愛を受けているからです」だった。 よりによって、この場には蹇碩も同席しており、霊帝が彼に視線を向けたところ、蹇碩は沈黙するしかなかった。
さらに霊帝が、平楽観で閲兵を行い宝物を賜与するという施策について蓋勳の意見を問うと、彼は「先王は徳をもって威を示し、兵力を誇示しませんでした。遠地の賊に対して、都で閲兵しても討伐の決意を示すことにはなりません」と進言した。
これに感銘を受けた霊帝は、「もっと早く君に会っていればよかった」と述べた。蓋勳の進言は、これまで誰も発したことのないものであった。
当時、蓋勳は劉虞・袁紹とともに禁軍を統率しており、密かに宦官討伐と漢室中興を志していた。彼は二人に「聖上は聡明だ。ただ宦官に惑わされているだけ。皆で宦官を除き、賢才を登用すれば漢は復興する」と語った。
劉虞と袁紹も同意していたが、計画は実行に至らなかった。その頃、張温の推薦により、蓋勳は京兆尹に任命され、霊帝の信任を受けた。
宦官たちはその存在を危険視し、霊帝に承認を促して政界から距離を取らせようとした。
京兆尹としての剛直さと権力への徹底抗戦
蓋勳が京兆尹に任命された後、やる気満々の彼の前に現れたのが、長安令・楊黨で、彼の父が「中常侍」という宦官貴族だった。 楊黨は父の威光を背景に、巨額の金銭を不正に蓄財していたが、蓋勳は調査によってその汚職を暴き、千余万に及ぶ不正蓄財を告発した。
もちろん、裏から手が伸び、楊黨を救おうと蓋勳に働きかけを行ったが、彼は一切取り合わなかった。
報告は朝廷に上奏され、最終的には楊黨の父である中常侍も連座する結果となった。
この一件により、蓋勳の名は洛陽中に鳴り響き、その強直な姿勢は人々に鮮烈な印象を与えた。
董卓への痛烈な抗議文と議郎任命
中平6年(189年)、漢霊帝が崩御し、政局は大きく揺らいだ。
その混乱の中で台頭した董卓は、漢少帝を廃し、何太后を殺害するなど、一線越えた暴挙を、誰もが「そういう時代だよね」とスルーしていく中、蓋勳はただ黙ってはいなかった。
彼は董卓に対して、一通の抗議文を送った。
その書簡には、かつての名臣である伊尹や霍光の例を引き、彼らでさえ晩年は世間の冷たい目にさらされたことを挙げ、
ましてや董卓のような身分の者が権力を濫用すれば、末路は明らかだと厳しく諫めた。
「祝賀の客は門にあれど、弔問の者はすでに墓前にあり」との表現は、当時の人々に強烈な印象を残した。
普通なら抹殺コースだが、この書簡を読んだ董卓は、内心で蓋勳を非常に恐れたと伝えられている。そのため、表面上は柔軟な姿勢を取り、蓋勳を議郎として任命する。 これは名誉というより牽制の意味合いが強かったと見られる。
皇甫嵩との連携失敗と朝廷内での孤高の抵抗
中平6年(189年)、董卓が洛陽で権力を掌握し、蓋勳は密かに皇甫嵩と手を組み、董卓打倒を画策した。
皇甫嵩は当時、左将軍として扶風に三万の精兵を擁しており、この二人が手を組めば、世直しのチャンスが芽吹くはずだった。
しかし、皇甫嵩は董卓から城門校尉として召し出されると、「董卓なんて賊にすぎん。今が好機だ」と囁いた長史の梁衍の声も虚しく、聞き入れずに従って上京してしまい、董卓打倒の計画は未然に頓挫した。
蓋勳もまた、渋々ながら皇甫嵩に付き従い、やむなく洛陽へ戻る。
だが、そこで彼が目にしたのは、董卓に媚びる官僚たちの列。
公卿以下、誰もが頭を垂れて平伏する中、蓋勳だけが堂々と礼を取り、決して屈しなかった。
その姿に、周囲の者は驚きと畏怖を覚えたという。
董卓は司徒・王允に「優れた司隷校尉は誰か」と尋ねた際、王允は蓋勳を推薦したが、
「蓋勳は賢いんだけど、扱いにくい」と言って、越騎校尉に任じ、さらには軍の中枢から遠ざけるため、潁川太守へと転任を命じた。
しかし蓋勳が赴任する前に再び中央に呼び戻されるなど、警戒と期待が交錯する複雑な扱いを受けていた。
最期の諫言と遺言による董卓拒絶の意志
蓋勳は董卓の専横を嫌悪しながらも、最後まで強直な姿勢を貫いた。
河南尹の朱儁が董卓に軍情を進言した際、董卓は「自分は百戦百勝である」と傲慢に言い放ち、
他者の意見を退けようとした。
これに対し蓋勳は、「殷王の武丁ですら人の意見を聞いた。お前程度で人の口を塞ぐつもりか」と厳しく諫め、董卓に謝罪させる。彼の剛直な性格は、ここでも揺るがなかった。
だが、彼自身の身体は病に蝕まれていた。初平2年(191年)、背中に腫れ物が発し、ついにその命を落とした。享年五十一。
最期の遺言が、彼の真骨頂で「董卓からの弔いも贈り物も、絶対に受け取るな」 生前だけでなく、死後に至るまで、彼は董卓への妥協を拒み続けたのである。
董卓は外面を取り繕うため、形ばかりの厚遇を示し、東園の秘器を賜って葬礼を整えさせたが、これは表向きのものに過ぎなかった。
後世の思想家・王夫之は「皇甫嵩と蓋勳は大義を重んじて軽挙せず、進退に追われても権力に屈して従わなかった」と評している。これは、彼の生涯を見事に言い表した言葉である。
蓋勳は生涯を通じ、董卓に屈することなく、最後の瞬間に至るまで拒絶の姿勢を示し続けたのである。
参考文献
- 参考URL:蓋勳 – Wikipedia
- 《後漢書·巻四蓋勳傳》
- 《資治通鑑·巻五十八》
- 《後漢紀·巻二十五、二十六》
- 《資治通鑑·巻五十九》
FAQ
蓋勳(がいくん)の字(あざな)は?
蓋勳の字は元固(げんこ)です。
蓋勳はどんな人物?
後漢の官僚で、剛直さと義を重んじる姿勢で知られます。涼州での戦功、京兆尹としての強硬な姿勢、董卓への抗議などが代表的な事績です。
蓋勳の最後はどうなった?
初平2年(191年)、背中の腫瘍(背疽)が悪化して亡くなりました。享年51歳。遺言で董卓からの弔いを拒否し、死後もその姿勢を貫きました。
蓋勳は誰に仕えた?
後漢の朝廷に仕え、地方では漢陽太守・京兆尹などを歴任しました。
蓋勳にまつわるエピソードは?
仇敵の蘇正和を助けたが個人的な恩義は受けなかった逸話、涼州で孤軍奮闘し羌族に捕らわれても屈しなかった場面があります。
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